たとえ悪女と呼ばれようとも
大好きな人がいる。
あの人の為にならなんだって出来ると思うくらいに、大好きな人が。
この想いが叶うなら、今ある全てを失ったって惜しくはない。なんと呼ばれようとも構わない。
そう例えば、世界中から悪女と罵られるような事になったとしても。
♢
「具合はどう? ミア」
ベッドに半分だけ身を起こした妹のミアに、水の入ったカップと薬を渡しながら私は尋ねた。
カーテンの開け放たれた出窓からは眩しい朝の光が射し込み十分明るいはずなのに、この部屋は払拭されない影がこびりついているかのように何処か暗い。妹が長く寝付いているせいだろう。
「ありがとう、大丈夫よ。お姉様がくださるお薬がよく効いているみたいで、最近はそう苦しくないの」
「そう……良かったわ」
薬包紙からサラサラと粉薬を口に流し込むミアを見届け、私は薄く笑う。
この微細な一粒一粒が彼女に取り込まれるごとに計画が密かに遂行されていくのだ。
私は口角をそのままにサイドテーブルに置いた本へチラリと視線だけを向けた。そこにあるのは私が薬と共に持ってきた植物図鑑。
「その小説は昨日の内に一気に読み終えてしまったのよ。もしかして今日も図書館にお行きになる?」
私の視線に気づいて、コップを返しながらミアが問うた。
図鑑の近くに置いてあったロマンス小説を見ていたと思ったらしい。
私は肯定するように微笑んで、小説を図鑑の上に重ねた。
「またあなた好みの本を借りてくるわね」
「いつもありがとう」
「いいのよ、私が本を借りるついでだから」
「だけど不思議ね。お姉様ったら借りるのは植物の図鑑ばかりでロマンス小説なんてお読みにならないのに、センスが良いんだわ。借りてきてくださる本はどれも幻想的な表現がいっぱいで素敵なものばかりだもの」
「司書の方のセンスが良いのよ。いつも選んでいただいているの。あなたの好きな、夢の中みたいに美しくて幸せに終わるお話を」
「優秀な司書さんね。今まで読んだ本はどれも素敵な恋物語だったわ。お姉様もお読みになればいいのに」
「私はいいの。恋ならもう——」
そう言いかけた時、コンコンと扉がノックされた。忘れたい現実を思い出させるかのような音だった。
「ここにいたのか。さぁ、行こう。朝の礼拝の時間だ」
「あの子の病を平癒させるには神に祈ることが一番だ。さぁ、祈ろう」
屋敷の一室を改築して誂えた小さな礼拝堂で、親子並んで祈りを捧げる。これがラグウォート公爵家の日課だ。
しかし内実、熱心に祈りを捧げる父の隣に跪き同じように祈りのポーズを取りながらも、私はこの日課に辟易している。
この祈りで救われる者などいないことがわかりきっているから。
神は妹に奇跡を起こさないだろう。母にも起こさなかったように。
父はそれをわかっていないのだ。いや、わかりたくないのだ。
こうしておけば、神が微笑まなくともそれもまた思し召しだったのだと落とし所を見つけられるから。
誰かを責めることも出来ず救われない地獄を、繰り返すことから逃げたいのだ。
だが私は、微笑まぬとわかりきっている神の前に跪き続けることはしない。
願いは自らの手で叶えると、もう決めた。
祈り終えた父に合わせて顔を上げると、小さな祭壇の上で聖女像が哀しげにこちらを見下ろしていた。それでいいのかと問うように。
♢
「こんにちは」
街の外れにある古い図書館へと本を返却しにきた私は、顔馴染みとなっている初老の司書へと声をかけた。いつも微笑んでみえる穏やかな男性だ。
「お早いですね。返却は来週だったはずでは」
「もう読み終えたそうだから。私の方も何度も借りている本ですし」
もう憶えてしまわれたのでは? と笑いながら、彼は私が繰り返し借りている本と一切読まないロマンス小説を受け取った。
「今日も借りて行かれますか?」
「ええ、妹の本を選んでくださいます?」
「もちろんです。私は今日でここを退任しますから、最後に本を探すお手伝いが出来て良かった」
「故郷へ戻られるのでしたわね」
「はい。田舎が嫌で都会まで来ましたが結局戻ることに。独り身なので身軽なのが幸いです。しばらくのんびりして、家業の花卉農家を継ごうと思います」
そう言いながらカウンターを出た彼は、小説の並んだ書架を眺めだした。
私はその側で、シリーズになっているいつもの植物図鑑を手にする。
この人に図鑑のお嬢さんと呼ばれるようになったのは、いつからだったろうか。
しばらく通った頃だった気もするし、そう日が経っていない頃からだったような気もする。
だが、それも今日で終わりだ。
「今日までありがとうございました。あなたのおかげで妹を喜ばせられました。私も……」
感謝を口にすると、彼は抜き出した一冊の小説を差し出しながら、こちらこそと言った。
「新しく赴任する者にもお手伝いが出来るよう言付けておきますので、これからも——」
彼らしい気遣い。だが、私は首を振った。
「いいの。もう、ここに借りに来ることはないから」
♢
馬車の揺れに飽きてきた頃、ようやく屋敷へと戻ってきた。
自分用の図鑑と妹用の小説を抱えて門をくぐる。
よく手入れのされた前庭を通り玄関へ向かう最中、屋敷の裏手へ向かう道の方から声がした。
まあ、誰の声かはわかっているけれど、私は気になったふりをして玄関を通り過ぎそちらへ向かった。
庭木に隠れるようにして立ち、二階の窓に向けて小さく声をかける青年が一人。ふんわり柔らかそうな癖毛のハンサム。
その彼の呼びかけに鳥の囀りのような声が返ってくる。ミアの可愛らしい声だ。
一見してわかる、恋人同士の密やかな逢瀬の場面。
私はそれをしばらく聴き眺めてから、足元の小枝をわざと音を立てて踏んだ。
パキッという乾いた音にハッとしてこちらを向いた青年は、酷くばつの悪そうな顔をした。
「あ……」
「いらしていたのねロニー。ごめんなさい、私この時間はよく図書館へ行っていて」
「ああ、そうだったね」
そうよね、知っているわよね。
私も知っているわ。
私がいない時間に合わせて、私と婚約してからもあなたがミアに会う為にやって来ていることを。
「せっかくだから温室ででもお茶にしませんこと? 私が育てている花が綺麗に咲いているのよ」
「ああ……いや、君の顔を見に来ただけだから。用は済んだし帰るよ」
あの子の、でしょうに。嘘もフォローも下手な人。
ロニーは我が家と付き合いのある伯爵家の人間で、私達姉妹とは幼馴染のような関係だ。
それがいつ頃からかミアと親密になり、密かに恋人と呼べる間柄になっていた。
そのままいずれはと思っていたのだろうけど、妹が病に罹ったことで二人の婚約の話は出る前に消えて、替わりのように私との婚約が決まったのだった。
しかしというか、そういった経緯があるゆえに、私の婚約者となりながらも彼は未だ妹を愛しているのだ。
「……そう? 具合が良ければミアも一緒にお茶をしたら喜ぶと思うけど」
「いや、また今度にするよ。それじゃ——」
気まずそうな顔をしてロニーは私の側をすり抜けようとする。
その顔の理由は、妹を愛していながら婚約を受諾した私に対する負い目からかしら。
婚約を拒絶して妹への愛を貫けなかったからかしら。
それとも両家の顔色を窺って何も言えなかった自身の不甲斐なさに対してかしら。
いずれにしても、ハッキリしない男ねと、私はわざと彼に肘をぶつけて抱えていた本を取り落とした。
「あっ……と、ごめん」
地面に、落ちた本と図鑑に挟んでいた数枚のメモが散らばる。
彼は素早くしゃがむとそれらを拾い集めて、そして、手を止めた。
「葉に多く毒——粉末にして……薬……ミア?」
私はそれを認めて、メモをもぎ取るようにして奪った。
「拾ってくれてありがとう」
「今のは? 毒とは」
「……花を育てていると言ったでしょう? 世話の仕方のメモよ。食用でない花だから毒があるのも珍しいことでもないわ」
「そう……でもミアの名前もあったけど」
「見せてあげたいと思って。とても可愛い花だから」
「じゃあ、薬とは?」
「……薬として使われた時代もあるそうなの。ただの覚え書き」
誤魔化すように笑ってあげると、彼は眉を顰めて私をじっとみつめた。
番犬の睨むのに似た良い目ね。
「……何を育てているんだ」
「知りたいの? 花なんて興味ないくせに——私のことなんてもっと興味ないくせに」
私はそう言って彼を睨んでみせた。するとやっぱりばつの悪そうな顔をして彼は目を逸らした。
どうしても、あなたの家は我が家と姻戚関係になりたかったのですものね。
あなたは伯爵家の人間として立派な判断をしたと思うわ。
病弱な恋人を諦めて、好きでもないその姉との婚約を受け入れたのですもの。立派よ。
ただ少し運が悪かっただけで、とても合理的で正しい道を選んでいる。
だから、そんな顔しなくてもいいのに。
だけど、いえ、だからこそ、もう二度とそんな顔しなくていいようにしてあげるんだけれど。
「どうぞ、お行きになって。お茶も出来ないくらい急ぐのでしょう? 拾ってくれてありがとう」
そう言うと、彼は訝しむ目を向けてからスッと側を離れて行った。
門に向かう背には、まだ私への不審がありありと書かれている。
私はその背に駄目押しのように、ねぇと声をかけてあげた。
「来週の婚約披露パーティー、楽しみね」
♢
トントンと、部屋のドアがノックされる。
時間だ。
だけど慌ててはいけない。
今日が正念場なのだ。
ここで失敗しては全てが水の泡になる。
私はノックには返事せず、灰色がかった白い粉を丁寧に薬包紙に包む作業を続ける。
数個作ったそれをグローブの裾に挟み込んで隠し持ち、そして粉の残る机の上にたくさんのメモを挟んだ図鑑を置いたところで、再度鳴らされたノックの音に返事をした。
「お嬢様、お支度は如何でしょうか。婚約披露会のお時間でございます」
「今行くわ」
父の知り合いの集まった広間で、婚約を発表した私とロニーは祝福の拍手を受ける。
口許に笑みを浮かべてはいるけれど、目の奥を暗く沈ませたロニーは虚に部屋の入り口付近を見つめている。
部屋の入り口、その脇に置かれた椅子。
そこには、いつでも中座出来るようにミアが座って、静かに拍手をしていた。
自分が立つはずだった場所を、かつての恋人と同じ虚な瞳をしてみつめながら。
健気だ、と思う。
こんな場面を見たくなどないだろうに、妹として幼馴染として、形だけでも祝福してみせるのだから。
私と彼の婚約が決まったことを聞いた時だって、あの子は取り乱すことも泣き叫ぶこともしなかった。
病の為に明日をもしれぬ身であるからと、静かに全てを受け入れたのだ。
でも、私は知っている。
あの子が私や彼に笑顔を見せていても、部屋では一人泣き濡れていることを。
健気で物分かりが良いばかりに、可哀想で不幸な妹。
だけどそれも、今日で終わりにしてあげよう。
一通りの祝福を受けて歓談へと移った会場で、私はロニーの隣を離れ妹の側へと歩みよった。
「ミア、大丈夫? 顔が青いわ」
「大丈夫よ、お姉様。おめでとう、式が楽しみ——う」
コホコホと、ミアが咳き込んだ。
「無理しないで、水を持ってきてあげるから。落ち着いたらもう部屋へ行きましょう」
私は優しい姉の顔をして、グラスの並んだ近くのテーブルへ向かった。
給仕から水を受け取り、グローブの裾を直すふりをしながら仕込んだ薬包を一つ取り出す。
そしてこれが何のパーティーかを忘れかけだした酔客の群れを躱しながら手の中で紙を開くと、水が溢れそうになるのを押さえたように見せてグラスの中に粉を落とした。
水は一瞬白く濁って、すぐに透明に戻った。
準備は整った。
「ミア」
私は水の入ったグラスを手にミアの下に戻る。
「ありがとう、お姉様」
彼女の細い手が私の持つグラスに何の疑いもなく伸びてくる。
ここからだ、上手くやるんだ。
思わず手が震えてしまった、その時だった。
「何を入れたんだ」
グラスを持つ私の手を掴んだ者がいた。
妹のか弱い手とはまるで違う、大きくて力強い手だった。
「ミアに何を飲ませる気だ!」
そう大きな声を出し、妹からグラスを遠ざけるように私の手首を引っ張ったのは、怒りと不審に顔を歪ませたロニーだった。
「何を……って、水よ」
「何か入れたな。見ていたぞ」
周りの客が何事かと視線をこちらに寄越す。
私はそれを横目で確認してロニーに対峙する。
「何も入れてないわ、離して」
「いいや、入れた。粉状の物だ。見ていたんだ!」
「何のことよ、言い掛かりはよして!」
私はそう言って捕まれた腕を大袈裟に引いた。
その拍子にグローブがずれ、裾に挟んでいた薬包が溢れた水と共に床に落ちた。
「——!」
私はグラスを放り出し、慌ててそれを拾おうとする。
しかし一足早く、ロニーが薬包を拾い上げて私を睨んだ。
絨毯のおかげで割れずに転がったグラスには、背後のミアの驚いた顔が逆さに映っていた。
「……これはなんだ」
周囲に視線を向けられる緊張から喉が詰まるが、私は気を落ち着けるようにゆっくりと立ち上がった。
焦るな、まだだ。
「何って、薬よ。ミアの病の」
「なら何故こんなに隠し持つ必要があるんだ。急に服用が必要になる類のものではないだろう。それをどうして持ち歩き、こっそりとグラスに入れる必要があった?」
「それは……」
「それはこれがミアの薬ではなく、君が作った毒だからだ。そうだろう?」
毒⁈ と、取り巻く客達からどよめきが起こった。
後ろからは妹が息を呑む音がした。
「……酷い言いがかりだわ。何の根拠があってそんな嘘——」
「調べたよ。君が育てている植物。ジギタリス、スズラン、アデニウム……その他にも色々」
「どれも可愛い花を咲かせるのよ。それが何——」
「全部毒のある花だ。君はその花を使って毒を、この薬を作ったんだ」
ロニーの強い口調に、ざわざわと会場がさざめく。
まだ半信半疑といったところか。
対してロニーは確信を持っているようだった。
「すごい飛躍ね。有毒植物を育てているからって、私が毒薬を作ったなんて」
「そ、そうよロニー。何言ってるの? お姉様がそんなことをするわけ……」
やはり健気な妹は私を庇おうとする。けれどそれを遮って、ロニーは首を振った。
「ミア、君はいつも彼女が薬を用意してくれると言っていたね」
「え? ええ。お姉様が私の代わりにお医者様から……」
「それは嘘だ。ラグウォート家の主治医は薬を処方していない。それどころか君の病状を知らなかった。念の為調べたが、街の主立った医院も受診していない。君の病が一向に良くならないのは何故だ? 全ては君が飲まされているこれが毒だからだ!」
「そんな……じゃあ、今までの薬は……?」
混乱を滲ませた妹の声が震えている。
ここが潮時かと、私は腹を括って背筋を正した。
「……そうよ、それは私が作ったもの。大事に育てた植物から抽出した毒よ。ミアに今日まで飲ませてきた薬も量は少ないけど同じもの」
私の告白に周囲も妹も驚愕の声をあげた。
「お姉様……どうして——」
どうして? と私は繰り返し、ミアに振り向くと、乾く下唇を一度舐め湿してから一気に大きな声で捲し立てた。
「あなたが邪魔だったからよ。ロニーは私と婚約が決まったのに、あなたのことばかり……確かにあなたが病に罹らなければ彼の隣にいたのはあなただったかもしれないわ。でもね、実際には彼は私との婚約を承諾したのよ、私の夫になるのよ、なのに——! あなたがいる限り彼の心はあなたに向き続けるんだわ。だからあなたが消えればロニーは私だけを見てくれると思ったの。あなたがいなくなればロニーが私だけのものになると思ったのよ! だからよ!」
殺そうとしたのか、と何処かで声があがり、小さく悲鳴が聞こえた。
私をみつめる妹の瞳は大きく見開かれ、涙がたっぷりと溜まっていた。
「どうして……お姉様……どうしてそんな——」
「まだわからないの⁈ 私だって彼が好きだったのよ! あなたと彼が想い合っていると知っていても、何をしたって手に入れたいと思うくらいに好きだったのよ! それがやっと叶ったのに、今日ここで叶うはずだったのに!」
興奮して抑えが利かない風に叫んで、私は足下に転がるグラスを踏みつけた。
パリンと思ったより大きな音で割れたグラスを素早く拾い、私は鋭利になったそれを振り上げて妹に向かって行った。
「ロニーは私のものよ!」
「やめろ!」
大きな悲鳴が合唱のようにあがり騒然とする中、私はすんでのところで数名の男性に取り押さえられた。
目の前ではロニーが身を盾にして、ミアを抱きかかえ庇っている。
「どうしてよ⁈ あなたは私と婚約したんじゃない! 私を選んだんじゃない! なのにそうしてミアがいる限り私を一番にしてくれないなら、その子を消すしかないでしょう⁈ そうすれば、ラグウォート家の娘は私だけ。あなただって私を愛す——」
「君を愛すことはない」
ハッキリとした声に、私は息を止める。
周りも同様、水を打ったように音を失くした中で、ロニーの声だけが響いた。
「君と婚姻することが双方の、いや我が伯爵家の為だと割り切っていた。だが間違っていた。僕はラグウォート家の女性なら誰でも良かったわけでも、ラグウォート家の女性だからミアを愛していたわけでもなかったのだから」
ロニーは尚もハッキリとした声と真っ直ぐな視線を私に向けて言った。
「眩んでいた目が覚めた。君がこんなことをしたのは、己が利益の為に君達を天秤にかけた僕のせいだとわかっている。だがミアを害そうとした君を許すことも、心に背いて君と婚姻することももう出来ない。君との婚約は破棄させてもらう。そのことで受ける咎ならば喜んで背負おう。足りなければ伯爵家の名も捨てよう。僕が全てを懸けて愛しているのはミアただ一人だ」
堂々とそう言い切った直後、私を睨むように見据えていたロニーの表情が、え? と困惑したように一瞬緩んだ。
それに気づいて、いけない! と思ったけれどちょっと遅かったわね。
ここは悔しそうに歯を食いしばり、顔を歪めて泣き叫ばなければいけなかったのに。
だって下手なロマンス小説よりも素敵な二人に見えたものだから、ついうっかりとね、微笑んでしまったわ。
♢
「君があの日隠し持っていたのは確かに毒物だった。だけどミアに飲ませていた薬は、きちんと医師から処方されたものだったんだな」
披露会から数日後、幽閉された部屋の扉の向こうからロニーが突然呼びかけてきた。
小さな鞄に身の回りの物を詰めていた私は、想定外のことに手を止める。
「君の部屋の棚の裏から、街外れの診療所が出した処方箋と薬をみつけた。確認したら随分と前から通っていると……どうしてこんなことを? どうして毒を飲ませたなんて嘘を?」
まさか部屋をそこまで調べられるとは。
そんなことを、特にロニーがするとは思っておらず私はドアをみつめた。
このまま何もなければ、私は今日ここを妹を毒殺しようとした悪女として追い出され、全てが終わるはずだったのに。
「教えてくれ……君の口から聞きたいんだ。何故、主治医に診せずあんな小さな診療所に? あんな嘘を、妹を毒殺しようとする姉を演じた理由はなんだ?」
何をどこまで知った上で私に問いただそうというのか、ロニーの声は悲痛さが滲んでいた。
確かに彼の言うとおり、あの披露会での一連の騒動は私の芝居だ。
しかし、彼がこんな声を出す必要はどこにもないのだが。
「……演じる? 何のこと?」
「とぼけないでほしい。全てわかっているんだ。ミアはあの騒動の最中から君の芝居に気づいていたよ。君は嘘を吐く時に下唇を舐めるんだそうだ」
そう言われて私は思わず唇を押さえた。
そんな癖があったとは。
いつそんなことをしてしまったのだろうと思い返すがわからない。癖とはそういうものよね。
ただ、この計画唯一の気がかりが消えて少しホッとする。
あの時ぶつけてしまった言葉が嘘だと、ミアがわかってくれていたのだから。
「君は用意周到で、さも毒物を以前から作っていたように偽装までしていたから、ミアが気づかなければあれが芝居だったとは思わなかっただろう。僕だって彼女に強く言われなければ君の部屋をこんなに詳しく調べなかった……だがもうわかってる、本当のことを言ってくれ。芝居だったんだろう? 嘘なんだろう?」
私が黙っていると、ロニーは昂った感情の波を落ち着けるように一度大きく息を吐いた。
「……ミアに聞いたよ。お父上のラグウォート公のことを。夫人が亡くなられたのは医者や薬のせいだと思うようになっていたって。だからミアのことも医者に診せずにいたって。確かにあの騒動の直後も、彼女を病院に運ぼうとするのをお父上は反対していたよ。あの時は醜聞を恐れているのかと思っていたが、違ったんだな……ミアが良くならなかったわけだ」
そう。父は母の死を受け入れられず、医師も薬も信じなくなった。
病に倒れた母は医師に診せた時点で手遅れだったけれど、父はそれを薬のせいにしておきたかったのだ。
そうしておかないと、もっと早く気づいてやれていればと後悔し続けて苦しむ地獄が終わらないから。
だがそのせいで、病に臥せたミアを医師に診せることも薬を与えることもせずにいた。
「……あの子は今?」
「今は入院して加療中だ。大丈夫、しばらく投薬を続ければ良くなるそうだから」
「そう」
良かったと言う代わりに私が息を吐くと、耳聡く聞きつけたのか、やはりこれが目的だったんだなとロニーが呟いた。
「毒を盛られたとなれば流石のお父上も医師に診せざるをえない。それを狙っての芝居だったんだな……だが、ここまでする必要があったのか? こんなことをするくらいなら、どうにかしてお父上を説き伏せれば良かったじゃないか」
父の頑なさを知らないのねロニー。
あのように大勢の目と不可抗力がなければ、ミアを医師には診せなかったでしょう。
父は父なりの信条の下にミアを守ろうとしていたのだから。
ただ、それだけの為ならば、確かにここまでする必要はなかったわね。
「あんな芝居をして、公爵家から排斥されて何もかも失って……君はそれでいいのか⁈」
いいのよ、これが私の望みなのだから。
悲愴な声が響いてくる扉の向こうへ黙ったまま微笑んでみせると、しばらくしてポツリと呟くようにロニーは言った。
「……ここまでしたのは僕達の為なんだろう?」
沈んだその声は、またあのばつの悪そうな顔をしていると容易に思わせるものだった。
「あんな芝居をしたのは、僕と君との婚約を破棄させてミアとの仲を認めさせる為。そうなんだろう?」
私が黙ったままでいると、ロニーにはそれが肯定と映ったようだった。
「……全てはミアに治療を受けさせて、僕との婚姻を認めさせる為、そうだな? 我が家は公爵家と姻戚関係になることを強く望み、病弱なミアよりも健康な長子の君の方が良いと考えていた。僕も結局は家の為にそう……。だが君が公爵家から排斥されミアが健康になれば、僕達の間に憂いは無くなる。ミアの治療と君との婚約の解消、そして僕達の仲を認めさせること。その全てを叶える為にあんなことをしたんだ、違うか?」
そうね、それは確かに私の望みだ。
あなた達二人には憂いなく幸せになってもらいたかった。
そしてあの毒殺の芝居は私の望みの全てを叶える為のもの。
なおも黙ったままでいると、君は馬鹿だと掠れ声が私を罵った。
けれど何度も繰り返すその声に力はなかった。
「馬鹿だよ君は……不幸の全てと汚名を背負ってこんなことをして、なんて馬鹿なんだ……だが今からでも遅くない。真実を、せめて君の汚名を晴らすべきだ。全てを知ってこのまま追いやられる君を放っておけるわけがない。僕達だけが幸せになるなんて許されるはずが——」
「……フフッ!」
アハハ、と私はそこでつい笑ってしまった。
ロニーがあまりに深刻な声を出すんだもの。
全てを知って?
僕達だけが幸せにですって?
この人やっぱり私に興味がないのね、何もわかっていないんだから。
「何が可笑しいんだ……?」
「ふふ——笑ってごめんなさい。あなたったら、本当に私に興味がないんだと思ったら可笑しくて。ねぇ、あなたが思うほど、私は聖人じゃないのよ。とっても利己的でエゴイスト。でなきゃ、大切な妹にあんな酷いこと言えないわ」
「何を言って……」
驚きのあまり間抜けな声を出すロニーにまた可笑しくなって、私は笑いながら答えた。
「確かにあなたの言うとおり、私はミアに治療を受けさせて、あなた達に幸せになって欲しかった。だから大勢の前で毒殺を企てたフリをしたわ。だけどあなたも言ってたじゃない、それだけならあそこまでの芝居は必要なかったって。だってそうでしょう? ミアの病のことはお父様をどうにか説得すれば良かったし、婚約だって拒否すれば良かった。あなたとミアのことだって認めさせる術はいくらでもあった。こんなことしなくたって良かったのよ、真にあなた達の為だけならね」
「それはどういう——」
つまり、と私はドアに近づいて耳打ちするように囁いた。
「これは全て私の幸せの為の計画だったということよ。だからあなた達が気に病む必要なんて一つもないの。むしろあんな騒動に巻き込んで、ごめんなさいね」
見えないけれどポカンとしているであろう雰囲気が伝わってくる扉の向こうに、私はニッコリ笑いかけてあげた。
「あなた達二人はどんな小説の恋人達よりも素敵で、眺めているだけで幸せを分けてもらえたわ。これからも二人で幸せに。あなた達のことが大好きよ」
♢
長旅を終えて連れてこられた場所は、辺境地に近い片田舎。
これまで住んでいた華やかな大都市とはかけ離れたくたびれた町だった。
その郊外の森近くにある小さな屋敷。
そこが、これから私が生涯を過ごすこととなる場所だ。
ここは、元は母の療養の為にと買った別荘だった。
しかしここに移る前に母は他界してしまい、以降手入れすら碌にされずに放置され、父も私達も足を踏み入れたことがなかった。
門は蔦が絡んで半分覆われ、庭は草も木も伸び放題で荒れている。
奥に立つ屋敷は薄汚れ傾いで見えたほど、うらぶれている。
姉妹間の男をめぐる毒殺未遂事件。
そんな醜い騒動が公にされては公爵家の名に傷が付くと恐れた父は、事件化せずに内々に私を遠方へ追いやることで手打ちにした。
親の最後の情けで通いの老メイドが一人、週に何度か来るそうだが、それ以外には誰も来ないし私がここにいることすらきっと知らない。
戻ることも許されずここで朽ちるその日まで、独り淋しく過ごすのだ。
私は思わず自身の肩を抱いた。
怖い。
公爵家の娘としての地位を失い、生家を追われ、死んだものと同然の扱いでここに打ち捨てられるだなんて。
なんて、なんて素晴らしいんでしょう!
こんなにも全てが上手くいったのだもの。喜びで震えが止まらない!
私は荷物を屋敷に放り込むと、蔦の絡んだ門を開け放ち、町へ向かう通りへと出た。
右手には、斜面に所々カラフルな花畑が出来ている丘が見える。細やかだが花卉栽培が盛んな地域のこの景色を気に入って、父はこの屋敷を買ったのだ。
その丘の近くに広がる小さな町。
私はそこを目指して走った。
期待に胸が高鳴る。
有毒植物を育て偽装し、妹を毒殺しようとした悪女を演じたのは、今日この時の為だったのだから。
病に倒れ日に日に弱る妹を案じ、父にバレぬよう小さな医院を訪ね歩いて、ようやく無理を言って薬を処方してもらえたあの街外れの診療所。
そこへ定期的に通うことを怪しまれないようにと、カモフラージュに図書館へ通っているふりをした。
口頭で病状を説明しただけで処方された薬が果たして効くのか、そればかりで頭がいっぱいで本を読む気なんてさらさらなかった。
だからいつも、表紙も碌に見ず適当に借りていた。
そんなある日、あなたに話しかけられた。
『今日は何をお調べですか、図鑑のお嬢さん』
その時初めて、自分がいつも図鑑を借りているのだと気づいた。
そんなことにも気づいていなかったくらい張り詰めていたものが、あの時向けられたあなたの柔らかな微笑みで緩むのを感じたの。
尽きない不安が押し寄せる暗い毎日の中、そこだけ陽だまりが出来たような温かい気持ちになれる微笑みを求めて、私はいつしか図書館へ通うのが楽しみになっていた。
そんな時、あなたが故郷へ帰ると聞いた。
そこで私はまた気づいた。
あなたと私は逆立ちしても結ばれないと理解していたはずなのに、何をしても離れたくないと強く思っている自分に。
側にいる為なら何を失ってもかまわないと思うくらい、司書のあなたを、うんと年上のあなたを好きな気持ちに。
それから私は考えて考えて、自分が公爵家の娘でなくなったと同然となり、この地、あなたの故郷へ追いやられるための策略を練ったのだ。
「その為なら構わないと思ったの……」
切れる息を整えながら、小さな町の端で開かれている花市場へと足を向ける。
今日まで何も怖くなかったのに、急に怖気付いて指先が震えだす。
ここまで追いかけてきたと知られたら気持ち悪がられるかもしれない。
あなたに憶えてもらいたくて借り続けていた図鑑を今は持っていないのだ、私と気づいてもらえないかもしれない。
そもそも故郷に戻るのを取り止めにしていたら。
色々な不安が頭の中を巡って、辟易としていたはずなのに今日ばかりは神に祈りたい気分になってくる。
どうか微笑んで、どうか——
「……おや、あなたは?」
心臓が跳ね続ける胸を押さえて、市場へ入ろうとした時だった。後ろから聞き慣れた声がした。
「ああ、やはり。私です、ほら、図書館で……こんな所でお会いするとは」
振り向くと、切り花をいっぱいに抱えた彼がいた。
私は込み上げるものを堪えて、用意してきたセリフを口にする。
「す、すごい偶然……私、都会の水が合わなくなって、こちらでしばらく療養することに。それで、そうしたら、あなたがいるんだもの……」
そうでしたか、と呟く彼の目に不審の色は浮いているだろうか。
私は恐るおそる彼を見上げ、変わらぬ眼差しに意を決して告げた。
「あ、あの! 私こちらに知り合いもいなくて、と、とっても退屈なの。だから……良かったらあなたのお手伝いをさせてもらえないかしら」
想いが報われなくても構わない。
ただ側にいられればそれでいい。
「私、花が——」
——あなたが。
「大好きなの!」
何を失っても惜しくないと思うほど。
たとえ悪女と呼ばれようとも構わないくらい。
神の代わりに微笑んでくれるあなたの側に居られるのならと、私は彼に微笑み返した。
お読みくださってありがとうございました!