プロローグ
戦争が、終わった。
つい最近まで爆発音が絶えなかったが、今日は静かだった。
つい最近と言っても、数年前の話だ。しかし戦争が残した爪痕は年が経っても癒えることはない。
ある雪山に刃物が振り下ろされる音がした。刃は空を切り、そして薪を割った。斧を持った金髪の少年はふぅと息をつく。
少年は薪を拾い上げて小屋の中に戻っていった。
こじんまりとした小さな木製の小屋。少年は少し古くなって重い扉を開ける。
家には最初から誰もいない。少年にとってはこれが当たり前の生活だ。
薪を小さな暖炉に入れて、呪文を唱える。
「《ピリカ・フレア》」
人差し指を立てて、指先に炎が灯るようなイメージをする。
何も、起きない。
少年は諦めたように深いため息をついてマッチに火をつける。マッチを暖炉の中に放り込んで、しばらく近くに座って待つ。焚きつけ用の木が燃えてきたのでまた追加で薪を入れる。
やがて部屋の中が暖かい空気で満たされてきたら、少年は立ち上がって机の上にある本を手に取った。
深い赤の表紙は色あせ、所々ページが破れている。しかし埃はついていなく、少年が丁寧に手入れしているのが分かる。
少年はそっとページをめくった。書き出しはこうだ。
『6月15日、私は母親になった。名前は頑張って決めた。柔らかいけど芯のある果実の名と、光の象徴である季節の名からとったの。きっとこの子は誰かの太陽になる。私の誇り。私の太陽。』
少年はこの文章を何度も読み返し、そのたびため息をついた。
「……僕は、そんな眩しい人間じゃない」
少年は目を瞑って上を見上げた。暖炉の優しいぬくもりが、彼にとってはプレッシャーをかける邪悪なもののように感じた。
少年は友を、家族を見殺しにした。あの日を思い出すといつも胸が苦しくなる。自分が逃げる瞬間の友の顔が忘れられない。彼は、ショックを受けていただろう。きっと自分を恨んでいる。
この本の持ち主……母がこのことを知ったらなんて言うだろうか。自分に失望するだろうか。それとも罵倒するだろうか。
いいや、母はそんなことをする人ではない。厳しかったけど、それ以上に優しい人だった。そして日記をつけるのが趣味だった。「何か書かないと忘れちゃうから」と言っていつも寝る前に書いていたのを覚えている。
その時は日記を書くなんて時間の無駄だと思っていたけど、今はその日記に助けられているなんて、皮肉なものだ。
母は色々なことを教えてくれた。体術や武器の使い方、生き抜くための世渡り術、勉強は専門外だったから父が教えてくれた。
少年は次のページをめくる。そこには平凡で平和な日常が綴られている。例えば今日は寝坊してしまったとか、鍛錬の後の氷菓はおいしいだとか、家族で雪合戦をしたとか。本を楽しい思い出が小さなイラスト付きでページを埋めていた。
そう。この時は幸せだった。少年は断片的にしか覚えていないが、母に抱かれ、父に頭を撫でられたあの感覚は心地よかった。
本も最後の方になった頃だろうか。日記は不穏になっていく。
日にちは途切れ途切れになり、文章の量も減っている。イラストもなくなり、無機質で短い文章だけになっていく。
最後に書かれていたのは『明日はいい日になりますように』。
それ以降のページには、何も書かれていない。ただ白い紙が続くだけだった。
少年はそのままベッドに倒れ込んだ。日頃の暮らしや鍛錬で体が堪えていたのだろう。そして本能のままに目を閉じ、気絶するように眠った。
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ノイズが走る。
「まって!! いかないで!!!」
人形の少年は言う。彼の体はヒビだらけで所々欠けている。人形の少年は最後に、頭を踏み潰されて醜く散った。そのことに満足した人間は、高笑いしながらその場を去った。
そこに残っているのは壊れた人形と、友達を見捨てた人間の少年だけだった。
ノイズが走る。
目の前にいるのは誰だろうか。青い暗髪が太陽に反射して明るくなった。
「もしここが安全じゃなくなったら───」
目の前にはとても小さくて大きな手。傷だらけで所々マメが出来ているのがわかる。
少年はそんな手に虜になった。
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「(……またこの夢)」
少年は目を開ける。彼は肩まで伸びた、少し毛先がはねている黄金の髪。小柄ながらも筋肉はついているが、空腹なのか痩せ気味だった。
食べ物の匂いの前に、木の焦げた匂いが鼻を劈く。辺りは焼け焦げ、木は倒れて周辺の視界は晴れている。
「……おなか、空いた」
少年は倉庫に置いてある最後の食料を手に取り、口に入れる。鹿肉を干したもので、ギリギリまで残して置いたから味はとても美味しいとは言えない。
もちろん、こんなものでお腹が膨れるわけもなく、少年はふらふらと立ち上がる。
そして慣れ親しんだ小屋の明かりを消し、準備してあった荷物を取る。最低限の食料や水などのキャンプ一式に、護身用の剣。それから少量の金貨。
鍵はしめなかった。かつて自分がこの小屋を見つけたとき、鍵がしまっていなかったから。次また困っている人に小屋を使って貰えたら。そんな少しの善意でこのままにしておく。
少年は扉をそっと閉める。
「もう、ここにはいられない」
その呟きは、冷気と共に消えていった。
辺りは少し灰が混ざった雪景色。少年がいるこの空間だけは、今起こっていることを忘れてしまうほど綺麗だった。
雪に光が反射して少年を照らす。口からは白い息が漏れる。
目的地はフィラデルフィアという国。世界で最も大きな面積を持ち、最も大きな軍事力を持っている。
辺りを見回すと小さな緑、それからたくさんの灰色。動物などいない。あるのは虫を飛ばす死骸のみ。
少年は幼少期に助けてもらった青髪の青年の言葉を頼りに、フィラデルフィアへ向かう。
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目の前が白から緑に変わる。
「……こんなに綺麗な場所だったっけ」
少年は過去の記憶を絞りだす。雪山に籠もる前にちらりと後ろを振り返ったときの記憶。
一面真っ黒で、炎の熱さで溶けてしまいそうだった。木々も、花々も、最初からなかったかのように灰になった。
終戦後なので危険では無いにしろ、辺りはどこもかしこも荒れ果てている。
しかし少年のいる場所だけが戦争前と変わっていなかったのだ。足元は柔らかく、足首に草が当たる。木が生え、平和そうな顔をして鳥は鳴く。
少年の頬を優しい風が撫でる。暖かく、もう防寒着は必要ないようだ。
「本当に騎士団があるのかな……嘘だったら、絶対殴る」
少年はあの青髪のおちゃらけた姿を想像して勝手にイライラを募らせていた。拳をギュッと握る。
正確な目的地はフィラデルフィアという国にあるラルヴィ聖騎士団。国を治め、騎士団長は同時に国王も務めていると言う。
少年は希望を胸に足を動かし始めた。足の傷に草が当たってこしょばゆい。
辺りを見渡しながら、フィラデルフィアを探す。あの青髪の青年に地図は貰っていたけど、もう何年も前だったのでボロボロになって使いものにならない。
「...あれは、町? せっかくだし寄ってこうかな」
遠くの方に町があるのが目に入った。あまり大きな町ではないが、少年を迎えてくれそうな、そんな感じがした。
町に門は無かった。防衛機能がないなと心配するも、それも平和の象徴と言えるだろう。
まず少年が向かったのは食料調達だ。山でもたまにご馳走にありつけることはあったが、この様な土地ならではのご飯を食べてみたかった。食べ盛りの時期というものもあるが今まで食べれなかった分、とにかく食べたかったのだ。
「これ、何の肉だろう...美味しそう...」
少年には他に目的があったのだが、今は目の前の肉のことしか考えられなかった。
「お、それが気になるのかい? 良かったら少し食べて行っておくれよ」
感じの良さそうな店員のおばさんに話かけられる。
「え、あ、はい」
おばさんは後ろにあった肉を少しちぎって少年に渡した。
「お代はいらないよ。少しだけだしね」
「ありがとうございます」
店を離れた少年は路地に座って肉を食べ始めた。
「………美味しい……! 」
口の中で濃厚がとろける。とても柔らかく、子供や老人であっても食べられるほどだ。それに薄くスパイスが効いていていくら食べても飽きない。
「お、おい。大丈夫か...? 」
程よく低い青年の声にはっとする。少年は美味しさを噛み締めるあまり、小さく唸り声を出していたみたいだ。
「...!?」
「苦しそうだったけど...あ」
青年は少年の手元を見て恥ずかしそうに斜め下を向いた。
「悪い、てっきり具合が悪いのかと...」
「い、いや...」
2人の間に数秒の沈黙が流れる。最初に口を開いたのは青年だった。
「お詫びに、何か困ってることがあったらなんでもするけど...」
「なら…き、騎士団に....」
少年は小さく口を動かしかすれ気味の声で答えた。
普通だったら聞き返すほど小さな声だが、青年は耳が良いのか1回で聞き取り、驚いた顔をした。
「騎士団? 俺の職場だけど」
今度は少年も驚いた顔をした。
「この辺に来るのは初めてか? 案内してやるよ。着いてきな」
青年は歩き始めた。身長が大きいので一歩も大きい。小柄な少年は小走り気味で着いていった。
追いついた少年は青年をチラリと見る。青年は長い青髪で下のほうで1つに括っている。吸い込まれてしまいそうな真っ赤な瞳を持ち、耳の下の大きなピアスが揺れた。
どこか、「あの人」に似ている。同じような髪色と瞳の色。性格はだいぶ違うが、目の前の青年が「あの人」と重なった。
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「すぐ近くに騎士団がある訳じゃないんだけどな。アイツがこの町の肉が食べたいって言って聞かなかったんだよ。まったく...」
青年の雑談に少年は相槌をする。青年は少年があまり話さないことに疑問を持った。
「なあ、どうして話さないんだ? こういうの苦手だったか?」
不安そうな顔で少年に尋ねる。少年は少し困った顔で
「人と話すの、数年ぶりで」
「へぇ数年ぶり.....数年ぶり!?」
青年は大きく目を見開く。
「ずっと、雪山で暮らしてたんです。でも住んでいた場所が危険になって。だから移動しようと思って」
淡々と話す少年の姿が青年には酷く大人びているように見えた。
「...そうか。そういえば、自己紹介がまだだったな。俺はハーレン。騎士団に所属してるんだ」
ハーレンは空気を変える為にも普段より明るい声で自己紹介をした。
「時雨李夏。時雨が名字で、李夏が名前。ええと...」
「無理に言わなくていい。ほら、この川の向こうに騎士団がある」
ハーレンが指を刺した先にはとても大きな、要塞都市があった。
1番大きな建物が騎士団だろう。このことは町で盗み聞きした情報だが。慣れた様子で門に近づくハーレンとは対照的に李夏は恐る恐る足を進めた。
門の前まで行くと、門番に止められた。門番は背が高く、同じく背が高いハーレンが少し見上げる程だ。もし李夏が1人でここに来ていたら逃げ帰っていただろう。
「ハーレンさんか。そちらの子は?」
低い声。話し方は穏やかだが、声の低さに威圧感は満載だった。
「お客さんみたいな感じだ。特に危険物も持ってないし、入れてもいいよな?」
「そうですね。少々検査をしても?」
門番は李夏の方を向き、屈みながら言う。
「……どうぞ」
李夏はそう答えるしか無かった。
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結論から言うと、門番は怖い人じゃなかった。部外者である李夏を嫌悪に扱わず、検査が終わると快く受け入れてくれた。
門をくぐると明るい光景が広がっていた。戦後直後というのに人々は希望に満ち溢れていた。
「フィラデルフィアへようこそ。旅人さん」
ハーレンは格好をつけて言う。李夏が呆然としているとまた、出会った頃のように恥ずかしそうな顔をして急かした。
「...こっちだぞ」
ハーレンに着いて行くと国の門より更に大きい門が待っていた。とても厚くて重そうで、厳重に閉じられている。ハーレンは何か扉をゴソゴソといじると、音をたてて扉が開いた。
騎士団の敷地に入るとまず出迎えたのは大きな庭園だった。
色とりどりな花や低木が植えられ、鳥の親子が木で休んでいる。奥には大型の学校が並び、寮もあり、更に奥にはお城が見えた。
また、優しい風が李夏の頬を撫でる。
「...すごいですね。ここに来てから、感動しかしていないです」
「そうか。それは国民として光栄だな」
庭園を進み、騎士団の扉を開けると、大きな地響きが起きる。
耳が割れる程の大きな音が鳴り響く。2人が耳を抑えていると、ある人影が目の前にあった。
「おかえりハーレン先輩!お肉買ってこれた?」
「お前は静かに動くことも出来ないのか...?」
一言で言えば、騒がしい。李夏の第一印象はそれだった。
あまりに派手な登場に固まっている李夏を差し置いて、ハーレンと騒がしい人はギャーギャー話している。
「もう!私から爆発とったら何が残るっていうの!」
「はいはい分かったから!今はお客さんが来てるんだから、騒ぐなら後でしろ」
ハーレンの声に、騒がしい人は李夏を見る。
騒がしい人はオレンジ色の髪に水色の瞳で、長い髪を三つ編みにし、カチューシャのようにしている。つまり、オシャレな人だ。
先程あんなに激しい爆発の中から出てきたというのに、服はまったく黒ずんでいなかった。きっと身のこなしが良いのだろう。
「あなたがお客さん?私ライル!苗字はロワイユ!」
騒がしい人改め、ライルは軽く会釈をした。明るい話し方とは違って、会釈のやり方は上品そのものだった。まるで日頃から訓練を受けている貴族のような...それにロワイユという苗字も、李夏はどこか聞いたことがあるように感じた。
「誰かに用?呼んでこよっか?」
李夏が答えようとすると、奥の扉が開き、息を切らして女性が走ってきた。
「あなた、李夏くん!?」
彼女は腰を超える程の緑色の長髪に、天使族なのだろう。頭に浮かぶ光の輪があり、そして瞳の大きな星が印象的だ。
そう言い急に肩を揺らしてきたが、何とか耐え、そうだと答えると女性は安心したような顔になり李夏に抱きついた。
「良かった!生きていたのね!」
「へ....?」
李夏の顔に熱が集まる。なんせ生まれてこのかた、女性に抱きつかれるような経験は全くなく、関わったことのある女性なんて母と近所の女の子だけだ。
突然の出来事に脳の処理が追いついていないとハーレンが慌ててその女性を引き離そうとする。
「ちょ、団長、いきなりはまずいですって」
団長と呼ばれたその女性ははっとして李夏から離れる。
「自己紹介をさせて。私はカナリヤ。騎士団の団長をしてるわ。さっきはごめんなさい。実は先生...いや、李夏くんのご両親にはとてもお世話になったの。お二人が家に帰った時に爆撃にあったと聞いて、心配だったのよ」
「ご両親、騎士団を出る時にね、『もし私たちに何かあったら子供たちをよろしくね』って」
李夏は何も言わずにカナリヤの話に集中した。
「だから李夏くんが来てくれてとても嬉しい。生きててくれてありがとう」
カナリヤはもう一度、李夏を優しく抱きしめた。カナリヤからはあの優しい風の香りがした。
「...両親は、生きてる?」
李夏からカナリヤの顔は見えない。
「生きてる。そう信じているわ」
そう言うカナリヤの目は真っ直ぐだった。李夏はカナリヤの目の中の星に全てを見透かされている気がした。
もしかしたら、あのことも見透かされているのでは。そう思うと背筋がゾッとする。
「さ、ここまで長かったでしょう。空き部屋があるから、休んで」
先程までの空気とは打って変わってゆるっとした雰囲気になる。目の前にいる人がさっきまでの鋭い眼光の持ち主とは、信じられなかった。
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部屋に向かう途中、カナリヤが話しかけてきた。
「もし他に行く宛てがないのなら、ここに居てくれない?」
李夏にとってそれはとても嬉しい誘いだった。もし少し休んで行ってらっしゃいということになったらまた雪山に戻っていただろう。
「わかりました」
李夏は二つ返事で答えた。
「良かった。ここにくる途中で見たと思うけど、騎士団には学校も併設されているの。何か名乗れる職があったほうが都合がいいし、是非入学して欲しいわ。ちょうど入学の時期だしね」
「わ、かりました」
李夏は返事に詰まったがあまり大きな心配事ではないだろう。ただ、一人でいた時期が長いだけ。それに「あの人」と過ごした時間もある。慣れれば大丈夫なはずだ。
そうだ。「あの人」のことを聞いていなかった。あまりに多くの出来事が短時間で起きたため、自分の目的を忘れるところだった。
「あの」
「じゃあまた明日」とカナリヤは歩き出そうとしたが、李夏の声で足を止めた。
「サーレイさんは、どこにいますか」
李夏が口にした言葉に、カナリヤの顔は一気に曇った。
まるで、「サーレイ」という名を出してはいけないというかのような瞳で李夏を見つめている。
「……どこにいるんでしょうね」
カナリヤはそう低い声で言うと、逃げるようにその場を去った。
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その日、李夏は用意された部屋にあるベランダで外の景色を眺めていた。ただの客人なはずの自分をもてなし、豪華な部屋も貸してくれた。カナリヤさんとかいう人には頭が上がらない。
李夏はふぅーっと息を吐く。張り詰められていた緊張がほぐれたように、一気に体に力が入らなくなる。
これから、どんなことが起こるのだろう。李夏の中には心配と期待が交互に訪れる。
しかし心残りはやはり最後のカナリヤの反応だ。「あの人」……サーレイはなぜ騎士団を去ったのだろう。自分から来いと言ったくせにいなくなるなんて、自分勝手な人だ。
「サーレイさんの、バカ」
李夏はそう呟き、ふかふかなベッドに倒れ込んだ。そして荷物から母の日記を取り出し、続きを読み始めた。
日記の内容は他の本でも見たことがある。あの英雄に関する本だ。
当時のフィラデルフィアを治めていた若い女性。短い金髪に、輝くような明るい緑色の瞳を持っていた。彼女は人形との戦争を終わらせ、どこか遠い場所で静かに息絶えた。
後に英雄は『オルド』と呼ばれた。
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これは、友を捨てた少年が、再び友を守ろうとする旅のはじまり。