閑話 4-1.前夜
お久しぶりです。
時系列的には付き合い始めてすぐの頃の話となります。
スポンジに洗剤を付け、軽く握って馴染ませる。
シンクに置かれたホーローの洗い桶からコップを取り出すと、軽く水を切ってから泡立ててゆく。
洗い物は汚れの少ない物から片付けて行くのが基本だ。水切りカゴに入れる順番を考えて、ちょっと前後させることはあるけれど、逆をやるとろくでもないことになる。フライパンはあくまでラスボス。まずは取り巻きから処理することにしよう。
「響ー。お風呂空いたよ」
お茶碗を泡まみれにしていると、姉がリビングにやってきた。
下着姿のまま、バスタオルを頭から被ってわしゃわしゃと。夏も近いとはいえ、日に日にズボラになって行く姉に、少し残念な気持ちを抱くのも仕方のないことだろう。
「ちゃんと着替えてから出て来なよ……」
「……あんたがそれ言うの?」
お風呂上がりの下着姿をアイツにばっちり見られたのは記憶に新しかったりするけれど。
「ラッキースケベは被害者になってみると思った以上に笑えないと言うか……って! あれ仕組んだの姉と母さんじゃん!」
知略やめてくれませんかね!
「そもそも何で今更気にしてるのよ? 見られ慣れてる筈じゃない」
「うぐ……」
ごもっともではあるのですが。
だって、気が付いてしまったのだ。自覚してしまったのだ。目を背けているつもりだったあの事に。
「なんていうか、ほんと今更な話なんだけど……」
「だけど?」
「……自分って、女の子だったんだなって」
「……あ、そう」
あ、これ知ってる。めちゃくちゃ呆れてるときの顔だ。
「でもさ。自分が何者であるかを正しく把握出来てる人なんて、探してもそうそう居ないと思うんだよね」
「哲学っぽくしても誤魔化されないわよ?」
ダメですか。
肩を竦めると、いつの間にか止まっていた洗い物を再開する。
姉は冷蔵庫の前に来て飲み物を物色し始めた。やや前かがみ。若干胸が強調されているような?
視線を手元に戻す。視界は良好である。ぐぬぬ。
努力はすぐ裏切るからなあ。キャラ差は裏切らないけど。後で牛乳飲もう。きな粉まだあっただろうか。
「……ねえ響」
「なに?」
「明日は土曜日じゃない? 何か予定はあるの?」
「和人と秋葉原まで出るつもりだけど」」
今度は手を止めずにそう答える。
「……ふうん」
目ぼしいものが無かったのか、冷蔵庫を閉めると姉はこちらに向き直った。人の悪そうな笑みを浮かべてゆっくりと。思わずちょっと身構えてしまう。何だ? 何を言うつもりだ?
「おめでとう。初デートね」
「…………ゑ?」
ふっと、時間が止まったような気がした。
「……なんかすごい声出したわね?」
「えっ? だって、遊びに行くだけ……」
「付き合い始めたわけだし、それをデートって言うんじゃないの?」
まさについ先日告白されたばかりだし、まだ彼氏彼女としてお出かけしたことは無いけどさ!
「でも、でも! いつも通りだよ? アイツもそんな素振りは無かったし……」
「甘い!」
指を突き付けられた。
「いい? 響。恋人になって初めてのデートは1回しか無いの。やり直すことは出来ないのよ?」
その言葉は妙な説得力に溢れていた。
泡まみれのコップが指の間からシンクへと滑り落ちる。ゴトリと音を立て、そのまま排水孔の方へ転がるそれを目で追いつつも、頭の中は姉の言葉で一杯だった。
「…………たしかに」
言われてみればまごう事なく記念すべき初デート。失敗は許されない。failure is not an optionである。
「それで、明日はどんな格好で行くつもりだったの?」
「……ええと。結構歩くから動きやすい服装で」
「……ふうん」
「と思っていたのですが、精一杯オシャレして行こうかなって」
「当然よ」
バッサリである。
とはいえ、何を着て行けばいいのやら。いつものワンピースはさすがにワンパターン過ぎるし。そもそもデートと言われてもピンと来ないというか、変に意識してしまうとぎこちなくなりかねない。
それでも。気がついた時には後の祭りとなるよりはマシなのだろう。たぶん。
「……ねえ、姉」
「なあに?」
「……ありがとう。ちょっと頑張ってみる」
「そう。きっと上手く行くわ」
普段は黒い笑みしか浮かべないくせに、こういう時だけほころぶように笑うのだから参ってしまう。
今もまだ姉のことは苦手だし、セクハラ紛いのアレやコレを全部許したわけでは無いけれど。
今日くらいは、感謝してもいいと思うのだ。
明日何を着て行くか――。
目下、オレの悩みの九割はそこに集約されていた。
そう。たしかに明日は初デートなのだ。とりあえず、今の関係になる前をノーカンとするのなら。
お風呂を早めに切り上げパジャマに着替え、すぐさま自分の部屋へと直行する。
髪が濡れたままなのもお構いなし。クローゼットの中の洋服ダンスを開けると、びっくりするくらい大量の洋服が溢れ出した。一度も着たことが無いものもかなりある。それどころか初見のものも多かったりするのだからびっくりだ。
「また増えてる……」
だいたい母さんの仕業である。蝶よ花よと育てるには今更無理があると思うのだけど、気がつけば少女趣味な洋服の増殖っぷりが半端ない。
その中に、ひときわ目を引く何かがあった。
白のブラウスにタータンチェックのショートタイ。それと合わせたチェックの吊りスカートにベレー帽。
どこぞの突撃銃みたいな名前のアイドルグループを彷彿とさせるこのセットはなんなのか。もしかして母さんの好みだったりするのだろうか。
普段着にするにはあざと過ぎるそれを目の前に、顎に手を当て思案に暮れる。
……かわいいとは思うけど、正直ちょっと痛いのでは?
着こなすためのハードルは高そうだ。でも、特別感はあるような気がする。
「……着てみようかな?」
なんとなくドアに目をやって、きちんと閉まっていることを確認する。一瞬の油断が命取り。ブロントさんもそう言っていた。
ヤツらの気配はない。
「……よし」
小さく頷くと、オレはパジャマを勢いよく脱ぎ出した。
上着をそのまま床へと落とし。足に引っかかったズボンをベッドの方へと行儀悪く蹴り飛ばし。お風呂上がりの火照った素肌に触れる、エアコンで冷やされた空気が心地よい。
ブラウスを手に取り袖を通す。生地は厚めで、透けはそこまで気にしなくても良さそうだ。薄いやつはほんとに透ける。白いブラウスに白いブラなら透けなそうに思えても実際はめちゃくちゃ透ける。間違いなくベージュ安定。ピンクも実は透けにくい。
大人しくインナーを着けろという話だが、インナー自体が透けるので、やっぱりこれもベージュが良い。しかし単体で見るとババむさいのが悩ましいところだ。偏見だけど。
スカートは背中でクロスさせないタイプの吊りスカートで、ウエストのベルト通しが二段になっている。面白いデザインだと思う。二本締めてくびれを強調とか、きっとそういう意図なのだろう。
白と黒のベルトを二本、ちょっとキツめに締めてやる。光と闇が合わさり最強に見えるコンセプト。
姿見と向き合うと、どこか締まらない表情をした自分の顔が目に入る。そのまま視線を下ろしてみれば、くびれに対して胸が寂しいことになっていたりしたわけで。
「ちくしょうなんでだ!」
やはりそれとなく、アイツが気が付かない程度に盛るしかあるまい。過剰包装? 返品は認められておりません。
ベレー帽を頭に乗せて、ショートタイを手に持って首元に添えてみる。そのままいくつかポーズを取って。
「……なるほど」
びっくりするほど似合っていたのだ。
明日着て行くつもりだった洋服が、途端に野暮ったいものに見えてくる。むしろ何故、着飾らなくてもいいと思ったのか問い詰めたい気分だ。
自分の気持ちに気がつくまでは。互いの想いが通じるまでは。どうすれば可愛く見えるかを、あれだけ悩んでいたくせに。
付き合い始めたからと言って努力が要らなくなるわけじゃ無い。これからが大事だというのに、いくらなんでも油断しすぎではなかろうか。
「頑張らなきゃ」
おしゃれをするとなれば、まだまだ課題はいくらでも湧いてくる。ソックスの丈や色、バッグなんかの小物類をどう合わせるかでも印象は大きく変わる。髪型だって、思い切っていつもと違うことを試してみてもよさそうだ。
化粧はまだちょっと難易度が高すぎる。でも口紅ならば、意外とどうにかなるのでは。
さっきよりいくらかマシな顔になった、鏡の中の自分に一つうなづいて。
「ちょっと姉ー! 教えて欲しいことがあるんだけどー」
ショートタイとベレー帽をベッドの上に放り投げると、オレは姉の部屋へと乗り込んだ。
何度目の寝返りを打っただろう。
「……初デートって、なにをすればいいのかな?」
眠れない夜は続く。
レモン1個に含まれるビタミンCはレモン1個分だぜ。と同じ程度の説得力。