1. パディントン
「フレディ!」
見えない矢に刺されたように声を聞き分け、彼は新聞を持つ手を下げると首を伸ばした。
思い思いの方向へと進んでゆくあふれんばかりの人が、モーゼの前の海のように裂け、彼女との間に道が引かれる、わけはなく、しばらく辛抱強く待った後、人ごみはやっと彼女を吐き出した。
「お疲れ様」
その言葉がついて出てくるほどに、メアリーアン・シモンズ嬢はくたびれた様子だった。すっかり渦に巻き込まれ九死に一生、平均より少々低い身長が災いをもたらし、被害は髪にわかりやすい。
「こんな場所で待ち合わせなんて無茶よ。たどり着けないかと思ったわ」
「指定したのは君だったよ。迎えに行くという、僕の提案を受け入れずにね」
「危なかったわ、もう少しでブライトンへ運ばれちゃうところだったのよ」
「どうしてそんなことになるんだろう」
「ほんと。もう少しなんとかならないかしら。なんと言っても、人が多すぎるわ」
どれだけ人が多くとも、出迎えに来ただけの人間が、汽車に乗り込むことはない。
考えて自分だけでその意見の正しさにうなずき、フレディは彼女を、自分と壁の間に配置した。盾となっていなければ、再びどこかの地へ運ばれてしまうかもしれない。何が起こるかわからない。恐ろしい話だ。
髪を直そうとしながらメアリーアンは、午前中に職場で起きたいくつかの細かな事柄と、この駅という大海に足を踏み入れてからの冒険の経緯を語った。
ところどころで質問や小言を差し挟みたいと思ったが、フレディは口を閉ざしたまま最後まで聞き通した。そんなことは些細に思えている。これから何事かが起こる予感に。
しかし、間違いなく次回以降、陸地(駅の外)での待ち合わせを義務づけることは忘れずに(彼女が誰と会う場合も)。
「大変だったけれど間に合って良かった。遅れたら何を言われるか、だいたい想像がつくもの」
「あぁ」
「楽しそうに笑ったわね。どうしてかしら」
もちろんそれが、楽しい出来事だからだ。
しかしフレディは口には出さなかった。出さずとも、すでに彼女にはわかっていることであるのだから、繰り返していたずらに刺激するべきではない。
汽車が到着するまで、持ち時間は少ない。優先されるべき重要な用件があるのだ。
「そんなことよりも」
きれいにたたみ直していた新聞を取り出し、問題のページを開き、
「これは?」
メアリーアンは首を一つ前に出し記事を確認すると、すぐにまた元に戻った。
怯んだようにも思える動きじゃないか? 判断し、フレディは言葉を待つことにする。
「フレディはきっちり愛読者よね。いつもありがとうございます。署名を入れていない記事なのに、私が書いたってわかった?」
「本物の君を知っていてそれがわからない人はいないよ」
「私、そんな書き方してる?」
その質問には答えずに、自然にそらされた視線を捕まえなおし、
「また変なことを始めたね」
「あの首飾りはローダーディルの代々の奥方が手にするものなの。当主様のご結婚がしばらくなかったから、かなり長い間表に出ていないのよ。誰も見ることもできないなんて、もったいないお話よね」
「それはこちらの記事に紹介していただいたから、良く知ってる。僕が利きたいのは、どうしてこんな話をこんな風に扱うのかということだよ」
言葉がすらすらと出てくることがまず怪しく、いつもよりも早口なことが、疑わしさを増長させていた。
隠し事のいやぁな雰囲気が、徐々に周りの空気を侵食している。しっぽをつかまれれば黙っていられず、たいていは自発的に自白をするメアリーアンが、今回はすんなりとは落ちてこない。
まずは思いついたことを言ってみよう。
「クリストファーが結婚でも?」
ハズレ。
彼女は見るからに安堵の笑みを浮かべて、ぺらぺらと。
「そんなことをあなたが新聞で知るの? まさか。当代の伯爵様に落ち着いていただきたいのは何年も前からの一族の皆様のご希望だけれど、あの様子じゃ当分は無理よ。陛下は誰の命令もお受けになりませんもの。唯我独尊よ。この記事を書くのにはね、クリスよりもメレディスに協力してもらったの。クリス様はこういうことには疎くてらっしゃるから、どこにあるのかも知らなかったんだから。怠慢よね。メレディスが愛想をつかして出て行ってしまうと言うことも、少しは考えた方がいいわ。彼なら面倒な主人に我慢などしなくても、引く手数多でしょうし」
「まさか。そんなことは起こり得ないよ」
「どこか? 奥方を迎えないってこと? メレディスがそ愛想をつかすところ?」
「最後。それは絶対に在り得ない」
「ほんと。娯楽の予算を賭けてもいいくらいだわ」
ははは。
忠実なる執事の想像も難しい家出の図に、一緒に笑っているうちに、はたと気づき、フレディは顔を引きしめた。のってしまった、気を抜いていた。なぜだ。
「どうしてこんなことに手を出したのか、理由があるんだろう。こういう時、必ず君は出発地点を隠したままだね」
スタートを切られてしまった今となっては、気になるのは出発地点からの距離である。この記事が計画の第一段階であるのならまだいい。
これが、第二段階であったなら? あるいはすでに中盤戦。さらに進んで、もはや取り返しのつかない終結へと転がるばかりだとしたら。
恐怖に近い黒い感情が、心にもやもやと広がってきた。これを不安などと不確かなものには分けられない。
必ずしゃべらせて見せましょう、と作戦ではないが、嘘やごまかしを見逃さないために、フレディは正面からメアリーアンを見つめた。父親か?
「秘密?」
躊躇の色が、瞳に浮かぶ。どこまでを明かしていいものか、捻りこんでいるのかもしれない。切れ端だろうと、ゼロよりはマシだ。しゃべる気持ちになってくれれば。
「……パー―」
そこまでしか、出てこなかった。
時間切れ。汽車は定刻で到着していたのだ。