第1話 事実が真実とは限らない
「ここに来るのは久しぶりだな」
ナディルの呟いた声は目の前のガラスで跳ね返り反響する。
ナディルが見ているのはガラスの向こうに見える王宮。
この国の全ての中心で、王都のガイドブックに必見と書かれる場所。約1000年前に造られた歴史ある荘厳な建物だが、時代によって変化する文化と芸術そして技術を柔軟に取り入れてきた建物なので古臭いという印象はあまりない。
王宮の顔、見学ツアーなどもあるのが外宮。
外宮は国の政治が行われる場所。大勢の官吏が国のために働いている。彼らのボスとなるのが皇帝。皇帝が政務や外国の使節団との謁見するのも外宮であり、国家的な儀式も外宮で行われる。
国家的な儀式の中でも最上級の扱いをされるの皇帝の婚姻式。
皇族の血を繋ぐことは国家の安寧のために重要なこと。皇族の筆頭である皇帝の婚姻となればその重要性をあえて語る必要はないだろう。
これからその皇帝の婚姻式が行われるわけだが、それに出席するナディルは王宮が見えるこの場所にいる。
今回の皇帝の婚姻式は外宮では執り行われず、この離宮で執り行うことになったから。よく言う『異例』というものである。
「何でこんなことに」
「今回に限って場所を変えるなんて」
この異例の事態に、もうすぐ婚姻式が始まるというのに官吏たちは慌ただしく走り回っている。
彼らは国のエリートで国民の多くから羨望の眼差しを受ける存在。そのため彼らは『慌てる』や『焦る』といった彼らが格好悪いと思えるような態度はしない。威風堂々としている。しかし今はバタバタと離宮内を走り回り、どう見ても焦っている。
◇
『水の侯爵家のリディア嬢を皇妃に迎える』
皇帝のこの発言は突然だったが、官吏たちはそんなに驚かせなかった。慣習に従えば想定内の発言だったから。
リディアが皇帝の元婚約者だったことを覚えている者たちは多少驚きはしたようだが、やはり慣習なのだからで納得していた。
そう、全ては慣習。
この慣習に則り、当代の皇帝が婚姻式を行うのはリディアの分を含めて30回目。3年間で30回。最近は頻度が低くなっていたが、一時期は毎週のように婚姻式が行われていた。
通算5回目を超えた辺りから、婚姻式に対する皇帝の指示は『いつも通り』になった。予算は同じ、寧ろ使い回しで縮小傾向。用意するものも季節に合わせて多少変化するがほぼ同じ、財政部門から出費を減らせとネチネチ言われるから使い回して発注数を減らす方向にシフトしていた。さすがエリートたち。10回目の婚姻式の経費は初回時の約20%、準備期間は初回時の10%にまで短縮された。
皇帝の婚礼衣装も使い回し。
皇帝の婚礼衣装となればその時代の文化の粋を集めた芸術品。使い回しに渋い顔をするものもいたが大多数は現実的。1つ、2つならば国の経済を活気づかせるカンフル剤だが、5つ、6つも作っていたら国庫に大ダメージ。さらにそんな芸術品を毎週納められる職人などいない。
そんな風に足りないものだけ追加する形で行われてきた婚姻式。そして今回の30回目もいつも通り処理するつもりでいた。寧ろ何%削減できるか頑張ろうとしていた節さえある。
『リディア嬢との婚姻式についてだが……』
このあとは『いつも通り』と続くはずだつわた。だって過去29回がそうだった。
それなのに会場は離宮にするし、婚礼衣装は新調するし、料理も会場の飾り付けも逐一細かく指定。宝物庫をひっくり返す勢いで皇帝自ら宝飾品を選ぶ。
どうした、皇帝?
30回目の結婚の発言から城内は蜂の巣を突いたような騒ぎが続いている。週休2日、シフト制だが連続で2日間の休みを確実に取れていた職場だったのに、あの日を境に官吏の休みはない。休みを取る暇はない。
王宮はブラックな職場になった。
皇帝が聖魔法の使い手であることも彼らの休みがない原因だった。そわそわと進捗を確認しにきては、ヘロヘロ状態の官吏たちに気づき「苦労をかけるな」と回復魔法を施す。労わ人の声も忘れない。
いい人で優しい行動であるのだが、皇帝なのでいるだけで圧が半端ない。回復魔法をかけられたら働くしかないが、回復するのは体力だけで精神的な疲労は消えない。それどころか増す。
皇帝に聖魔法を施されるなど一生に一度あるかないかの名誉なのである。皇帝本人は使えるから使うという感じなのだが受ける側は『あり得ない!』と脳内大絶叫。絶叫すれば疲れる。
それでもエリートたちはやり遂げた、この良き日にボロボロだけど。
「官吏たちは疲れ切っているけれど、侍女や下人たちはそんなに疲れがみえないね。何年も放置されて荒れていた離宮をここまで美しくしたのに。僕がいたときよりも綺麗なんじゃない?」
十分な管理費を与えられずいつも薄汚れてあちこち老朽化して陰気だった離宮が、最近作られた新築の建物のように同様に光り輝いている。
「仕事に向かう姿勢の問題もありますが人数の差もありますね。下女や下男には今回の婚姻式に携わりたいと希望する者が多く、予算の都合で抽選が行われたそうです。それに外れた者たちですが、休み時間や休日にボランティアで協力したそうです」
5年前まで皇帝だったナディルの右腕的存在、侍従長と秘書官を兼任していた補佐官アミルスからの言葉にナディルの口許が緩む。
「リディア姫は慕われていたのですね」
「人懐こくて誰とでも仲良くなる子だったからね。まあ、若い官吏たちは理解が足りないようだけれど……」
扉の向こうの廊下を行き交う若い官吏たちにの声にナディルは冷たい笑みを浮かべる。「『暴虐妃の後釜』のためになんで俺たちが」とこの状況に不満のようだ。
「歴史の理解が足りないのはゆとり教育の悪影響かな?」
「リディア姫を『中の上』などと下世話な……あの者たちは私が直々に教育し直してまいります」
部屋を出ていくナセルの表情と、続いて聞こえた恐怖まじりの若い官吏たちの声にナディルは苦笑する。
アミルスが『リディア姫』と呼んで彼女を可愛がっていたことをナディルは知っていた。あの可愛がりっぷりを思うと彼らの彼らの明るい将来は消えたに等しい。確かに失言ではあったが、アミルスという男を知るナディルは顔も知らない男たちに少し同情した。
◇
「いらしたようですね」
粛清からアミルスが戻ってすぐ、扉の向こうが賑やかになった。ナディルは自分の服装に乱れがないか確認し、その間にアミルスはナディルの傍仕えに相応しい場所に立つ。
「帝国の太陽である皇帝陛下」
侍従が開けた扉をくぐって部屋に入ってきた皇帝にナディルは臣下の礼をとったが……。
「止めてください、兄上」
苦笑する皇帝の声に顔をあげると当代皇帝で、ナディルの実弟のカダルが苦笑していた。
我が弟ながら恐ろしいほどの美形だとナディルは思う。
普段は鋭い目元が兄への親しみで緩やかになり甘さを感じさせ、窓から射しこむ陽光で艶やかな黒髪は煌めいている。過去3年間に29人もの妃候補が殺到したことが理解できる美形。
ナディルとカダル、前情報がなければまず兄弟とは思わない。どちらも美形であるがジャンルが違う。ナディルは老若男女がほうっと見惚れる中性的な美人で、小説なら神話や童話の登場人物。対してカダルは老いも若きも女性なら誰でも誑かせられそうな男の色気だだ漏れの美男で、小説なら成人指定の官能小説のヒーロー。
こんな全く似ていない二人だが、ナディルとカダルは兄弟。しかも父親も母親も同じ兄弟だった。
(僕とあの人の関係を考えると、あの人とは『なさぬ仲』でありたかったな。カダルなら異母兄弟でも仲良くできたと思うし……やめよう。晴れの日に思い出すことではない)
「義姉上はお元気ですか?」
「元気だよ。エレナも式に参加したったと残念がっていたよ」
「お腹に御子がおられるのだから無理はせず……兄上、顔色が優れませんが体調が? それとも、やはり離宮にいるから……」
表情を曇らせ、少し泣きそうにも見える表情にナディルはカダルも同じ過去を思い出しているのだと察した。
この離宮は兄弟にとって良い思い出でもあるが悪い思い出も多い。ここに入ってからずっとカダルの泣き顔ばかり思い浮かぶのがその証拠だとナディルは思っている。
(まあ、5歳を過ぎた辺りから人前で泣かなくなったけれど)
――― 薬ができるまで頑張って。
ナディルの頭に幼い頃のカダルの声が蘇る。目の前に立つカダルの手を見て、大きくなってたなとナディルは思う。年が離れているからかカダルの幼い頃の姿をよく覚えていて、昔は可愛かったなと思ってもしまう。
ナディルの食べ物や飲み物に毒が混入されるのはいつものことだった。
そして毒を飲んで死の淵に立つたび、深淵に落ちていくナディルを引き留めたのはカダルの小さな手。幼い子どもの手でとても小さいのに、握れば想像以上の力で握り返されたことをナディルは覚えている。
毒を飲むたび体は毒に慣れ、毒によってもたらされる苦痛は1分が1日のように感じる地獄なのに、「今回の毒は結構強いな」なんて思えるほどの余裕がナディルにはあったりして。そんなナディルとは対照的にいつもカダルは大泣きで、「兄上ぇ」と縋りついて泣く弟のためにナディルは死ねないと思ってきた。
(僕を生かしたのはカダルだ)
「兄上?」
「ん? 昔は可愛かったなあって」
「やめてください」
そう言って笑うカダルの、屈託のない憂いの晴れた笑顔は久し振りで。嬉しいと安堵する気持ちに、手のかかる弟だと思う気持ちも混じる。その全てが嬉しい。生きていてよかったとナディルに思わせる。
「アミルス、疲労回復薬を2本持ってきてくれ。今日は最後まで参加したい」
「珍しいですね、いつもは不味いといって嫌厭なさるのに」
「ここにいたらアレよりは良いと言うことを思い出してね」
ナディルの頭に浮かぶのはリディアの作った解毒薬。同じことを思い出したカダルとアミルスも同時に笑う。
先代の水の侯爵で母親であるミレイユに教えてもらって作ったというリディアの解毒薬。よく効くのでちゃんと解毒薬なのだが、『これのほうが毒っぽい』と思わせる代物だった。漂ってくる刺激臭、『鼻を擽る』とか『ほのかに漂う』なんて可愛らしい形容ができない、嗅覚を占領して機能を強制停止させるような刺激臭がするので飲むのも一苦労、とても勇気がいった。
(ここ十数年はお世話になっていないのに、思い出すと悪寒が……)
「お待たせいたしました」
戻ってきたアミルスの持つトレーには疲労回復薬と口直しと思わしきワイン。ナディルはまず疲労回復薬を飲んで、原料の薬草の影響で『草の味』としか言えない味に眉間に皺を寄せる。
「やっぱり不味いね」
「それでもリディア印よりはマシです」
リディアの名前をカダルが口にするのをナディルは久し振りに聞いたが、その音に混じる恋慕もその重みも全く変わっていない。だから今回の婚礼式が異例なのだ。
(こんな弟が『女狂いの皇帝』と言われているとはねえ)
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