パパン
1180年10月23日
国衙が襲撃されてから3日後、木曾義仲が上野入りした。そして旧領にある館に立て篭もり今も兵を集めているようだ。
さらに時を同じくして頼朝が勢力を急拡大させて鎌倉入りしたと伝えられると立て続けに頼朝進軍、甲斐源氏が富士川の戦いで戦わずして平家軍に勝利など、大きなニュースが舞い込んだ。
俺はといえば足利俊綱の死がおかしな展開を招かないことを祈る日々が続いていたが今のところ平家方に目を付けられたという話は入ってきていない。状況的にもはやそれどころではないのだろうか。
また、朝廷から租税の半数相当の免除が言い渡され、代わりに石鹸を納める事となった。残りの半分も石鹸と引き換えに上野太守(*1)と京の有力貴族達によって賄われたため、上野からは米の搬出は行われずに済んだ。
しかし、結果として石鹸は作ったそばから全て京へ運ばれてしまうため国内に出回る分は当分確保できそうになかった。
10月23日の今日は化学の日だ。
分子説を唱えたイタリアの化学者アボガドロの功績を称え、アボガドロ定数から「10の23乗」部分を抜き出して日本の化学学会が定めたマイナーなものではあるが・・。
まあそういった経緯なのだから太陰暦だろうと今日は化学の日だ。
そんな記念すべき化学の日に、遂に念願の気圧計が完成した。
気圧計は硝子製造技術さえあれば比較的簡単に作成できる。目指した形は蓋がぴたりと固定された、注ぎ口しかないコーヒー用ドリップポットだ。
まずは細長い注ぎ口を粘土で作り、硝子を溶解し垂らして固める。そして同様の手順で母体となるしずく型の容器を作り底と注ぎ口をしっかり熔着すれば完成だ。これは19世紀初頭にゲーテが考案した気圧計だ。
あとは基準となる日を決めて容器を寝かせ細長い注ぎ口からゆっくりと水を入れると、しずく型容器の上部に溜まった基準日の大気と注ぎ口から入る今の大気圧の差で水位が変化する。
もちろんメモリも何もないため、わかるのは水を入れた時の気圧と比べて今がどのくらい高いのか低いのかということだけだ。さらに言えば水は少しずつ蒸発してしまうので定期的に水を足さねばならないし、水に熱膨張が起こるため温度変化に対応できないという欠陥のある品ではある。
とはいえ、逆にこの熱膨張を利用したものが温度計だ。
硝子管に液体を入れて気圧を固定するために密閉してしまえば良い。既にメモリなしの中身が水の温度計は完成しているのでこれを使って気圧計の水温を揃えることで「一年中一定の基準と比較した気圧」がわかるのだ。
水の温度計では水と氷の特性から4℃以下が正確に測れないが、それだけのために危険な水銀に手を出すのは憚られるため水で我慢した。
この時代に大まかとは言え天気を予報することはそれこそ妖術に等しい。
それを餌に滝姫を焚きつけて作ってもらっていたのだ。
「滝姫の郷では天気の予測もしているのですよね? どのように行っているのですか?」
「そうですねえ・・。急な雨は山犬達が教えてくれます。
御先祖さま方は山犬の様子とその時の空を観察し、雨が降る前のいくつかの決まった雲の形を見つけました。
長期的な予測では蜂の巣を見ます。蜂が高い位置に巣を作ればその年は干ばつになり、低い位置だと雨が多い年となるので私たちの郷では土砂崩れなどを警戒します。」
── ・・すごい。当たるのかはともかく、孤立した郷では自然災害がそのまま命に直結してしまうことを理解してきちんと対策を取っているのか。
「不思議じゃ。動物には天気がわかるのかのう?」
「それはわかりませんが、実際よく当たりますよ。」
「不思議ですね。もしかしたら人間には気付くことのできない何かを感じ取っているのかもしれませんね。
・・実は、私たちもこの気圧計を使えばその何かの一端を知ることができるのです。」
そう聞くや否や2人の視線が気圧計へと注がれる。
「では滝姫、この気圧計の水位が上がったら今の大気圧は基準日と比べてどんな状態だと言えますか?」
「ええと・・・どんな状態なのでしょう?」
オロオロしながら滝姫が聞き返してくる。
滝姫は化学を理解しないまま火薬や硝子を使っていたようで知識はこの時代の貴族と大差なかった。
そうはいってもこの1ヶ月半で数学と理科についての基礎的な知識は随分身についてきていた。
「ふん。そんなこともわからぬのか。
答えは大気圧が下がっておるのじゃ。そうであろう龍彦よ?」
横から来王がドヤ顔で答える。
「はい。正解です。
ですが、誰でも最初はわからないものですから他人を貶してはいけませんよ。
来王姫だって最初、山の上は ── 」
「わあああ!! わかった、わかったからよすのじゃ!!
・・滝姫よ、わしが悪かった・・・すまぬ。」
「いいえ、良いのです。・・あとでこっそり龍彦さんに聞きますので(にこっ)」
それに対し滝姫は不敵な笑みと共に意味深な発言で返した。
「やめてたもう、わしが悪かったのじゃ・・。」
「ふふっ、冗談ですよ。龍彦さん、解説をお願いします。」
俺は改めて気圧の差について説明した。
「では次は来王姫への質問です。気圧が下がると天気はどうなると思いますか?」
「ふむ・・・。圧が低いのじゃから、周囲から空気が流れ込む・・のかのう?」
「察しが良いですね。そうです。風は気圧の高い方から低い方へと吹きます。
他にも蒸留の時に教えたことの応用による現象もあるのですが・・わかりますか?」
「ということは湯気が関係するのじゃな? ・・・地上の方が気温が高くて・・気圧は低くて・・」
来王のぶつぶつタイムが始まったのでその間に滝姫に補足をする。
近頃はこの流れが恒例になってきていた。
「わかったぞ。気圧が低くなるとそれまで地上にあった湯気が空高く上り、冷える。その結果湯気は水へと戻り降ってくるということじゃな?」
「素晴らしいです。おっしゃる通りです。
低気圧に流れ込んだ風がぶつかり合うと風は上へ向かいます。その過程で冷えて雲が生まれ場合によっては雨が降る、ということなのですがほとんど正解です。
このことから、こまめに気圧計を確認して気圧が下がってきたら『風が吹き雲が出て天気が悪くなる』ということがわかるのです。」
「まあ! そんなことがわかるのですね。」
滝姫は目をキラキラさせて喜んでいる。
「どうです? 妖術に認定していただけますか?」
「はいっ。認定します。」
── ああ、平和だ・・。毎日こんな日が続けばいいのになあ。
実のところ俺は最近モチベーションが下がっていた。
理由は単純で、蒸気自動車の試作品がうまくいかなかったのだ。
ミニ四駆ほどの大きさの試作品を微調整を繰り返しながら何度も作ったが結局動かなかった。地面から浮かした状態では車輪が回るものの接地すると回らず全く進まなかったのだ。
それはヘロンの蒸気機関と呼ばれる古代の技術を用いた簡易版で、燃料に灯油を使い車輪に直接蒸気を吹き付けて回すというものだった。精巧な部品があれば十分動くのだが、俺の加工技術が低いため火力に対して各部品の質量と摩擦が大きくなり過ぎてしまったようだ。
仕方なくそれを改良して船を作りお披露目会に臨むこととなった。
幸い蒸気機関の有用性は伝わり、来王が必死にパパンに頼んでくれたこともあって投資はしてもらえることとなったが俺にとって手痛い失敗だった。
近代の蒸気機関は1643年にガリレオ・ガリレイの弟子 トリチェリが水銀を用いて行った真空実験から始まった。その実験によって真空と同時に大気圧の存在が明らかになったことでボイルの法則が生まれ、1712年には実用的な最初の蒸気機関とも言われるニューコメンの大気圧機関が誕生したのだ。
俺は今その大気圧をさも当然のように2人に教えているが、先人達の知恵を授かりながらも試作品のひとつさえ満足に作ることができなかった。先人達の努力を思えば一度の失敗でめげている場合ではないのだが俺は100年続くさとり世代の1人だ。
自分で言うのもなんだが情報を上手く活用し石橋を叩いて渡るため、失敗に対する免疫が極めて低い。
要は・・弱気になってしまったのだ。
もしこのまま ──
「 ── なのかのう? ・・龍彦よ、聞いておるのか?」
「へっ?」
俺は突然現実に押し戻されて間抜けな声を上げてしまった。
「なんじゃ、寝ぼけおって。
お主が先日出題した湯気を使った動力について考えてきたから見てくれと申しておるのじゃ。」
「ああ、すみません。どれどれ・・・」
それは「パパンの真空エンジン」そのものだった。
フランスのドニ・パパンが1690年に考案した真空エンジンはシリンダーの中で水を沸騰させ、急激に冷やすことで真空を作り出し大気圧との差を動力とするものだ。
── すごい・・。気圧と蒸留を教えただけでこれを考えちゃうかあ。
この子の存在は間違いなく今の弱気な俺を奮い立たせてくれる唯一の原動力だ。
*1 太守: 親王任国(上総、常陸、上野)の守の呼び名。
作中で登場した滝姫の郷の天気予測については
「農家が教える天気を読む知恵とワザ(農山漁村文化協会, 2020)」
を参考にしていますが、科学的根拠はありません。




