9.困惑
動いてなくても腹は減る。そんな当たり前のことを再認識させられた土曜日の昼。
「響、あんた大丈夫なの? 何か食べれそう?」
「……風邪でもひいたかも。おかゆとか作れる?」
様子を見に来た母さんに、ベッドで横になったまま答える。嘘をつくのは気が引けたけど、自分でも説明がつかないんだからしょうがない。
「作ってあげるから、制服は脱いで掛けときなさい」
そういえば制服のままだったか……。
母さんが部屋から出て行ったのを確認して、布団から這い出る。制服を脱いでハンガーに掛けると、スカートにだいぶシワがついていた。綺麗にするにはアイロンをかけてもらうしか無さそうだ。でも上着はそんなに気にしなくても大丈夫そうかな。
ブラウスを脱ぎ捨てて、そのまま下着も替えてパジャマを着る。脱いだ下着とブラウスを持って階段を降り、そのまま脱衣所のカゴに投げ入れた。
リビングに顔を出すと、出てきたのはおかゆではなく卵のおじやだった。
「こっちのほうが栄養あるし、響も好きでしょ」
たしかにどちらかと言えばおじやが好きかな。半熟卵と刻みネギ。お鍋をしたときの残りで作るのが至高だと思うけど、さすがにそこまでは望めまい。ぼーっとしたまま小さな土鍋の蓋を取ろうとして――。
「あつっ……!」
取り落とした蓋が、大きな音を立てて床に落ちて転がる。割れなくて良かった。ほっとため息を吐く。
「何やってんのあんたは。ほら手を出して」
「大丈夫。別に火傷とかにはなってないから」
手を広げて見せる。火傷になるほどの温度じゃなかった。ただ熱くて驚いただけで。
……何にそんなに気を取られているんだろう。
母さんの作ってくれたおじやは、少ししょっぱかった。
結局土日はほとんど何もやる気がおこらなかった。あんた、寝たきりになるには早すぎない? とは母さんの言葉。そうは言われても人間16年も生きていれば寝たきりになることもあるだろう。
眠りは麻薬。途方に暮れた心を静かに溶かす。大晦日に見た紅白か何かで、そんな歌を聞いたことがある。きっとこれは本当のことだ。ほとんど寝ているだけだったのに、少しづつ動く気力を取り戻せている気がする。
実際嫌なことがあってどんなにむしゃくしゃしても、翌日になるとなんであんなことで怒っていたんだろうと、ケロっとしていることがある。一説によれば寝ているときに夢の中で、いらない感情や記憶を切り離したり、自分のできなかった思いなんかを夢の中で実現することで、気持ちを落ち着かせたりしているらしい。
時間が癒してくれるというのはつまり、眠りと夢による癒やしなんだと思う。だからといって人は寝ているだけでは居られない。食事もするしトイレにも行く。当然お風呂にだって入りたい。
そんなわけで日曜日の夜は、実に3日ぶりにお風呂に入ることにした。さすがに汗臭いし、髪もごわごわしてきてるしで、自分でも人としてどうかと思う状態だった。
パジャマと下着を脱衣所の床に散らかしたまま、一糸まとわぬ姿で仁王立ち。洗面台の鏡に映る自分の躰。最初は違和感しかなかったけれど、今は見飽きるほど見慣れた自分。
白い肌、折れそうなほど細い首、微かにふくらんだ胸とくびれた腰。手足は残念ながら長くない。ちんまりとした印象を与えるのはこれのせいだろうか。
すべてがまさしく女の子のもの。今更どうということはない。
――でも。もし男のままだったら、アイツのことを素直に祝えただろうか。
父さんがたまに連れてくる友人たちは、小学生の頃からの付き合いだという。煙草の煙が充満する部屋でお酒飲んで麻雀して騒いで、五月蝿いけれど羨ましいほど仲がいい。それぞれ結婚して家庭を持っているけど、昔から変わらない関係だって言っていた。
オレとアイツも、こんなふうに歳を取っていくんだろうって思っていたんだ。
でも今は、それが想像できなくなっていた。
――わからない。
オレは一体どうしちゃったんだろう。
新しくおろしたローファーが合わなくて靴ずれを作り、醤油をこぼして帰ってきました。いったい何しにいったんだっけ。
受験? 嫌な事件だったね。明日も行くのか……。