25話
着地できたはいいものの、ハーレンを見失ってしまった。辺りは落書きだからけの壁や、どこに繋がっているかも分からない階段に囲まれている。
とにかくまた高いところで場所を確認しようと、階段を上がろうとすると、背後からピリッとした冷たい空気が流れた気がした。
ここは蒸気が噴き出すスラム街。空気は熱くてむわっとしている。なのに、背中だけは氷のように冷たかった。
恐る恐る後ろを振り向くと、背の高い女性が立っていた。
青い髪に、深紅の瞳で不敵に微笑む姿には見覚えがあった。
ハーレンが怒った時の顔にそっくり。
顔にしわは寄っていなく、ただこちらを見て笑う。美人なのもあって人間味がなく、冷や汗が流れた。
「はじめまして。李夏くん」
りん、と鈴のなるような優しい声色。恐怖で声帯が締まっていると、女性は返事を促すように李夏に近づいた。
「は、はじめまして……」
なんとか絞り出すように返事を返した。女性は満足気に笑ってこれ以上李夏に近づくのをやめた。
「あの高さで落ちて無事だなんて、さすがニーナ様のお子さんだね」
その言葉に、李夏の全身がびくりとはねた。
「母のこと、知ってるんですか」
母はスラムに関わりがあることは少しも言っていなかった。それなのに、マーレイと名乗る人物は母をよく知っているような口ぶりだ。
李夏は一歩後ずさる。表情からは警戒が抜けない。
「私はマーレイ。ニーナ様には助けられたんだ。命を、ね」
言葉は柔らかい。だけど、李夏を見る瞳は蛇のように冷たく、心の奥を見透かされているようだった。
「命を……?」
いつの間にか、李夏とマーレイの間にはかなり距離が空いていた。
マーレイは困ったように笑うと、近くのベンチに座って隣を叩いた。こっちにこい、と促すように。
「いいよ。話してあげる。あなたのお母さんは信じられないほどの人なのよ」
今はハーレンを探すことを優先したいが、マーレイは李夏の知らない母の姿を知っているようだった。
李夏は深呼吸をして覚悟を整えて、マーレイの隣に座った。
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「前のスラムはね、今よりもっと荒れてたの」
そんな話し出しで始まったマーレイの話。彼女の横顔はどこか寂しいような、悔しいような、そんな表情をしていた。
十年以上前の話。その頃のスラムは絶えず鳴り続ける銃声や悲鳴で溢れ、毎日死人が出るほどの抗争が頻繁に起こっていた。
足元は血や死体で埋まり、足の踏み場もなくなっていた。だから彼女もまた、死体を踏んで進むしかなかった。
ある雨の日、ぬかるんだ地面を幼いマーレイは二人の弟を背に隠して進みながら、どこかで助けてくれる大人や誰かを探す。しかし、どこにも人はいなかった。
「ちょっと!なんでこんなところに子供がいるの!」
雨音の中で、その声だけが鮮やかに響いた。直後、マーレイの体に温もりが触れる。三人まとめて、優しく、でも力強く抱きしめられていた。
声の正体は小柄な女性。短い金髪に、明るい緑色の瞳。初対面なはずなのに、なんだかすごく安心した。
彼女自身も雨でずぶ濡れになっているのにマーレイたちを優先したのだから。
女性は自分のコートをマーレイに渡し、弟たちを抱えると、
「まだ走れる?暖かいところに行こう?」
とマーレイに言った。ずぶ濡れで微笑む女性の姿が、マーレイには英雄のように見えた。
女性に連れられてやってきたのは小さなシェルターのような場所だった。
中にはぽつぽつと人がいて、老若男女幅広い年齢層の人がいた。
その中に、女性が帰ってすぐさま駆け寄ってきた青年がいた。
「ニーナちゃん!大丈夫だった?」
女性の名前はニーナと言うのか。青年はニーナから弟たちを受け取ると、優しく布団に寝かせた。
「こんなに小さいのに……」
そう呟く青年はまるで聖母に見えた。男性なのだから聖母と言う表現は不自然だが、その顔はまさに聖母だった。
青年は長い黒髪で内側が白い。いわゆるインナーカラーというものだ。そして落ち着いた水色の瞳を震わせた。
「ありがとうね。紗季」
青年の名前は紗季。紗季は振り返って柔らかく微笑む。
「ニーナちゃんも、そこの子もだよ。毛布があるから、体拭いてね」
そう紗季は言った。マーレイはそんな二人に両親のような安心感を感じていた。
ニーナは体を拭いたあと、気が抜けたように椅子に座った。疲れたーと言いながら、小さいお菓子を食べている。
椅子に沈み込んだまま、小さなラムネを一粒口に入れたニーナは、ふとマーレイの方に視線を向けた。
「名前、教えてくれない?」
他人に名前を教えるなんてスラムでは自殺行為。だけど、この人たちは違うとマーレイの直感が言っていた。
「……マーレイ。弟は、あっちがサーレイで、一番小さいのがハーレン」
そう言う、ニーナは「名前似てるね!」と気の抜けたことを言いながら嬉しそうに笑った。そして小鉢に入っていたラムネを手に取り、マーレイに差し出した。
「食べる?」
なんてことのない、ただの世間話。そんなくだらないやりとりが、マーレイにはたまらなく幸せに感じた。
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そう話すマーレイの横顔はとても穏やかなものだった。過去を懐かしむような、でもどこか寂しそうな。
正直、李夏はそんなニーナの行動が信じられなかった。李夏の知っている母の姿は厳しい人で、ごくたまに優しい顔を見せてくれる。
優しい人ではあることは分かっていた。しかし誰かにこんなふうに優しくしている母の姿は想像したこともなかった。
「そこでね、ニーナ様には子供がいることも教えてもらったの。ニーナ様にそっくりな外見に、勢いはあるけどどこか頼りない。一目見たときからあなたが李夏くん……ニーナ様のお子さんだって分かったわ」
マーレイは李夏の目をじっと見つめて言う。回想の中の彼女は幼く初々しい。でも目の前にいるのは居るだけで心強い、けど少し怖い最強の味方のようだ。
彼女ならハーレンの居場所もわかるのでは。李夏はようやく本来の目的を思い出す。
「あの、ハー……」
長い青髪が視界をかすめた次の瞬間、ぐい、と肩を引かれる。
気づけば、李夏の目の前には背中があった。鋭く尖った怒りと、庇うような強さを秘めた背中。
「姉貴!何勝手に手出してんだ!」
怒声と共に立ちはだかったのは、ハーレンだった。青い髪は汗に濡れて額に張りついている。肩越しにこちらを振り返る横顔には、李夏を守ろうとする必死さと、苛立ちが混じっていた。
「優しい先輩になったのね。後輩を守るなんて」
感情が昂っているハーレンとは反して、マーレイはひどく冷静だ。むしろ彼女の思惑通りに動いたハーレンを愉快そうに眺めているまでもある。
「くっそ……!李夏をダシに使ったってのかよ……」
いつもと様子が違うハーレンに李夏は困惑が隠せなかった。自分の知っているハーレン先輩はもっと頼れる、兄のような存在で……でも今は口の悪い思春期の少年のように見える。
「こんなに気持ちよく罠にハマってくれるなんてね……!」
マーレイは肩を震わせながら、声を押し殺して笑った。それにつられて、李夏も息が漏れる。
李夏が笑っていることに気付いたハーレンは怒りや羞恥が混じった目で睨んだ。普段なら恐縮している場面だが、今の李夏は少しも怖くなかった。
怒鳴られても、睨まれても、それ以上にハーレンが守ってくれたことが嬉しかった。
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「はー……久しぶりにこんなに笑った……ところで」
マーレイはゆっくりと呼吸を整えて、あの怖い顔に戻る。
また、空気が変わった。マーレイは空気を変える天才なのか、彼女に出会ってからコロコロと場のテンションが変わっている。
「ハーレン、改めて聞くけど本当にスラムに戻る気はないのね?」
ハーレンの肩が揺れたような気がした。恐怖、というより罪悪感で体が震えているようにも見える。
李夏は今のハーレンに共感できる。李夏自身も罪悪感から何年も目を背けていたこともあり、ハーレンの情緒が不安定になっていることも分かった。
「戻らないって、何度も言ってるだろ」
口調こそ強かったが、その声色は恐怖にまみれていた。冷や汗がハーレンの顎をつたって、地面に落ちた。
「……そう」
マーレイがどんな顔をしているのか、李夏からは見えない。それでも、初めに見たあの笑顔より、今の沈黙の方がよほど怖い。
マーレイの顔が、一瞬だけ見えた。それは、言葉には表すこともできないほど静かで、冷たい瞳と目が合った。
その時、李夏の視界の端に黒い何かが映った。大きな、手のようなもの。
その手はハーレンに向かって伸びているようで、李夏は咄嗟にハーレンの腕を引いた。
手が地面に突き刺さる。その衝撃で地面にヒビが入り、土埃が舞った。
「李夏くんって、何もかもニーナ様にそっくりなのね」
マーレイは小さくため息を吐いて黒い手を自分の方へと引き寄せた。
「……逃げるぞ。李夏」
ハーレンはマーレイを真っすぐ捉えたまま、李夏にだけ聞こえる声量で言った。
「で、でも……」
逃げるなんて。李夏はそう言いかけたが、気さくではあるがいつも冷静であったハーレンの横顔が酷く怯えていた。
「……はい」
李夏が答えると同時にハーレンは持っていた銃を地面に向け、黒煙を放った。
煙は辺りには大きく広がり、二つを覆い隠せる程になった。
そのうちにハーレンに引かれるまま、李夏たちはスラムの路地裏へと入っていった。
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二人が入った路地裏は特に荒れていた。誰かが食い散らかしたであろう食べカスやそのゴミが落ちていて、そこにカラスが群れていた。
「……なんでここに李夏がいるんだよ」
ハーレンの声には怒りが混ざっていた。眉間に皺を寄せて、李夏をギロリと睨む。
やっぱり先程のマーレイの顔とそっくりだ。李夏はそんな場に合わないことを思ってしまった。
「スラムに入るハーレン先輩を見たんです。それで、気になってついて来てしまいました」
李夏は正直に話した。嘘をつく理由もなかったから。
ハーレンは一瞬驚いたように目を開いたが、その後諦めたように息を吐く。
「見られたなら仕方ない。俺の目的を教える代わりに、秘密にしろよ?」
そう言ってハーレンは人差し指を口元に当てて、しーっという仕草をした。
「マーレイってのは姉なんだ。俺のな。それから、バールヤの街にサーレイがいただろ。あいつは兄でさ。俺はサーレイを探すために騎士団に入った」
李夏は僕と同じ目的だったんですね。そう言いかけたが、話をややこしくしてしまうこを悟って黙ってハーレンの話を聞いていた。
「バールヤの街でサーレイに会えたからそれの報告を姉貴に、それから姉貴のスラムに戻るっていう誘いを断りに来たって感じだ」
ハーレンにとってスラムは一度捨てた場所だった。しかし一人残された姉に罪悪感を覚え、こうしてスラムに通っているのだった。
「俺としては家族より自分を取ったクソ兄貴のことは考えたくないが、それだと姉貴が悲しむから。……情けないよな。捨てたくせに、のこのこ帰ってくるなんて」
はは、と乾いた笑い声をあげてハーレンは路地裏の壁に寄りかかった。
「……ハーレン先輩は、偉いですよ。意地張って相手を避けるより、気まずくても話せる機会を作った方がよっぽど立派です」
「誰目線なんだよ」
ハーレンは李夏の言葉に安心したのか、今までの力が抜けたようにその場に座りこんだ。
「二人とも、お話は終わった?」
鈴の鳴るような声。
一気に緊張感が張り詰め、気温が下がったかのような感覚になる。
突然、目の前にいたハーレンが宙に浮いた気がした。次の瞬間、鈍い音と共に壁に打ちつけられた。
「がッ……!」
ハーレンを壁に打ちつけた正体は、一人しかいない。
「……お願い、こんな手荒なことさせないで。でも、こうするしかないのよ」
マーレイの足元の地面から、黒く大きな手が生えている。手はマーレイの動きに連動して、ハーレンをさらに抑えつけた。
ハーレンはさらに嗚咽を漏らす。瞳孔は大きく開き、苦しそうに咳き込んでいる。
「マーレイさん!なにして……!」
李夏はハーレンの前にプロテクトで壁を張る。
「李夏くんには関係のないことよ。これは私たち家族の問題」
黒い手に触れられた瞬間、全身を押し流すような風圧を感じた。李夏の体は浮かび、視界がぐるりと回る。
気づけば地面は遠ざかり、李夏の体は風を切って遠くに飛んでいく。だめだ。ハーレンたちが小さくなる。
そして、見えなくなった。




