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ある1人の女の幸せ

作者: Sakura

恋をすると強くなると聞いたことがある。

そして他の場所では愛を知ると弱くなると読んだ。

初恋は甘酸っぱいらしい。それなのに、結婚は辛酸を共に舐めるそうだ。



私はまだ恋も愛も知らなかった。まして、結婚なんて別の世界の御伽噺とすら思っている。


幼い頃から好きなことがたくさんあった。美味しいご飯も、家族の笑顔も、友人たちの笑い声も、共感出来る音楽も、全部全部大好きだ。


そしてそれは歳を重ねるほどに多くなっていく。難しい本が好きだ。知らない感情も、知らない世界も、知らない言葉も全て本が教えてくれる。

それと同時に旅が好きになった。文字の中に存在する綺麗な景色を、実際目に入れたいと思ってしまった。

それと同時に言葉のない音楽が好きになった。音の一つ一つが光ったり、跳ねたり、暗闇を創ったり、激情を写す様が面白かった。


人間の脳みそにはキャパシティがあると思う。それは好きな物にも通じていて、好きになれるものの量はきっと決まってしまっているのではないか。

そうなると、私の頭の中にはこれ以上好きな物は増やせない。どれかを捨てることなんて、ましてその熱量を下げることなんて出来ないのだ。

人間はパソコンのように、外付けのハードディスクなんてものは存在せず、ディスクは生まれた時に与えられたたった1つだ。その容量を大切に、何十年の人生で埋めていくのだ。



毎日、その他の人間と同じように会社に行き、帰る。そして休みの日には大好きなことを好きなだけ楽しむ。そしてまた会社へ。


そんな毎日を繰り返していたが、特に不満もなかった。


他人と関わることは少し苦手だったが、会社のいい所は、その他の人間として人を括れることだ。無理に干渉せず、一定の距離をとっても仲間外れにされない環境は居心地が良かった。


人が嫌いだ。自分一人で全ての生活と娯楽が完結するのであれば、それほど望むことも無い。

私は私で、その他大勢は関係の無いはずなのに、世の中はそうでは無いらしい。

私のことを変わった子だという。そしてあろう事か1人で居ることを可哀想だと囁くのだ。それが私には、どうしても理解できない。

世の中には理解できないものが多いが、これはまたそれらとは種類の異なる気持ちの悪いものだった。


1人が好きだ。誰にも邪魔されない静かなカフェで、心置き無く好きな食事と飲み物を。そしてそこでも大好きな音楽と本を。それだけで私はひたひたに満たされるのだ。そこには他人にどう言われても、過不足なかった。



しかし、少し前に、なんとなく目を引く男性に出会った。どうしてそう思ったのかはついには分からなかったが、その後も記憶に残り続けるのだ。

その男性に出会ったのは、小さな書店だった。少し埃っぽい、それでいて有り触れた書店だった。

もしかしたら、あの男性がいやにキラキラして見えたのは舞う埃と、窓から差し込む陽の光のせいだろうか。今となってはそれも分からないが。


それから数度、同じ場所で彼に会うこととなる。その度になんとなしに目で追い、いつの間にか追われていたそうだ。それを知ったのはつい最近のことだが。

運命と言うには埃臭く、しかし偶然と言うにはキラキラしすぎている出会いだった。



これもなんとなしに、食事に行った。きっかけがどちらだったかなんてもう覚えてもいない。ただ言えることは、どちらも少しずつ気があったということなのだろう。


何ともなしに時間は過ぎるもので、なんとなしに人は選択するものなのだろう。意図した事なんてほんのひと握りなのかもしれない。



食事は楽しかった。目の前で見る彼は、思ったよりも平凡だなと感じたことだけ覚えている。それまでは横顔だけだったから知らなかったのだ。それでも楽しかった。


様々な話をした。これまでに読んだ物語、そこから得た価値観、涙が出るほど美しかった景色、心を震わせた音楽。

同じ時間なんて、あの書店での、ほんの少しの時間だけのはずだが、まるで長い付き合いをしてきたかのように話があった。

彼の話は瑞々しかった。それはまるで、私には難しい本を読んでいる時の感覚に似ていた。



恋は落ちるものだと聞いたことがあったが、あれは本当のことらしい。


真っ逆さまだった。死人が出てもおかしくない高さからの。それでも、それに嫌悪感なんて微塵もなく、むしろその落下速度に心地良さすら感じた。大袈裟かもしれないが、何でもできる気がしたのだ。それはまさに、空をも飛べる気がした。



それでも私の好きな物は減らなかった。それまでと同じように、好きなことを好きなだけ楽しんだ。

容量がいっぱいだと思ってたディスクにはまだ空きがあったようだ。しかし、これでいっぱいな気がした。これ以上は身に余ってしまうと思うほど、満たされ、幸福だった。



間違いなく私の抱くこれは、恋心だった。そして彼の抱くそれも。なんとなく同じ気持ちなんだろうなと感覚で分かるのだ。


彼とだったらこの先を考えた。終点である結婚も、彼となら構わないと本気で思った。むしろ彼との、終点が欲しくなっていた。



しかし子供が欲しいかと聞かれたら分からなかった。子供は好きだ。何も知らない無垢な瞳が好きだ。あの愛らしくころころと変わる表情が好きだ。


それでも自分の子は、と聞かれると否だ。きっと可愛いだろう。そして愛おしいだろう。しかしそれだけではダメだと思う。


自らで選択して、子供を授かったのなら、それ相応の覚悟と責任を伴わなければならない。

自分にはそれを持てるかがどうしても分からなかった。人生は“なんとなし”が罷り通ると思っている。しかしこればかりはなんとなしに選択するには、あまりにも怖かった。そしてそれはなんともイケナイコトな気がした。彼、もしくは彼女の人生の一端を担うには、私はあまりにも弱い。弱い私は、自分が生きていく事に精いっぱいな気がした。そして、幼少期のトラウマと呼ぶにはちっぽけな経験も関係していた。


しかし彼にこの思いを話すのも怖かった。“普通は”結婚を望むのなら子供を授かりたいと考えるそうだ。それが逆の場合もあるそうだが。

しかし私の“普通”は、その他大勢の“普通”ではない。

彼はその他大勢なのだろうか。私とは異なる思いなのだろうか。そう考えると、“普通”を共有出来ないということは、彼の側に居られない、いる資格がないという事なのだろうか。


こう考えた時、初めて自分が“普通”でない事が怖くなった。


そんな葛藤を抱えている日常の中で、突然彼が“なんとなしに”と言うふうに「一緒に生きようか」と。それは出会った書店のすぐ隣にある、私たちお気に入りのカフェでコーヒーを飲みながら。


ブワッと顔に血液が集中するのが分かった。頬がどんどん熱を持つ。思わず触れると、やはり思った通り、熱かった。


嬉しかった。そしてどうしようもなく舞い上がった。誰かと一緒に生きたいと言われるのは、自分を全部丸々肯定されたような心地がしたのだ。こんな幸せが待っていたのかと思ったほど。彼は、私との終点を望んでくれているのだ。私の独りよがりではなかったのだ。


しかしそのままの返事を私はできない。言葉を発しない私に彼は怪訝そうに、それでいて悲しそうな表情をした。


ここで腹を括るしかないようだ。全てのことを話そうと思った。



私は家族には恵まれていたと思う。この身に有り余るほどの愛情を注いでもらった。ぶつかることもあった。どうしようもなく嫌いそうになったこともあった。しかし、今となっては、それすらも愛情だったとわかるのだ。


私には姉と妹がいて。その二人と私は良好な関係を築いていると思う。それでも幼少期の、愛情を三分割されていたという気持ちはぬぐい切れなかった。平等に、そして均等にだったのなら、まだ少しはましだったのかもしれないが、人の心というものはそうもいかないものらしい。親も所詮人なのだ。人間が子供を持つことで、親という存在になるだけなのだ。


我が家の場合は、姉が最も可愛がられていたと、私を含めた下二人はずっと思っている。それもそうなのだ。姉は親の言うことをよく聞き、模範的な娘だったのだから。


それに比べて、私は模範なんかくそくらえと言いたかった。敷かれたレールの上を行くことが嫌だった。指図されることを最も嫌った。私は私で、好きなことも嫌いなことも、やりたいこともあるのに、それを抑圧されることが嫌だった。気持ち悪かった。


そして思ったのだ。私は、私と同じ思いをする人間が生まれないでほしいと。自分に向けられた愛情の量なんてものを考えるのは、どうしてもやるせなさと、自己嫌悪と、劣等感を募らせる。そんな、意味もない、考えても仕方のないことなんて考える必要のない、一人の人間をこの世に、私が生み出せる自信なんかなかった。


それに、私は私で精いっぱいなのだ。これ以上、考えることを増やしたくもなければ、好きなことを我慢したくもなかった。



そんな私の言葉を彼は黙って聞いていてくれた。自分があまりにも卑屈なこと話しながら、自らでもそう感じたのだ。彼もきっとそう思ったに違いない。


しかし、彼の発した言葉は、「そうか」そのたった一言だった。



そんなたった一言で人は救われるのだ。どうせ、また、そんな言葉の準備は出来ていたのに、ついには必要にならなかった。しかし、彼の気持ちは分からなかった。私の話を聞いて、たった一言しかなかったのだから。


きっと私は微妙な顔をしていたと思う。言葉を聞いた瞬間の高揚なんてものは残っていなく、ただ不安ばかりが顔いっぱいに出ていたと思う。そんな私に、「それでもいいよ」と彼は言ったのだ。



それから彼と、2人っきりの生活が幕を開けた。ずっと一緒にいるということは、難しく、そして分かりあえない事も多かった。しかしそれすらも些細なことと思えるほど、私は幸福だった。


この空間には、自分の味方しかいないと確信していたし、彼に対してもまた、そういう存在でありたいと強く願った。


この幸せな生活が何年も続いた。きっとこの先数十年、私が私でなくなるその瞬間まで、この生活が続くと信じて疑わなかった。しかし、それは私だけだったようだ。彼ではない、私たちでは力が及ばない、何かはそう思っていなかったようだ。



ある日突然、強い眩暈と、吐き気に襲われた。幸い、その日、彼は自宅のソファで見ているのか、いないのか分からないバラエティ番組をBGMに、お気に入りの小説を読んでいた時だった。


ぐらっと視界が回って、次の瞬間には目の前に固いフローリングが迫っていて。それを他人事のように感じた。そのあとの記憶はないが、彼が呼んでくれた救急車によって、近くの大学病院の真っ白な天井が、フローリングの次に私の目に映った景色だった。


横に視線を向けると、彼は私の手を握りながら祈るようにしていた。私が少し動いた事に気づいたのだろう。少し目を上げ、私と見つめあって、そして小さな声で良かった、と呟やき、そして涙を流した。



こんな場面で言うセリフではないとは思ったが、「どうして私と一緒にいてくれるの」。気づけば、そう声をかけていた。彼は怪訝そうな顔をして、「心配するに決まっているだろう。どうしてそんなこと聞くんだよ」と少し怒った声で言われた。きっと私が今この瞬間の話をしていると思ったのだろう。


しかし私は今の話をしているわけではなかった。なんだか意識が浮上する前に夢を見ていたのだ。彼と出会って、今に至るまでの夢を。記憶の反芻は、私に疑問を抱かせた。未来に自分と彼しかいない私の考えに、彼はどうしてそれでもいいと思ってくれたのだろうか。



私は、考えを口に出すタイプだ。きっと誰しもがそう言うと思う。一方彼は、あまり考えている事を口には出さない。それに加えてポーカーフェイスだ。私と同じだろうと思って疑わない時期もあったが、今は彼はどうして私と一緒にいてくれるのか分からなかった。


あの日の事を思いだしても、彼は決して子供が欲しくないわけではないと思う。それどころか、外へ出かけると、子供を見て目を細めるほど、好きなのだと感じている。それならこの歳、もう若いとは言えないこの歳になって、私といる事に迷いが生まれていても、おかしくはないと思うのだ。そしてそれは私にとって悲しく辛い事なのだが、それでもどこかで仕方のない事だという諦観が生まれてしまっていた。



数日入院をして、自宅へ帰った。検査結果は、なんだか難しい事ばかりで半分も理解できなかった。しかし隣の彼は、時折相槌を打ちながら、私の何倍も真剣に医者の話を聞いていた。


帰り道、珍しく彼の方から手を取られて、不思議そうな私に向かって「君が僕の傍にいるって実感したいんだ」と言った。愛おしいという言葉はこういう時に使うのかと知った。

その日の夜、久しぶりに彼と身体を繋げた。彼の言葉を借りるなら、お互いそうでもしないと不安だったのだ。彼は、私を宝物に触れる時のように優しく撫でた。少しくすぐったかったが、それも嬉しかった。


そして、ベッドの中で心地いい体温を隣に感じながら、彼はポツリと呟いた。


「僕は、君と二人で生きていくのも悪くない、むしろ幸福だと思ってるよ」


そして、私がその言葉を聞いている気配を感じたのか、言葉を続ける。


「そりゃ僕も男だから、君との間に子供が欲しいと思ってしまうこともあった。君の過去や考え方を聞いてもね。でも君があの真っ白な部屋のベッドで目を開けた時、一番になぜ僕が君の傍にいるのかと尋ねられた時、君が僕が子供を欲しがっていることに気が付いていて、そんなにも悩んでいたのかと、だから第一声があんな悲しい言葉にさせてしまったのかと思うと、今、この幸せが続くことが、君が僕からの愛情を信じてくれることの方が何倍も僕の人生に重要な事だって思ったんだ。」


そして少し微笑みながら、彼は私の鼻先を指先で突いて笑った。


「君はちゃんと聞いていなかったみたいだけど、倒れた原因は…平たく言えばストレスだったんだよ。僕がそばにいながら、支える事が出来ていなかったどころか、僕が君のストレスになってしまっていたんだね…。ごめんね」


「そんな…違うの。貴方をストレスに感じたことなんて一度たりともないの。だから謝って欲しくない。」


ああ、私はなんて幸せな女なのだろうか。



そうして、彼と私。二人の生活がこれまで通り続いた。二人とも老いた部分を指摘し合って、笑って。そんな日々がずっと続いて、ずっとずっと続いて、幸い二人とも健康に年老いていった。このまま、ある日、ぽっくりと逝けたらいいね、なんて言葉が現実味を帯びてきた頃。


この日もソファで私は本を読んでいた。そしてふと思った事を彼に伝えたくて、小説から目を上げた先に私と同じように小説を読んでいた彼に目を向けた。


しかし彼はうたた寝をしてしまったのか、小説が手から落ちかけていた。その姿も愛おしくて、「こんな場所で寝たら風邪引いちゃうよ」なんて言いながら、近くにあったブランケットを膝に掛けた時、気付いた。


彼は幸せそうに目を瞑っていて、それはこの先開くことはないのだろうと。


その後の事はほとんど覚えていない。なんせ、私たちは二人っきりだったのだ。どうすればいいのか分からず、とりあえず病院か、いや、警察かと電話をかけて、色々と書類を書いて、出して。慌ただしい時間が続いた。


自宅に仏壇が届いて、その中に生前の姿なんてなくなった彼が小さな壺に入っている。骨壺を撫でながら、「全くあなたのせいで、大変だったんだよ?」小さく笑いながら、笑ったはずが、ぽたぽたと自分の手に温かい雫が落ちる。


「まだ伝えてない事があったの。あの日、急に伝えたくなったんだよ。今、伝えなきゃって思ったのに…遅くなっちゃったね。私ね、あなたと一緒にいる時間がすごく幸せだよ。大好き、愛してるよって…言いたかったのに…」


もう…聞こえないのかな?私の声は届いてないかな?濡れてしまった箇所を優しく拭いながら、小さな声で問いかけても、やっぱり返答はなかった。それでも、なんとなくだけど、届いてる気がした。


普段は寝室に布団を敷いて寝ていたけど、彼と離れたく無くて、仏壇の前まで布団を引っ張ってきた。この歳になると、それも結構大変な作業だった。


ふぅ…と息をついて、横になると、いつの日か彼と一緒に行った旅先で撮った写真の中の彼と目が合った。写真の中で微笑む彼に微笑みを返して、そうするとなんだか急に眠くなってきて、うとうととしながら、彼もこんなふうだったのかな。と思った。



「もし、ぽっくり逝くとしても、私の方が先がいいなあ…」

何がきっかけだったのかは忘れてしまったが、そんな話を彼としたことがあった。

「それは嫌だなあ…だってそうしたら、大好きも愛してるも最後に君に伝える事が出来ないじゃないか」

「それを言ったら、私だってそうでしょう?」

そんなどうしようもない会話を少し続けて、諦めたように彼は「もう…仕方ないから君が先でいいよ。本当は嫌だけど。君の我儘を聞いてあげる」と言って、私の大好きな笑顔で笑った。


これまで彼は嘘をついた事はなかったし、約束を破った事もなかったけど、最初で最後の嘘で、約束、破っちゃったね。


それでも怒りなんてものは全く感じず、むしろちょっと勝った気がした。私の我儘をたくさん聞いてくれた彼の我儘を最後に私が叶えてあげた気分だ。

なんだかいい気分になって、微睡ながらあの日、リビングで流していた音楽を口ずさむ。そして、もう一度重い瞼を上げて、彼の微笑みを目に焼き付けて、私も眠りについた。

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