非現実との出会い
「はーなーせぇーっ! お前、誰を掴んでいるのか分かっているのかぁーっ!」
目の前で暴れる二つ縛りの少女の背中を、俺はボーッと見つめていた。
「おいお前っ! 聞こえているのか! 見えているんだろう! ……ま、まさか私のこと見えてないのか?」
「いや、見えてるけど」
「じゃあ離せぇーっ! 呪われたいのかお前はぁーっ!」
脇を抱えられ、ジタバタと手足を振り回す少女。
その少女を抱えているのは俺。つまり端から見れば、子供を高い高いしているような状態だ。
ただ一つ、明確な違いがある。それは、周りの人間からはこの子供が見えていないということだ。
状況整理のため、少しだけ過去を振り返ろう。
俺の名前は九条 正野。いつも黒っぽい私服を着ている25歳、無職である。
そう、無職である。就職に失敗したと形容するべきだろうか。
今は五センチほどまで伸びた髪も当初は切り揃えてたし、スーツも着こなしていた。顔も悪くないし、身長も百七十を越える程度はある。
ついでに言葉遣いにも気を付けていたはずだが、そんな俺を数多の会社は落としやがったのである。
結局、何度もお祈りメールを送られ俺の心は砕け散った。そして就職の希望を完全に無くし、今に至るのである。
初めはそんな俺に対して親も優しかったのだが、そのまま二年が経過した現在はほぼ無視されている。
親にとって俺は腫れ物のようなものなのだろうか、それともどうやって関わればいいのか分からないだけだろうか。何にせよ、考えるだけ無駄なので家族問題は一旦置いておく。
問題は、この少女との出会いだ。
俺は最近、趣味として夜の散歩に勤しんでいる。理由は運動不足。
本当はリングフィット何とかってゲームを買いたかったのだが、親が金を出してくれないので仕方ない。
そんなわけで近所を歩き回っていたのだが、最近になって身の回りに異変が起きた。
それは、普段のように散歩をしていたある日のこと。
「フッフーン♪フッフーン♪フッフ……わぐぁっ!」
トンネル内で気持ちよく歌っていたところ、何もない場所で盛大に転んだ。
足を滑らせただけとはいえ、尻餅をついた自分が少し恥ずかしくなる。おまけに周囲を見渡すと、後ろから少女が俺のことを見ていた。
歌ってから転ぶまでの一部始終を見られていたと思うと、恥ずかしく顔から火が出るかと思った。
俺は何とか羞恥心を誤魔化そうと、再び歌い出そうとする。
だが、二度あることは何とやら。
「ふ、フンフフフンフン♪フン……ぶぁっ!」
歌い出したかと思いきや、俺は再び転んだ。さっきは後ろへ転倒したが、今回は前へ膝をつくような転び方だった。
いや、この際どう転んだかはどうでもいい。重要なのは、一連の行動をすべて少女に見られていたということだ。
その時の俺はあまりの恥ずかしさに、四つん這いでトンネルから抜け出した。
今思うと四つん這いのほうがよっぽど恥ずかしいが、それはそれとして、この日以降から異変は起き始めた。
トンネルの一件以来、俺はよく転ぶようになった。数日に一回、下手すると一日三回は転ぶ。
初めは注意不足かと思い、足元に気を配った。だがどれだけ気を付けても、どれだけゆっくり歩いても、転ぶときは盛大にずっこけてしまう。
まるでバナナの皮でも踏んだかのように、時には前に、時には後ろにバランスを崩すのだ。
そして、転ぶ異変に付随してもう一つ異変は起こっていた。
俺が転ぶとき、必ず少女が俺のことを見つめているのだ。
淡い藍色の着物を着た、髪を二つ縛り__イケてる連中の間では「ツーサイドアップ」と呼ばれる__にした、可愛らしい少女。トンネル事件のときに俺を見ていたのも、この少女だった。
そんな彼女に見られ、初めは嫌な気分だった。転んでいる姿をじっと見つめられる度、「転んでる男を見てそんなに楽しいか!」と問い詰めたくなった。警察のお世話にはなりたくないため、実行には移さなかったが。
嫌悪感が疑問に変わったのは、少女を見るようになってから三日後だ。
いつどこで転ぶにしても、少女が俺のことをどこかで見ている。これだけだと恐怖体験だが、見方が変わったのは家の二階から外を眺めていた時だ。
太陽が眩しい昼間、俺はソシャゲをしながら窓の外を眺めていた。
そんな時、玄関の前を歩いていたサラリーマンが急に躓いたのだ。
普段の俺なら「ハハッ、外回りなんてしてるから転ぶんだよ」と笑っただろう。だがそれよりも、俺の視線を引く存在が一人いた。
それが前述した少女である。しかも少女は、起き上がろうとするサラリーマンの真正面で、じっと彼を見つめていた。
「おいおい、そんな所にいたら文句言われるぞ」と、自分のことを棚に上げて考えていたのも束の間。
そのサラリーマンは少女に目もくれず、立ち上がり歩き出したのだ。確実に少女が目に映っていたはずなのに、まるで少女が存在しないかのような振る舞いだった。
その一件から、俺は気になって周囲を観察するようになった。正確には、転ぶ人間とその周囲の観察。
すると案の定というか、転んだ人間の近くにはあの少女が立っていることが判明した。
人間だけではない。近くにいる犬や猫ですら、少女が近くにいると足を滑らすことがあった。
少ない日は二日に一回、多い日は一日に二、三回ほど転ぶ人を見かけたが、その近くには必ずあの少女がいる。
そして奇妙なことに、転んだ人は誰一人として、少女のことを気に留めなかった。話しかけないどころか、視線を送ることすらしない。
この時、俺の中で一つの仮説が立った。
ずばり「少女は幽霊」説だ。彼女は何か目的とか恨みがあって、人を転ばせているのではないだろうか。
もし彼女が幽霊なら、あの時トンネルで俺のことを見ていた人は誰もいないということになる。
というか仮に転ばされたのであれば、俺の失態は存在しなかったことになる……のではないだろうか(四つん這いになったことは一旦目を瞑っておく)。
そんなわけで、俺は真相を確かめるべく少女への接触を決心した。
実行のタイミングは俺が転んだ瞬間。少女の居場所を特定し、幽霊か否かを確かめる__!
と、意気込んだのが数日前の話。
「お前なんか、私の呪いで簡単にやっつけられるんだぞー! だからこの手を離せぇーっ!」
抱えられて暴れる少女を目の前に、俺はただ唖然としていた。
俺のプランであれば、少女は幽霊なので触れないはずだった。だから手を伸ばして、彼女の身体が透けることだけ確認できればよかったのだ。
だが現実は非情である。少女は俺と目が合った途端に逃げようと背を向けたし、手を伸ばせばヒョイと抱え上げることができた。
「あれ……幽霊じゃないのか……?」
「私をそんなヤツと一緒にするなー!」
「いやでも、いま呪いが何とかって」
「そうだ! お前なんて私の呪いで倒してやるんだーっ!」
「はぁ……?」
マズい、完全にただの子供っぽい。呪い云々ってのは、アニメとかの影響だろうか。
しかしこのままだと、俺が殺されてしまうことになる。主に社会的に。
無職でロリコン疑惑とか、完全に立ち直れなくなるヤツだ。それだけは避けるべく、通報はされたくない。
「ひとまずは、警察に相談かな……」
あくまで俺はまだ、子供を拾っただけ。このまま警察に突き出せば挽回できるはずだ。
そうして歩き出した時、俺が何度も味わった異変が起こった。
「今だ、食らえっ!」
「うぉっ!」
踏みしめた足がツルッと滑り、前へと倒れる。
考えてみれば、可能性はあった。少女が幽霊でないことは証明されたが、それと転ばないこととは何の関係もないからだ。
ジンクス、とでも言い換えれるだろう。『少女の近くにいると転ぶ』というジンクスは、少女が幽霊でなくとも成り立つ。
さて、ここで一つ問題が発生する。
先ほど言ったように、俺は前へと倒れようとしている。だが、俺の両手は少女を持っている。
するとどうなるだろうか。
ゴンッ! という鈍い音が、俺が倒れきるより前に響いた。
少女を抱えている状態で前に転んだのだ。先に床と衝突するのは少女だろう。
そして最大の問題点が、その後に床へ衝突するであろう俺の存在である。
このまま倒れたら、少女がクッションになり俺へのダメージは軽減される。だがその場合、少女を俺の全体重で押し潰すことになる。
最悪、死んでもおかしくない。
そこで俺がとった行動は__
「うおおぉぉっ!」
腕立て伏せだった。
少女の顔のすぐ横に手を付き、力の限り重力に逆らう。
結果として、なんとか少女を潰す前に俺の身体は止まった。腕が力尽きるより先に膝を付き、なんとか体制を立て直す。
「はぁ、全く……」
出血はしていないが、腕の震えが止まらない。明日は筋肉痛確定だな。
問題が一段落したところで、新しい問題が舞い込んでくる。
「うわあぁぁぁん! 痛いよおおぉぉ!」
この少女をどうするか、という問題だ。
「いや、そう泣くなよ……というか、俺を転ばせたのお前だろ? 『食らえっ』とか言ってたし」
「ああああぁぁん! 母上ええぇぇぇ!」
「はぁ……」
泣きだした少女との会話は会話にならず、つい溜め息を吐いてしまう。
結局、どうして彼女が周りから見えてないのかは分からないままだ。
そして、俺が少女を慰める義理はない。俺は保護者でも警察でもないし、何なら被害者なのだ。
少女をここで放置しても、誰も困ることはないだろう。
……だが、何故だろう。アニメの見すぎだろうか。
俺の好奇心は、身体と口を突き動かした。
「うわあぁん、お腹空いたああぁ! 父上ええぇ!」
「……あー、お前、俺の家来るか?」
「あああぁぁ……あ?」
俺の言葉を聞き、ピタリと泣き止む少女。振り返った彼女の顔は、転んだときの擦り傷と涙で膨れ上がっていた。
マジで潰さなくてよかった、と心の片隅で安堵する。
「家……お前の家、母上と父上、いる?」
「いやそれは知らね__」
「うぇ、ひっく」
「けど! 知らねーけど、まず食い物だろ。なんか食って、それから探せば良くねーか?」
再び泣き出しそうになる少女の顔色を伺いながら、俺は言葉を選ぶ。
やがて俺の意思__敵意はないこと、泣き止んでほしいことが伝わったのだろうか。
少女がコクリと頷いた。
「ん、分かった。お前の家にいく」
「よし、じゃあ一緒に歩くか。……おい、歩くぞ」
少女の同意を得て、俺は家へ歩き出そうとする。が、一向に少女がその場から立ち上がらない。
「疲れた。お前、抱っこしろ」
「はぁ? 俺も腕が折れそうなんだが?」
「いぃーやぁーだぁー! もう歩きたくないぃー!」
「あーくそ、分かった分かった! 運べばいいんだろ!」
なるべく性的なことは頭から追い出し、彼女の身体を尻の下から抱え上げた。
「ん……お前の身体、固い。手もプルプルしてるし」
「なっ、文句言える立場か! そもそも腕はお前のせいで」
「……すぅ……くー……」
「ね、寝ただと……?」
あまりの自由奔放っぷりに、思わず漫画のような台詞を吐いてしまう。
それにしても、行動や言動は完全に子供のそれだ。今のように話していると、とても俺を転ばせた元凶だとは思えない。
だが人が転ぶとき、彼女が近くにいたのも事実。
「面倒なことに巻き込まれたなぁ、俺……」
自分が選んだ選択だということは棚に上げ、俺は苦笑いを浮かべた。
自分のことを棚に上げるのは、俺の得意分野なのだ。
こうして、俺と少女の奇妙な生活は幕を開けた。