6. ハムステッド2
一階の南西の角。
もともと『スノウクィーン』が御座しましていたその部屋――奥方様のクローゼット(推定)――を、そのまま使うことにした。
メレディス氏と重ねた作戦会議にて、余計な引越しは、手間がかかるばかりで意味はないとの結論になったそうだ。
守り抜きたいわけではない。盗み出していただいてこその囮なのだ。ただドラゥフトにも多少の苦労はしてもらおうと、棚には鍵をかけたという。
もっとも今収まっているのはダミ―なのだが、そこに本物が入っていたときは鍵などかけずにいたというのだから、その扱われようときたら、随分なのではないだろうか。少しは物の価値を考えろ、と説教のひとつもたれたいところだ。
宝石にしたところで気の毒な話。人生におけるただ一つの宝物として大切にされる――闇夜の唯一の灯火のように――場合もあれば、この家での有様のように在るだけ、という立場に追い込まれることもある。運命なのか、宿命なのか。
むしろ盗まれてしまい、怪盗によって愛でられる日々の方が、女王だって幸せかもしれない。伯爵は明言はせずとも、態度に明らかだ。このまま終生独身を貫くというのなら、先軽く三十年は、脚光どころか文字通りの日の光を浴びることすらないのだから。
あの分厚い格子の、くすんだ窓の、重たいカーテンの向こうの重厚な箪笥の、黒い木の板に囲まれた狭い空間の中のビロード張りの箱の中の三十年。
寂しい話になってきた。
ルークは芝居がかった息をつき、肩を落とす。所有権は正しく伯爵にあるのだから、とやかく言えた立場じゃない。
しかしただ女王を光で照らすためだけに、総力を尽くしてみてもいいように思えていた。擬人化もほどほどにしなくては、可笑しな思い込みが発生している。これを大義名分と言い出さないうちに本題に戻ろう。もっとも、その本題に動きがないのだが。
どんどん出てくる余計な発想は、退屈のためなのだ。
アジサイの葉に隠れて座ってから、もうすぐ一時間が経とうとしている。ドラゥフトの予告状は不親切なことに、時間までは指定してくれなかった。
大雑把に午後とだけ。それは日が暮れてからかもしれない、と空を見上げて高い位置にある太陽にもため息。あと何時間、この場で無為に『待つ』を続けなくてはならないのだろう。
屋内にいくらでも適した上に快適な場所があったにもかかわらず、庭からの見張りとなった理由は、外から来るしかないのだから、とのメアリーアンの意見のためだった。
ヤードの捜査主任であれば内側にも疑いの目を向けただろう。だが館の主人側には身内に犯人、この場合は手引きする者、それはあり得ないと自信をもって言えてしまう利点がある。
現実にはそう言い切ることのできない主人も多く在るのだろうが、幸いこちらはローダーディル。その名に懸ければ使用人も、端の端まで手抜かりなどあろうわけもない。
何より執事はメレディスさんなのだ、とルークは、何度でも賞賛に肯くのだった。むしろ自分はほぼ伝聞でしかしらない伯爵よりも、執事への尊敬の念が強い。
思いついて、ルークは訊いてみる。この場に相応しく潜めた声で。
「ここに一緒に座りこまないのは当たり前だけどさ。伯爵は作戦会議にも加わってくれなかったの?」
「額装して飾って自慢するから予告状をくれと言っただけで、対策を練るのは面倒だと言って、席に着こうともしなかったわ。クリスはもともとしきたりなんて気にしない人だし、結婚なんて自分とは無縁なものだと思っているから、レディの証なんてものに興味がないのも当然なんだけれど」
格好だけでも少しは手伝ってくれてもいいのに、とメアリーアンは拗ねたような言い方をした。屋敷を貸し家宝を貸し執事を貸し、この上更なるものを求められるとは、伯爵もなかなかに同情すべき立場である。
「あのメアリーがやっちまった記事についてはなんか言ってた? 迷惑を被ったとか、もうするなとか。被害とかなかったわけ?」
「被害と言うより、反響ね。お小言は一切なしよ。クリスは楽しかったんですって」
「何が」
なんで。
「周りの方々の様々な動きが参考になったみたい。まるで宮廷の恋愛ゲームよね。狭い範囲で蠢くものしきり。あの人たちだけまだクィーン・エリザベスの時代を生きているんじゃないかしら」
「そういうのは綿々と続いて行くんだよ。永遠になくならない、高貴を主張する人間どもの戯れだ。時代の流れなんてどこ吹く風でいつでも変わらず、暮らしで手一杯の民草には関係なくね」
「カッコイイこと言うわね、ルーク。難しい言葉がどんどん出てくる」
くすくす笑いに合わせて、茂みは揺れた。彼女の息で震える葉のグリーンの深さ……などと浮かぶ詩的な気分は、当の彼女によってぶち壊される。
「学校で習うの? そういうことって」
学校ときた。自分はとうに卒業してきた、遠い過去だと言ってきている。属する世界が違うのだと、それを突き付けられたように感じ、ルークは声を大きくした。
「言っておくけどね! メアリーアン。学校に行っているのは息子に良い教育を授けてるっていうメグの満足のためであって、オレにはあんなところは必要ないんだ。奴らの教えることなんて、とっくにここに入ってる」
「そこに?」
メアリーアンは笑ったまま、自分の頭を指差しているルークの手を取った。瞬時、その部分から全身に走り貫けたものがある。
イカヅチ? 衝撃が去った後も、激しく余韻に震えるといった点では、確かにそれに似通ったもの。
「だけどね、学校って学問そのもの、それだけじゃないのよ。それを受けて、あなたが感じること、周りと同じことと違うこと、それをきっと支えに感じるときが来るの。お友達は多い?」
諭すような口調は、もちろん気にくわない。けれどルークは逆らえず、ただ質問に答えた。
すらすらとあふれるはずの言葉が詰まってしまって出てこない。さらには自分の声がおかしな感じに聞こえる。なぜなのか。
「悪友ならね」
「それでいいのよ。それが、かしら。案外すぐにきっと――」
その瞳が動かなければ、ルークは気付かなかっただろう。待ち構えていたものの登場に。
大きく振り仰いだメアリーアンの視線を追うが、目に見えたものは揺れる枝だけ。鳥かもしれない。そう思った側から全否定。
そんなはずはない。梢を風が渡って行った。鳥であるものか。ではなく、それは。
「来たわ」
そう、彼だ。
彼女の声は低く、ずしりと力がこもっていた。立ち上がるはずみでぶつかったので、アジサイの葉といい枝といい大きく揺れている。
もはや隠れ忍んでいる必要はない。草を蹴り、このために選んで来たのだ、簡素なスカートをひるがえしてメアリーアンは走り出した。声をかけることも忘れない。
「行くわよ、ルークっ。おおいそぎッ」
「へいへい」
放り出された手にまだ温もりを感じながら、ルークも続いて走り出した。あきれんばかりの感傷がじわじわと、まるで内面を食い尽くすように広がっていく。
体の中すべて、コンナモノで埋まってしまったらどうなるんだ。
ありえないと首を振りつつも、そうとは言い切れないと否定する、もう一人の自分の意見に傾いていく。
どっちに転ぶのも嫌なんだ。どうしたいのかわからないんだ。学校に通い続けていたら、そんなことまで教えてくれるのだろうか?
誰が? 先生? 友人? ああは言ったけれど、真の意味で良い友だちだって、自分には居る。一人二人。
彼らの年になった時に、フレディと伯爵のような、そしてメレディスやメアリーのように、互いを尊重し合える友となっていればいい。
「裏だわ! 走って」
そんなことを感傷的に(それこそ)思っている余裕は、今こそ、ない。