7. ハムステッド3
考えるまでもなく今は相応しい時でも場でもない。張り詰めたにも近い彼女の声に、厄介なテーマをこれ幸いと放り出し、ルークは状況の解析に専念することとする。
鳥ならぬ人影を追って足を踏み入れたのは、鬱蒼が何より自慢のローダーディルの裏の庭。庭と言っては庭の単語が泣く、これではさっさと森と表現してしまっても良さそうだ。
整然と計画され、明朗なフロントとは大違い、こちらは土地の人間でさえ夜の横断に二の足を踏むような森、魔物の何体かは棲みついていそうな雰囲気なのである。
時間つぶしに聞いた話では、伯爵の居間のバルコニーはこちら側を向いているそうだ。聞くほどに変な人だと思う。
この昼なお暗き森の向こうには、ハムステッドヒースが広がる。つまり森を抜けて敷地を脱しても、あまり変わらぬ景色があるわけだ。
さて、ドラゥフトは隣り合う木々の枝を伝い、なんとも器用に外を目指して進んでいる。見失わないように上を見つつ、足元の草や根を避けるために下も見なくてはならないメアリーアンの、進みは当然不器用だ。
一方ルークは姿など目に映さずとも、聞こえる葉音のみで充分だった。わかる。進む方角、そして――『ため』。
適当に間を取り、追跡者が見失わないようしているのだ。つまり自分たちは、追わされているのだとはわかりやすくも。
本気でかかっているはずはない。プロフェッショナルな警察ならともかくも、素人を誤魔化すことなどなんでもない。
本来ならば追われるどころか、その姿を目撃させることなく易々と、予定の品物を手に入れて姿を消していたはずなのだ。
一枝も揺らさずに、自分たちの頭の上を通過することなどなんでもない。
そう、話している自分たちの――と、ここまで考えてルークはまた熱を感じる。手など取り合い(実際にはつかまれていたのだけれど)見詰め合う(まぁ……そう言えなくも)自分たちを見て、父はどうとか思っただろうか。
そんなんじゃない。そんなんじゃないんだ。そうであって欲し……いんだかすらわかんないんだって!
再び混乱に堕ちた頭を、ルークは決死のコントロールで立て直した。定かではないことに騒ぐなど、愚かな真似に他ならない。冷静に、常に冷静にと、たいていの偉人も言っている。
果たしてドラゥフトが導く先はどこなのか。思考はそこに回すべきだが。
狙いはあるのか、とも思う。どうするつもりでいるのか、やはり教えておいて欲しかった。
「あらら?」
おかしな声と共にメアリーアンは立ち止まり、ルークも一歩後ろで足を止めた。がさがさと自分たちの立てていた草を分ける音、そして息遣いが聞こえなくなれば、静かな緑の空間である。
クマシデ、コナラが立ち並び、シダが覆い茂っている自然の真ん中。人間の踏み込む場所ではないのだよ、と見下ろされているような感覚がある。
進行方向目の前の地面には、大きく開いた穴があった。ドラゥフトを見失わずとも、立ち止まらざるをえなかったようだ。
あるいはジェントルマンを信じれば、危険に気付かせるためにあえて、姿を隠したのかもしれない。
葉ずれの音に目を向ければ、それは今度こそ鳥であった。カケスが天空へと飛び去っていくのを追う。ヒトには翼はないのだから、そちらの方向は対象外だ。
で、あるはずだ、とそう思いながら、メアリーアンはもっと低い位置に視線を戻し、
「どこに行ったのかしら。見えない? そっちには」
「ええーっと」
ポーズのために言ってみる。苔を踏み、背伸びをしながら探しているふりをする。もちろん一度も見失ってなどいないのだ。ドラゥフトなら視界の中に、ちゃんと近くに控えております。
用心深くもう一度振り返り、見当違いの方角に目を凝らしているメアリーアンの様子を確認すると、ルークはまっすぐそちらを向いた。
柳の木の中空、幹にもたれかかり余裕のスタイル。翳していたマントを下ろし、すっかり顔を日に現した。言われて見れば怪盗にも見えるし、他のなんにだって見える男が姿を見せている。
この夏初めて父子は視線を合わせていた。自宅のあるロンドンの中心からかなり北、森の中央、木々と草苔に囲まれた場所、大きな穴を間に挟み、一方は木から伸びている枝の上、他方はそれを見上げる地面の上、という奇妙な状態で。
目と目で通じ合う、見事な親子コミュニケーション。本人にも定かではないルークの心の、なにをその目に読み取ったのか、ドラゥフトの表情は無から満ち足りた笑みにと変化していった。
ぷいと目を反らしたルークは、メアリーアンの肩を叩いた。これが自分の役目であるのだ。
さぁ、お嬢様。
「あそこだ」
初めから立ち位置を変えてはいないのだけれど、裏切るようにも思えていた。ドラゥフトを差し出せない、味方になれない自分を思い、ルークは計画に参加したことを悔やんでいた。
どんな理由をつけてでも、断るべきだったのだと思う。秘密が暴かれるのを阻止するために、もっとも近くにいなくては。あの時はそう思ったのだが、これは近くにいながら、メアリーアンを騙し続けるという行為に他ならない。
もっとももうずっと騙し続けているのだけれど。
食い違う現状に、真剣に向かい合うのは初めてだった。騙したいはずもないが、これは知られてはいけない秘密である。すべてを明かさなければ親しく付き合えないというものでもない。だが。
柳の葉の隙間にマントの黒を、それからドラゥフトそのものの姿を見つけ、メアリーアンはきょろきょろと忙しく顔を動かし、
「どこかに道はあるはずだわ。だって彼はどうやってあそこに行ったの?」
右にも左にも、野茨の天然の垣根がのびている。さすがの暴れ娘もその手段には出れないだろう。棘が痛いことは経験で知っているのだ。
「だってメアリー、ヤツは上を移動してるんだぜ。地上には道はないんだよ」
「上……」
ぼんやり上を見ていたと思ったら、急に表情が引き締まった。思いついたのだ。なにを? 苔生した枝から垂れ下がった、蔓をがしっと掴み取る。
「メアリーアン、それはやめろ。やめとけ、絶対にうまくいくはずないって」
「だってそんな、あそこにいるのに」
「これ以上は無理だよ。追いつくわけがない。もしうまく向こうに渡れたとしたって、その間にヤツは逃げれるじゃないか。普通。考えたらわかるよ、普通に考えたら結論はこうだよ」
穴の向こうとこちらに別れ、追跡は無理な状況でウツクシク姿を消す。それがこの場所に導いたドラゥフトの狙いであったはずである。
見れば怪盗は柳から離れようとしているところだった。楡の木に手をかけている。
よし。ほら、もう動いているから無理だって、と言おうと思えば、メアリーアンには、効果は逆に響いていた。
「急がなきゃ見失っちゃう。ルークはここで待ってて。心配しないで大丈夫だから」
何が大丈夫。口癖にもほどがある。ルークはこれほどのことは今までにはない、と慌て、背中に叫びをぶつけた。
「ってそんなことッ。言ってる側から無理だって――――あああ……」
まさに言ってる側から、メアリーアンはやらかしてくれていた。
どすん? どん?
瞬間の音は思い出せない。ルークは端で立ちすくみ、心臓がそこに移動したかのように脈打ち、急激に熱を上げていく右腕を意識していた。特に手を。指を。
長い時間であったはずはないが、只中のその時、ルークには永久にも感じられるほどに。