第4話 恋は人を暴走させる
婚礼衣装を身につけて祭壇の前に立つ。
この三年間で二十九回も繰り返してきたことだが、俺は初めて緊張していた。
視界がぼやけたことで、瞬きもせずに扉を凝視していることに気づく。
緊張で落ち着かない。
リディアと三年振りに言葉を交わした日からずっと緊張し続けている。
―――帝国の太陽である皇帝陛下。
あの日、ルードリッヒの執務室に呼ばれたリディアは俺を見て軽く目を瞠ったものの、次の瞬間には何もなかったように臣下の礼をとってみせた。
婚約破棄して以来、リディアを全く見かけなかったわけではない。
しかし、あの大きな瞳に自分の姿が映っていることに気分が高揚した。
喉がグッと絞めつけられ、俺は咳払いをして座るように命じた。
ソファに座ったリディアは指示を待つかのように俺をジッと見ていた。
その揺るぎない芯のある目が、俺の語ることにどう変化するのか不安だった。
俺の望むものでなかったら?
でもサイを投げた以上はやめることなどできなかった。
―――レオノーラが退宮することになった。
半信半疑の表情。
リディアはレオノーラという女をよく理解していた。
俺はあのとき『退宮する』といったがレオノーラが自発的に離縁を申し出たわけではない。
それはもう嫌がった。
嫌がるレオノーラを侯爵邸に連れていくのは骨が折れたし、犯罪者扱いされて帰ってきた娘の様子に騒ぐルードリッヒたちの対応にも骨が折れた。
リディアと話すためにレオノーラ母娘を近衛たちに預けたが、彼らには特別手当を支払った。
顔に爪によるひっかきキズをつけた近衛には二倍支払った。
俺はリディアの婚約者だったが、寝取るという形でリディアを押しのけてレオノーラが俺の婚約者におさまった。
俺はレオノーラにとって成功の象徴だった。
この国の貴族社会において四侯爵家は他の貴族たちと格が違い、その直系の令嬢から婚約者を奪うなど普通の貴族令嬢にはできない。
それをやった怖いもの知らずなところは平民だからか。
いや、きっと自分に自信があるからだろう。
レオノーラは俺をリディアから寝取ったことを自慢げに吹聴した。
普通の貴族令嬢なら、仮にそうやって奪ったとしても決して口には出さない。
それでもレオノーラの美貌と俺の皇子という地位が貴族たちに忖度させた。
「さすがですね」と褒める彼らにレオノーラは勝ち誇った顔を向けていた。
俺とリディア、そして俺の兄は幼い頃から交流があった。
俺は十二歳でリディアと婚約し、諸事情からリディアの母の監視下に置かれることになったため水の侯爵邸で暮らしていた。
レオノーラと出会ったのは水の侯爵が亡くなったあと。
ルードリッヒの再婚相手の連れ子と紹介されたレオノーラは最初から馴れ馴れしく、リディアの婚約者だと言ってもきかず、俺は兄の薦めもあって水の侯爵邸内でも護衛を傍につけることになった。
裸にしか見えない露出度の高いドレスで俺を待ち伏せするレオノーラに、「あのご令嬢は羞恥心をどうしたのでしょうか」と護衛の者は変な心配をしたりしていた。
俺にとって憩いの場だった水の侯爵邸はどんどん形を変えていった。
使用人がどんどん入れ替わる。
アプローチなんて表現では可愛らしい、レオノーラの攻撃は勢いを舞す。
素っ裸のレオノーラにバスルームに乱入されたあとは、それまで廊下で警護させていた護衛たちを部屋の中で待機させるようになった。
レオノーラの攻撃は侯爵邸内だけでなく、公式の社交場でも俺にベタベタとつき纏った。
他の令嬢たちが注意しても「義妹の婚約者、未来の兄妹として交流しているだけ」と平気でのたまった。
幼い頃から女性のアプローチを体験してきたが、あんな露骨なことはなかった。
人並みの常識と礼節がある者ならその下品さに目を疑っていただろう。
遠回しの拒絶は通じないと早々に理解した。
だから俺は、誰がどう聞いても誤解しようのない言葉で「迷惑」といった。
ルードリッヒにも「迷惑」といった。
皇族が文句言っているのだ。
普通は「是」の一択である。
しかしレオノーラは「お慕いしています」、その父親も「娘は殿下をお慕いしています」と言うだけ。
言葉でのコミュニケーションは絶望的だった。
そんな彼らの愚かさを俺に詫び続けたのはリディアだった。
リディアも複雑な立場と心境だっただろう。
小さな薄布一枚巻き付けただけの豊満な体をくっつけられた俺を見る目。
婚約者としての苛立ちや哀しさを、水の侯爵家を束ねる者としての責務で抑え込んでいた。
俺はこのときのリディアの不満に、苛立ちや悲しみにもっと寄り添うべきだった。
全てあとのまつりだが。
当時の俺は終始イラついていて、彼女を気遣うどころか「レオノーラをどうにかしてくれ」と彼女を監督不行き届きで責める始末だった。
その結果が寝取られだ。
貴族の男には「女性の純潔を散らしたら責任をとらなければいけない」というルールがある。
俺はレオノーラの純潔を散らした責任をとってリディアとの婚約を解消し、レオノーラと婚約したのだ。
至極まっとうだ。
こうして俺との婚礼式を迫るレオノーラ親子と皇家・外宮の一歩も譲らない争いが起きたが、責任がある以上は結婚しなければならない。
嘆く俺と外宮の使用人たちに救いの手を差し伸べたのは兄だった。
兄は健康を理由に皇帝の座を降りることを宣言し、俺に皇帝位を譲った。
実際のところ兄は皇帝位を嫌がっていたので半分は自分のためだったようだが、それによって俺はレオノーラと他三人を皇妃に迎えた。
皇妃は皇帝の妻ではあるが、正妻ではないため皇弟妃に比べると権力は弱い。
さらに皇弟妃につく侍女は王宮の侍女だが、水の宮の侍女は水の侯爵家の侍女である。
レオノーラのなりふり構わない暴力性は一種の武器にもなった。
俺の最初の皇妃たちは揃って気が強く、俺の寵を巡って熾烈な争いを繰り広げた。
凄惨なイジメが繰り返され、一人脱落しては新たな皇妃が来るのが繰り返され、気づけば俺は『女狂いの皇帝』と言われるようになっていた。
「宣誓書に署名を」
神官長が白い羽のついたペンをリディアに差し出し、受け取ったリディアが名前を書く。
そのペンを次は俺が受け取り名前を書く。
途中で二回インクがきれて、インクの補充が必要なくらい俺の名前は長い。
「宣誓書をお二人で女神の前に」
結婚の女神の像に宣誓書を捧げ、俺とリディアの婚姻は正式なものとなる。
陽光を受けて白く輝く女神像に、これが初代皇帝の祖父を呪ったという女神かと一瞬考えてしまった。
「おめでとうございます」
そう言った神官長が咳き込んだ。
ここ数年体調を崩して寝込むことが大きかったが、この式だけは絶対に自分がやるとダダをこねたらしい。
理由は分からないが神官長がリディアを見る目は優しい。
だから俺は彼に治癒魔法を施す。
「神官長には元気でいて欲しいからな」
「ありがとうございます、これでお二人のお子の洗礼式までは頑張れそうです」
『お子』と聞いてリディアの手がピクリと震えた。
子どもを持つことに対する緊張感か、それとも俺と結婚することになった原因を思い出したのか。
―――「愛ゆえの行動」ではすまぬ事態が起きたのですね。
あの日の俺の訪問理由を勘のよいリディアはすぐに察した。
それはそうだろう。
過去二十五人の皇妃たちが退宮したが、こうして生家まで送ってきたのはレオノーラが初めて。
それが寵愛していたからと思うほどリディアはおめでたくない(ルードリッヒとその妻は勘違いして喜んだが)。
それにしても「愛ゆえ」とは便利な言葉だ。
勝手に懸想されていても、愛ゆえなのだから甘受せよとは無理を言う。
―――レオノーラは水の侯爵家の後ろ盾をもつ皇妃、だから今回の罪は水の侯爵家の一門に償ってもらう。
侯爵家とその下門全体で償わなければいけない罪。
ここまで言ってようやく事態を察したのか、ルードリッヒは青い顔で首を隠す。
リディアは顔を青くしつつも毅然とした顔で俺を見据えていた。
その当主たる姿に、亡きリディアの母君の顔が重なった。
―――他の宮の妃を殺害したわけではないから安心するといい。
リディアに彼らの罪を押しつけない方法はあった。
俺以上にルードリッヒに苦労させられてきたリディアにこれ以上の責を押し付けるのはよくないと思いもした。
でも俺にも願いがある。
どうしても叶えたい願いが。
―――レオノーラが子を孕んだんだ。
レオノーラは継父ルードリッヒの再婚相手の連れ子なので、リディアとの間柄が「義姉」でいいのか悩みましたが、便宜上「義姉」とさせていただきました。