深淵の森に潜む者
森の奥へと進むと、ロウが通った形跡がはっきりと残っていた。
巨大な蜘蛛や獣が凍てついた姿で倒れ、冷気が辺りに漂っている。氷の結晶が朝日に反射し、キラキラと不気味に輝いていた。
ロウの仕業であることは一目瞭然だった。彼女の冷気を操る力が、ここでも遺憾なく発揮されている。
「確かに他の森の獣に比べて凶暴な見た目だな……」
深淵の森に棲む獣たちは、他の森のものとは明らかに異質だった。鋭利な牙、異形の体躯、不気味な色彩が、その危険性を雄弁に語っている。
ヒノは眉を寄せ、慎重に周囲を見回した。
「……」
足を止め、耳を澄ませる。静寂の中に潜む微かな気配を感じ、両腕に異能装甲を纏った。装甲がカチリと音を立て、準備が整う。
「何かいるな?」
その言葉が口をついて出た瞬間、背後の巨木から何かが飛び出してきた。影が素早く動く気配に、全身が反応する。
「やっぱりな!」
「ぐぎゃ���!?」
素早く身を翻し、伸びてきたものを右手で掴み取った。力強く締め上げると、その先を辿って巨木に擬態していた巨大なカメレオンが姿を現す。
ぬらりと光る舌が、ヒノの手の中でじたばたと暴れていた。
伸びてきた舌を軽々と引っ張り、カメレオンを逆に引き寄せた。
そのまま左拳を振り抜き、一撃で吹き飛ばす。拳が空気を切り裂く音が森に響き渡る。
「ギャゃゃ!?」
木に激突したカメレオンは、悲鳴を上げて森の奥へと逃げ去った。木の枝が折れ、葉が舞い散る。
「すぐ逃げるなら手を出してくるなよな。」
小さく愚痴をこぼし、ロウの痕跡を追って急ぎ足で奥へと進んだ。足元に残る凍った地面が、彼女の存在を確かに示していた。
しばらく進むと、いつもとは異なる奇妙な痕跡が視界に飛び込んできた。
「何だこれ?」
湿り気を帯び、ヌルヌルしたような跡が地面に残っている。何かが這ったような不気味な模様が、森の土に刻まれていた。
何かがここにいた証拠だった。ヒノの背筋に、冷たいものが走る。
気持ちが少し急かされる中、ふと後ろに意識を向けた。気配がまとわりつくような感覚が、頭を離れない。
「いつまで後ろから着いてくるつもりだ?」
来た道を振り返り、鋭い声で呼びかけると、木の上から男と女の二人組が降りてきた。
二人は気まずそうに顔を見合わせ、地面に着地する。
「いつから気づいてたんだ……?」
男が気まずそうに呟いた。声に微かな震えが混じる。
「やっぱロウ・アイリスを倒したって本当っぽいね。」
女が小さな声で男に耳打ちする。その視線が、ヒノを値踏みするように動いた。
「(こいつら学園で見たことあるな)」
二人が学園の生徒だと気づいたが、これまで接点はなかった。顔は見覚えがあるものの、名前までは思い出せない。
「入ってから少し後ぐらいに気づいてた。それでお前らが今回の原因か?」
淡々と尋ねると、男が渋々口を開いた。言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「……あぁ。俺達がアイツをここに来るよう仕向けたんだ。」
「いや、あたしは反対してたよ。」
女が言い逃れようとすると、男が情けない声で突っ込んだ。
「お前もお灸を据えてやろうって言ってただろぉ……!」
「それで仕向けた奴らが何でここに来た? アイツが死ぬ姿でも見に来たのか?」
思ったままを率直にぶつけると、男が慌てて否定した。
「ちげぇよ! 俺達はただ……」
言葉に詰まった男の様子を見て、先を補った。
「……その様子だとアイツがこんな奥地まで入らないと思っていたってところか?」
「そ、そんなんじゃ」
図星を突かれ、男は言葉を失った。顔が赤くなり、視線が地面に落ちる。
「もう意地張ってないで正直に話しちゃおうよ。」
女が男を諭すと、少しの沈黙の後、再び口を開いた。
「お前は何でここに来たんだよ。アイツがムカついたからぶっ倒したんじゃないのかよ? 俺はムカついたから出鱈目なこと言わせて仕向けたんだ! 散々俺の仲間を傷つけておいて今更いい子ちゃん面するアイツがっ!!!」
感情を抑えきれず、男が声を荒げた。拳を握り、地面を睨みつける。
「怒るのもわかるが、お前の仲間は死んじゃいないんだろ? アイツの良心を利用して死ぬかもしれない場所に仕向けるのはやりすぎだと思うぞ。」
単純な理屈を突きつけると、男は反論できずに黙り込んだ。肩が小さく震え、怒りが収まらない様子だ。
「だから……くそっ。」
「確かにアイツの改心の早さは俺も驚いたけどな。」
「そう! アタシ達はそこが気に入らなかっだよね。都合良すぎるよねーって。」
女が便乗するように口を挟んだ。声に軽い苛立ちが混じる。
「周りを鍛えたかっただけみたいだったし、それだけやりたくない事だったんだろな。」
ロウをフォローする言葉を放つと、二人は少し黙り込んだ。森の静けさが、再び三人を包む。
「……」
「……」
「それで、お前らはどうするつもりだ?」
尋ねると、男が重い口調で答えた。
「……嘘話を聞いてここまで来たアイツにこれ以上何もしねぇよ……」
「じゃなきゃこんな所に来ないしね……」
「なら俺はそろそろ進ませてもら……う?」
二人がロウに敵意がないのを確認し、再び前を向いた。
その瞬間、目の前に奇妙な存在が現れた。空気が一瞬で変わる。
「キュぴ……」
いつの間にか、真っ黒いスライムが前方に現れていた。
表面には白い点が三つ浮かび、ゆっくりとこちらを向く。不気味な動きに、背筋が凍る。
「(何だこいつ……? 気配がなかった)」
今まで見たことのない物体に、棒立ちで眺めた。頭が一瞬空白になる。
その時、聞き覚えはあるが聞き慣れない大きな声が響き渡った。
「早くそいつから逃げてッ!!!!!」
声のする方を見ると、服が所々破れたロウ・アイリスが立っていた。
その姿と叫びに、目の前のスライムが危険だと瞬時に悟った。息を呑む間もなく、体が動き出す。
異能装甲を纏い始め、両腕から肩にかけての装甲とバーニアを最速で生成した。金属音が鳴り響き、準備が整う。
「は?」
「えっ?」
後ろの二人は呆けたように動かない。驚きで固まったまま、状況を理解できていない様子だ。
正面を向いたまま、右手と左手を後方に伸ばし、炎を噴射して二人を吹き飛ばした。
「なっ!?」
「えっ!?」
「急いでこの森から出ろっ!!」
顔だけ後ろに傾けて叫ぶと、すぐに前方に視線を戻した。
その刹那、スライムが目の前まで迫っていた。黒い影が視界を埋める。
「はやっ……!」
後ろへ飛び退くと、スライムの周囲に氷の壁が現れた。
ロウが地面に両手をつけ、氷を操っていた。冷気が空気を切り裂き、鋭い音を立てる。
だが、スライムは体を四方に伸ばし、氷を粉砕し、飲み込むように吸収していく。異様な光景に、目が離せない。
「ヒノ! 逃げてっ!!」
「お前もだよっ!!」
ロウが普段の穏やかな声とはかけ離れた、焦りに満ちた叫びを上げた。彼女の声が森に反響する。
「きゃっ!?」
スライムを倒すことは考えず、即座にロウのもとへ飛び、左腕で抱え上げた。
来た道をなぞるように、全速力で駆け出した。バーニアが唸りを上げ、地面が遠ざかる。
「ヒノっ何でここ━━」
ロウが何かを聞こうとしたが、軽い口調で遮った。
「たまたま話を盗み聞いて暇だったから! その姿、あの軟体にやられたのか?」
ロウの服は所々破れ、露出した肌を恥ずかしそうに手で隠している。彼女の頬がわずかに赤らむ。
「アイツに肌を触れたら多分逃げれない。気をつけて。」
「気をつけるも何も、もうこのまま速攻で帰るだけ━━」
逃げ切ったと思った瞬間、進行方向に再びスライムが現れた。
形状を変え、触手を何本も作り出して襲いかかってきた。黒い触手がうねり、空気を切り裂く。
「こいつッ!」
地面を駆け、バーニアを使って触手を躱した。炎が空気を焦がし、熱風が頬を撫でる。
だが、左腕でロウを抱えているせいで動きが制限され、避けきれない場面が増える。焦りが募る。
「くそっ!」
「わっ!?」
一旦ロウを上後方に投げ捨て、両手で触手を防いだ。
防いだ瞬間に両手の装甲を外し、即座に離脱する。装甲が地面に落ち、カランと音を立てる。
ロウの元へ跳躍し、両手で受け止め、お姫様抱っこの形で抱え上げた。彼女の体が軽く震える。
「ヒノっ!」
この姿勢ならバランスが取りやすく、バーニアの操作性も上がると判断した。
両腕の装甲はスライムに取り込まれる前に自ら消し去っていた。冷静な判断が、危機を切り抜ける鍵だった。
「さて、どうやって抜けるか。」
スライムがこちらの様子を伺うように静止している。黒い表面が波打つように揺れ、不気味な気配を放つ。
通せんぼされた状況で、脱出の策を考え始めた。頭がフル回転する。
その時、スライムの後方で巨大な木が凄まじい勢いで倒れ、スライムを押し潰した。木が地面に激突し、轟音が森を揺らす。
「ピギュ!」
倒れた木の根元を見ると、先ほどの男と女が力を合わせて木を倒したようだった。汗にまみれ、息を切らせながらも必死の形相だ。
「今のうちにーー!」
女の声が聞こえた方向を見ると、脚に装甲を纏った彼女が男に肩を貸し、素早く逃げていく姿があった。
「(あの女はスピードに自信があるタイプか)」
二人が逃げ遅れないのを確認し、一気にバーニアを点火して別の方向へ逃げ出した。
スライムの速さを考えると、全力で逃げなければ危険な領域だった。後ろを振り返る余裕はない。
「あいつ! 追ってきてるか!?」
ロウに確認を求めた。声に焦りが滲む。
「どんどん距離を詰められてる……!」
「嘘だろ……!」
ロウの報告に、本気で焦りが募り始めた。汗が額を伝い、視界が揺れる。
「そうだ! 俺の背中の装甲を冷やしてくれ!」
「分かった……!」
装甲を冷やせば、炎の出力を限界を超えて引き出せる。
現状、装甲は炎の威力に耐えきれていない状態だった。ロウが首に手を回し、背中を冷やし始めた。冷気が装甲に触れ、白い霧が立ち上る。
「よし! いけるな!」
バーニアの出力上限が増したのを感じ、スライムに追いつかれる危機を回避した。
軽い気持ちで来たが、こんな怪物に遭遇するとは予想外だった。かつての汚染された世界でも、こんな不気味な存在は見たことがない。
「んっ?」
しばらく進むと、少し前に追い払った巨大なカメレオンが再び姿を現した。
それを無視して通り過ぎると、ロウが小さく呟いた。
「あっ食べた。」
「は?」
少し後ろを振り返ると、遠くで巨大カメレオンが立ち止まっていた。
「食べたってあの軟体を?」
「うん……」
遠くから様子を窺うと、カメレオンが突然呻き声を上げ始めた。
「ぎゃ! ぎげげげ! ぐぎゃ!!」
次の瞬間、黒い触手がカメレオンの体を突き破った。
その状態で、再び追いかけてきた。異様な光景が、目を離せなくさせる。
それを見たロウが、恐怖に震える悲鳴を上げた。
「きゃ!?」
「うっ!?」
その光景に、再び全速力で出口を目指した。バーニアが唸り、風が耳元で鳴り響く。
しばらく進むと、遂に森の外へと脱出できた。朝日が再び視界に飛び込み、眩しさが体を包む。
「はぁ……はぁ……ヒノ……」
「はぁ……はぁ……なんだあいつは。」
ロウを地面に下ろし、四つん這いになって息を整えた。
命の危機を感じながらの逃走は、疲労を極端に増大させていた。膝が震え、地面が冷たく感じられる。
息を切らしていると、外で待機していたミノミヤ・ミノリが馬車を走らせて駆けつけてきた。馬の蹄の音が近づき、土煙が舞う。
「ふ、二人ともこんな所で何してるんですか!?」
ミノリの視点では、服がビリビリに破れたロウのそばにいるヒノ。明らかにまずい場面だった。彼女の目が驚きに丸くなり、手綱を握る手が震えている。




