第7話 少女の失恋と女の決意
「御成婚おめでとうございます」
皇帝と皇妃の婚姻式には誓いの言葉も口付けもなく、宣誓書への署名で終わります。指定された場所に私は名を書き、続いて陛下が御名を書かれる。
2つの名前が並んだ宣誓書に陛下が聖魔法をかけると、名前の文字が淡く光り、その光が私の胎に消えた。今度は正しく御名を書かれたのだな、と思ってしまったのは内緒。
「リディア、ようやく私の義妹になったね」
私に祝杯を差し出しながら「さあ、お兄様と呼んでくれ」というナディル様に思わず微笑みが漏れる。レオノーラの罪滅ぼしの為とは知らずとも、準備期間たった7日の婚姻式は「ワケあり」と思われるに十分であり、探る様な視線を浴びながら受ける祝辞に辟易していたのです。
「僕の小さな義妹はいくつになってしまったんだい?」
「18歳、3ヶ月後には19歳になりますわ」
***
私の15歳の誕生日の朝は女性の悲鳴で始まりました。
人前に出るに恥ずかしくない程度に身支度を整えて廊下に出れば、屋敷の中は朝とは思えないほど顔を赤らめた侍女たちの声で賑わっていました。近くにいた侍女を呼び留めて何があったか問い質すと、彼女は「レオノーラ様の部屋で……」とだけ言って、仕事があると言って足早に去ってしまいました。
レオノーラの部屋と聞いて嫌な予感はしました。
私の行きたくない気持ちを無視するように使用人たちは道を開け、廊下を曲がったところでレオノーラの部屋の入口にできた人だかりにため息が出ました。それに気づいた数人が気まずそうな顔をして……私も最初はレオノーラが邸の調度品、それも国宝級の何かを壊した程度に思っていました(これでも頭痛がする案件ですが)。
「みんな、仕事に戻りなさい」
この頃には屋敷の使用人の3分の1は継父一家に服従しており、数人は反抗的な態度を見せるのを覚悟して指示をだしたのに、全員が素直にこの場を去ったことに嫌な予感がさらに高まりました。
そうして部屋に入った私は、目の前の光景に頭が真っ白になりました。いま思えば不自然さはそこかしこにあったのに……あの光景は衝撃的過ぎて……いいえ、それは言い訳ですね。
そこにいたのは裸の体に真っ白なシーツを巻き付けただけの若い男女。
陛下はベッドに俯いた状態で座っていて、そんな陛下の肌がむき出しになった広い背中にぴったりと全裸と分かる体を寄せて笑うレオノーラ。
私の脳は『レオノーラの嫌がらせだ』と警鐘を鳴らしたけれど、陛下がレオノーラを押しのけず彼女の体の重みを受け入れていたこと、そしてレオノーラの白い体には無数の赤い痕がついていたことで、私の脳は悍ましい想像で占拠されてしまいました。
クラクラする頭に響いたレオノーラの声は今でも覚えています。
『ごめんなさい。カダル様はリディアの婚約者だって分かっていたけれど……気持ちに嘘が吐けなくて……昨夜カダル様に望まれたから……初めてだったけれど私は……』
そう言って泣くレオノーラの足元には純潔を散らした痕としか思えない血痕があり、あまりの衝撃に対応できないうちに……継父がやってきたことで「やられた」と理解しました。
『何の騒ぎだ、レオ……ああ、レオノーラ!!カダル殿下!!これは一体……レオノーラ、とにかく服を着てこの部屋を出なさい!他の者もだ!!!―――カダル殿下、動けるようになりましたら説明願いますよ!?』
駆け込んできた継父のにやけ顔とレオノーラの勝ち誇った笑みを見た瞬間、私は……真実はどうであれ陛下が罠にはまってしまったことを理解しました。
私の予想通りレオノーラは純潔を散らされたと主張し、陛下は法律に則りレオノーラと婚約しました。当時皇弟だった陛下に重婚は認められないので、私との婚約も自動的に解消となりました。
***
「リディア様、サウザンド公爵からの御手紙が来ております。」
侍女の言葉と共に受け取った手紙、送り主の場所に書かれたサウザンド公爵ことナディルの名前にリディアは顔を緩めた。
病弱を理由に弟に皇位を譲った彼には新皇帝から公爵位を叙爵され、王都の南にある与えられた領地で風の一門出身の妻を迎えたこと。南の温暖な気候と、王宮の禍々しい謀から離れたのがよかったのか、ナディルはすっかり元気になり、昨年第一子が生まれたと手紙には書かれていた。
ナディルの退位宣言は突然だった。
あれほどナディルを廃位させるために妄執を奮っていた皇太后が「本当に良いのか?」と3度問い質すほど、何の予告もない突然の退位だった。
ナディルにも4人の妃がいたが子はいなかったので、皇帝位は皇位継承第1位のカダルが継いだ。皇太后はあれほど熱望したカダルの即位式の翌々日、二人の侍女を伴って実家である火の侯爵家に下がった。
カダルの即位で狂喜乱舞したのはルードリッヒたちだった。
何しろ未だ婚約式は行っていないもののカダルはレオノーラを婚約者とすることを約束したのだ、つまりレオノーラが未来の皇妃となるのだ。
先走って祝いの夜会どんちゃん騒ぎで光輝く侯爵邸を、リディアは呆れて冷めた目で見ていた。
喜びで頭のネジを数十本吹っ飛ばしたのだろう、ルードリッヒたちはこの国の者なら子どもでも知っている「皇帝の結婚のルール」を忘れていた。皇帝になったら後宮を作り、各門から一人ずつ妃を娶る、というやつだ。
カダルもルールに則って後宮を作り、各門から妃を自薦他薦で募った。
何しろ見目麗しい権力者の妃である。最初は自薦の妃たちが集まり、レオノーラも「自分はカダルと婚約の約束をした」と水の一門に訴えて水の妃になった。
入宮するときにレオノーラは集まった水の一門の当主たちに「みなさん、私のためにありがとう。」と手を振っていたが、レオノーラがリディアからカダルを寝取ったのとは比べ物にならないくらい、各家門の当主は狡猾だった。
そんな彼らはリディアを溺愛していた。
なにしろ未だ少女と言える年齢のころから領地のために奮闘し、知識と技術と魔法を惜しみなく領地のために投入して農地を改良し、領の財政を五倍にしたリディアを彼らは自分の娘や孫のような存在なのだ。
そんな彼らは「レオノーラは望んで水の妃となったが、あの誇りと矜持の塊のようなカダルを騙してリディアを配したレオノーラをカダルが選ぶわけがない。カダル陛下はリディアうちの自慢の娘・孫一筋なのだから!」と考えていた。
―――前侯爵の影響力はすさまじく、水の一門の当主たちは全員、その狡猾さが影をひそめるほどロマンチストだった。
彼らは、とりあえず自薦の令嬢たちをレオノーラに追っ払ってもらおうと考えた。
何しろ他の一門が出す各妃たちはレオノーラに負けず劣らずの性格、誰かに問われれば「美人だけど苛烈な性格」と評されるご令嬢たちだった。毎日激しく衝突する御妃様たちについて報告を受けるたび、うちの可愛い子(孫)がそんな戦地に行かないで済んだことに安堵していた。
ちなみに、似たような報告をもらっていたリディアも、カダルに対して心底同情してしまっていた。
***
「兄上、私の皇妃ですよ……リディア、こちらにおいで」
「我が弟は心が狭い……連れていかれる前に、これを受け取ってくれないかい?」
そう言ってナディル様から渡されたベルベットの平たい箱を開けると、中にはナディル様の瞳の色によく似たペリドットのネックレスが入っていました。
「初恋の人に贈り損ねちゃったから……エレナに相談したら、その娘に渡せば彼女も喜んでくれるんじゃないかって」
ナディル様の初恋はお母様だったらしいです……ふふふ、お母様はモテモテです。
「ありがとうございます。御礼に、エレナ様にうちで作っている人気のハーブティーを持って行って下さいませ。妊婦でも飲める安全なものですが、一応かかりつけのお医者様に確認していただいてください」
エレナ様はいま二人目を妊娠中だそうです。ナディル様だけ王都にいらっしゃるのをズルいと言っていたそうだから、お土産に用意してあったのです。ナディル様が封じられた南の公爵領は暑いので、ナディル様にもミントベースの茶葉を用意してあります。
「初恋の君の娘に瞳色の宝飾品……ああ、義姉上は本当に心が広い」
「陛下も見習っては?」
本当に仲の良い御兄弟です。
「さて、御前を辞す前にお節介を焼こうかな。……リディア、いま幸せかい?」
「兄上!!」
「黙りなさい……リディア?」
ナディル様の真剣な目を見ると思わず涙が出そうになったから、私は令嬢の仮面をかぶって、優雅に見えるように笑顔を作る。
「初恋の方の花嫁になれたのですから、私は幸せですわ」