8. ハムステッド4
はッと我に返った。何が自分を取り戻させてくれたのかはわからない。ルークは穴にかがみ込んだ。名を知らない草の葉が鼻をくすぐる。
「メアリーアン! おーい……」
と、叫ばなくても良い距離だった。真下。地面に腹ばいになり、彼女が下から手を伸ばせば、届く程度の深さ。被さる葉が光を遮り幅の広さはわからないが、そう狭くはなさそうである。
見たところ水はけも良さそうな、割合に居心地の良さそうな『穴』だ。もちろん落ちたばかりの当事者に、そのような考えなど浮かぶわけもない。
メアリーアンは覗けるスペースのほぼ中央に、憮然とした顔で座っていた。
「大丈夫なのか?」
「全然。めちゃくちゃだわ、私」
とりあえず、しっかりとした返答にほっとする。ルークは肩の力を抜いた。最悪も最悪の事態は避けられた、ことを確認。
こっちの命も助かった、と、取り戻した余裕をまずそんな考えに使う。
「怪我してんの? 立てるのか?」
「んー……。やって、みようかな……。いつかはやらなきゃならないことだし、そうでなきゃ一生穴の中なわけだし」
「んなわけないだろ。どうしたのさ?」
なんだってこそりとも動かないのか。
「怖いわ。足がヘンな風に曲がっていたらどうしよう。人間だったら無理だって形に、――なってない? そこから見える?」
「かろうじて人間だよ、全然。足は痛むのか、が知りたいんだけど」
「こ、言葉もないわ」
「なんでストレートに痛いって言わないかな。ほら、つかまって。引き上げてやるから」
「大丈夫かしら。私実は重いかもしれない」
「実はってなに。見たとおりじゃないの?」
「あのね、ルーク。そういうことは」
女の人相手の場合は話題にしないルールがあって……。説教できる立場かよ、と、ルークの鼻息は荒くなる。
助けてやろうと手を差し出しているんだっつのに、その相手に何を言い聞かされなくてはならない。
「ご高説は後でも聞きたかないけど、必要だって言うなら約束もする。とにかくさ、とりあえず今は上がるべきだよ」
「だから上がるための手段について巻き起こる件についての話でしょ、これは。私が重いの重くないのって、引っ張ってみたらわかるかもしれないけど、それは私が言うのは自由だけれど、あなたは言ってはいけないのよ」
「同じ高さで話をしたら? 大きく他人に知らせるほどの内容でもなさそうだし」
!
器用にも座ったまま、横に飛び退くこと三メートルほどは。砂漠でサソリに遭遇した人間のような、本能的な素早さが発揮されていた。
動揺しまくりの頭は、それでも必死に考えようとしている。サソリ――ではなく、『彼』。ここへのフレディの出現を、可能にしたものはなんだろう?
彼女の方が簡単だった。以下、同じ意味を言っている。
「ど。――どうして、ここにいる……の?」
「仕事を終えて家へと帰るところだけど」
言葉を切ればため息が混ざる。ルークを見ないままにフレディは、縁のぎりぎりまで足を進め、赤土にも躊躇せず地面に膝を着いた。
穴の中を覗き込み、低く言う。
「君の方こそ、そんな下に位置していることについては、なにをした結果なんだか胸を張って語れるんだろうね」
「落ちたの」
「それは僕にも見ればわかるよ」
見せるためにゆぅっくりと首を振り、フレディはルークに振り向いた。
共犯者としては、――彼の悲哀を間近に見せられた、共犯者としては。
ルークはひょいと肩をすくめた。
「蔓を使ってさ、向こう側に渡れると思ったんだよ。もちろん、オレは止めたんだけど」
「ルーク、それ……。言って欲しくないことだったわ……」
「どれを? 止めたよね? オレは」
「そうじゃないの、私が蔓を握ったことよ」
フレディは蔓……、とつぶやきながら立ち上がり、手近の一本を軽く引いてみた。待つほどもなく、ばさばさと音が聞こえる。
草むらの中に、それが落下した音だ。葉から予測したとおりの結果。そろそろ吐く息すら底をつきそうだ、などとも思おうというもの。
確固たる意志すら感じさせる勢いで、握った蔓を放り投げる。手ごたえのないやつ当たりを済ませ、フレディは再び穴に屈み込んだ。
「とりあえずは引き上げて差し上げることにするよ。迷わないこともないけれど、君を地下の住人にしてしまうわけにはいかないし」
「ありがとう、フレディ。嬉しいわ」
「住人になりたいならそれでもいいんだよ」
「みんなと同じところに帰りたいです。午後のお茶に参加したいの」
「けれど冒険は楽しい記憶、だね? ミス・アリス。だけど君はいったいいくつなんだ、ミス・シモンズ」
「レディに年を訊くなんて」
「淑女にならば訊かないよ」
差し出した手にメアリーアンの手が重なった。