俺と転子と生活模様
妖怪。
現実味を帯びないこの言葉は、しかし確かに、俺の現実を蝕み始めていた。
「おいお前、起きろ! 」
「んぐ……何だよ、まだ朝じゃねーか……」
聞き覚えのない声に急かされ、俺は重たい瞼を開く。
床に寝ていたということもあり、全身に疲れが残っている。起き上がろうにも、腕が筋肉痛で酷く痛い。
何でこんなことになったんだっけか。確か昨日、小さな女の子を捕まえて……
「まだとは何だ、もう朝だぞ! お前、そんなに寝てたら牛になっちゃうぞ!」
「うぉっ! お前、どうして俺の家に!」
昨日捕まえた女の子が俺に馬乗りになっている事実を前に、ようやく目が覚めた。
「どうしてって、お前が連れてきたんじゃないか!」
「そうだっけ? あー、そうだった気がする」
言われてみれば確かに、俺は昨日この少女を抱きかかえて帰ってきたんだった。腕の筋肉痛は、この時が原因だったか。
「そんなことより、テンコはお腹が空いた! 朝ごはんはまだか?」
「ふてぶてしいな、コイツ……っていうか、テンコって何だよ」
俺が起き上がると、少女は俺からひょいと降りる。それから、悪戯っぽい笑顔を俺に向けた。
「テンコの名前! テンコは、"転子"って言うんだぞ!」
一年ぶりに朝から顔を出した俺を見て、母は明らかに驚愕していた。
「お、おはよう正野」
「お、おう」
俺としても、まさか母がいるとは思わなかったので動揺していた。今考えると、朝の時間帯に母がキッチンにいるのは何もおかしくないのだが。
「マサヤ! お前はマサヤって言うのか!」
「な、何か作ったらいい? お腹空いてる?」
「テンコ、肉が食べたい!」
何となく分かっていたが、母は転子の姿が見えていないし、声も聞こえていないようだった。
「あー、肉とかがいいかな」
「それじゃあ今からソーセージ焼くから、座ってて」
俺の言葉を聞いて目を輝かせる転子を横目に、俺はリビングの椅子で待つ。
それにしても、転子は一体何者なのだろう。幽霊ではないとすれば、思いつくのは『俺の中の妄想』説とかだろうか。
「ごめんね、こんな簡単なものしか作れなくて」
「おおーっ、肉だ!」
俺に出されたソーセージを、横から鷲掴みで取っていく転子。
「熱っ、あちっあちっ」
そして火傷する転子。
「まあ、そうだろうな」
小声で言いつつ、さりげなく箸を転子のほうへ置く。
「久しぶりね、こんな早くに正野が来るの」
「あー、うん」
「何かあった? その……無理はしなくていいからね」
「まあ、別に」
会話と返答が噛み合ってない気もするが、コミュ障こと俺にとっては日常茶飯事である。
ましてや、母親とは一年ぶりの会話らしい会話。端的に言えば気まずいのだ。
それからも会話は続くことなく、時間だけが過ぎていった。
「じゃあお母さん、仕事に行ってくるから。その、留守番よろしくね」
そう言って母はリビングを後にした。
家の鍵がかけられたのを確認すると、俺は即座に転子へ声をかけた。
「お前のこと、全く触れられなかったな……」
「私は妖怪だからな、ふつーの人には見えないのだ! って母上が言ってた」
「妖怪ねぇ……」
聞き覚えのある、しかし現実味のない単語を聞いて、俺は眉をひそめる。
妖怪。日本に古来から伝わる、責任転嫁の最終着地点。とあるアニメの影響で、何でもとりあえず妖怪のせいにするのが流行ったんだっけ。
一方で、俺の中には納得のような感情が生まれていた。
転子が食べたソーセージは、既に皿の上から消えている。それはつまり、転子は俺の妄想なんかじゃなく、実在することの証明になるのではないか。
納得した点はもう一つあった。
「妖怪……ひょっとしてお前、人を転ばす妖怪だったりする?」
「お? よく分かったな、転子は誰でも転ばせるんだぞ!」
「いやまあ誰でも気付くとは思うけどな」
とはいえ、これで疑問が解けた。
俺の周りで人が転ぶとき、その近くに転子がいた理由。その答えは単純、転子が俺たちを転ばせていたからだ。
つまり、俺がトンネルで恥ずかしい思いをしたのもノーカンということである。
この日を初めに、転子と俺の奇妙な生活が幕を開けた。
転子は他人から見えない以外、六歳前後の子供そのものだった。朝早くに起き、飯はよく食い、夕方まで走り回って、夜は泥のように眠る。
そんな奴の面倒を一日かけて見ないといけないので、面倒この上ない。親が子供に暴力を振るう心境が、少しだけ理解できる気がする。
それから、一つ新たな発見もあった。
あれは、転子と暮らし初めて二日目のこと。
「あいたっ!」
「おいおい、走り回ってるからそうなるんだぞ」
狭い廊下で走っていた転子が、目の前で唐突に転んだ。
先日のように泣きわめくと困ると思い、俺はすぐ駆け寄る。だが涙を浮かべはしたが、転子は声を上げることなくその場で立ち上がった。
「……呪い」
「は?」
「テンコはな、人を転ばす呪いが使えるんだ」
「ああ、前も言ってたな」
それと今の状況に何の関係があるんだ?
そう思いつつ首を傾げていると、転子が口を開く。
「テンコは、一日に五回まで人を転ばせられるんだ」
「か、回数制限があるのか」
「それでな、もし五回転ばせなかったら……次の日に、テンコが転ぶんだ」
「うわぁ……」
お気の毒、という言葉が俺の脳内に浮かぶ。
回数制限があって、しかも使いきらないとデメリットが発生する。効果も相まって、なんて微妙な能力なのだろう。
せめて転ばせる回数が無制限とか、自分は転ばないとか、転ばせる意外の能力とか……
何か一つでも違えば、妖怪らしい能力だったのかもしれない。
「ひょっとしてお前、妖怪の中でも落ちこぼれだったりする?」
「なっ、何だとー! 母上はテンコのことを、立派な妖怪だって言ってたぞ!」
「そりゃあ、自分の子供にはそう言うだろ」
「父上だって、妖怪らしい力だって誉めてくれたんだぞ!」
実際、妖怪の中では優れた能力なのだろうか。それとも、転子が井の中の蛙なだけだろうか。
できれば後者であってほしい。
「まぁ……そんなに言うなら否定はしないけど」
「なっ、その顔は信じていないな! 見ていろ、転子はすぐ立派な妖怪に……ぎゃっ!」
俺に背を向け歩きだしたところで、再び足を滑らせる転子。
今度こそ転子は泣き出してしまい、俺は彼女を宥めることになるのだった。
思い返せば、このやり取りから俺は転子を気にするようになった。
妖怪の落ちこぼれである転子と、社会の落ちこぼれである俺。変なところで共通点があって、俺は勝手に親近感を抱いていたのだ。