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「ゆき、よく来たな」
海の家を出て、呼ばれていた一条家に来ていた。
「返事、聞かせてもらえるか」
雪美は瞳を閉じ、海の言葉を思い出す。
『私たちは細かい事はわからない。でも、あなただけは彼の気持ちを信じてあげて』
もしかしたら利用されるだけかも、とかそんなのどうでもいい。
そばにいたい。信じたい。
だから、…もう逃げない。
「景人さんはおモテになりますよね。噂も…」
「…」
「一度、婚約解消になってしまったのは…
私に魅力がなかったからでしょうか?」
「っ、あの時の噂はデマだ。…だが、日向瀬家から連絡が来て、こちらから婚約の取り消しを申し出るように言われた」
「え…」
自分の知らない事実に驚愕する。
両親はそんな事言ってなかった。
「当然だよな。別の女性との噂をメディアに大きく取り上げられるような相手に、大事な娘を嫁がせる訳にはいかないよな…」
両親からの自分への愛情を感じつつ、一度は解消する事を強要されたのに再び婚約を申し込んできた景人を不思議に思う。
「連絡も取れないようにさせられて、あんな別れ方したら信じられないかもしれないが…」
景人の言葉に雪美は婚約解消前に行ったデートの夜・メディアでの内容・解消されてからの日々を思い出す。
「うん…。初めてのデートの直後…身体を繋いだ後のスキャンダルに婚約破棄なんて、遊ばれたとしか…魅力がなかったとしか思えなかったよ」
「…っ」
あのデートの日、二人は結ばれた。
ホテルでご飯を食べた後、景人は畏まった格好は疲れるだろうと、ゆっくりできるよう部屋を取っていた。
雪美はあの夜確かに幸せだった。
だが、数日後にテレビや雑誌で報道される相手と自分以外との熱愛。
婚約はすぐ解消され、弁解や謝罪の連絡さえも来ない。
天から地まで落とされたようなあの感覚は、今でも忘れられない…
「でも、だからこそ頑張れた。大学行って勉強して、父の会社で働いてるのもそう。あのまま結婚してたら私、世間を知らないただの何もできないお嬢様だった。感謝してるの。だから、気にしなくて大丈夫だよ?」
責任なら取らなくていい、という意味で言ったそれを頭の良い彼なら理解できるだろう。
彼は何も言ってこない。
海の話を信じたいけど、この五年、彼の心にあったのは、音沙汰なしに婚約破棄した罪悪感だったんだよ…
そう自分に言い聞かせ、
最後に自分の気持ちだけでも伝えたいと顔を上げる。
が、いきなり目の前が真っ暗になった。
強い力で抑えられ動かない身体。近くから感じる体温。
抱きしめられていると気づくのに時間はかからなかった。
「すぐに信じてもらえるなんて考えてない」
近くで聞こえる声はどこか弱々しい。
「18で結婚するはずが…23だ。いずれは結婚する。そう考えた時、相手はどうしても…ゆき、お前以外考えられなかった」
“いつの間にか日向瀬社長にアポを取って会社まで押しかけてた”
驚いて顔を上げると、眉を下げ苦笑する彼。
「これだけは言わせてくれ。あの時だって、今だって、ゆきには魅力がある」
抱きしめる力は弱まり、離されると真っ直ぐ見つめられる。
「ゆきの心は温かくて、その場を明るくする。うちの連中だって、ゆき以外に家に迎える気はない程に夢中で…。お前はそこにいるだけで価値のある人間なんだ」
スッと優しく手を掴まれる。
「ずっと待ってる…だから、俺と結婚してください」
ふと左手を見ると、光るものを嵌められる。
「…はい」
返事をすると、いきなりバッと離された。
見ると「なんで!?」というようなマヌケな顔をしている。
そんな彼に、思わず「ずっと大好きでした…」と気持ちが口から出た。
「もう離してあげられない」
今まで見たこともない、はにかむような笑顔を私はずっと忘れないだろう…