閑話 3-7.忘れもの
自転車の荷台で揺られるのは、久しぶりのことだった。
冬の夜風が寒くて、暗い夜道がちょっぴり怖くて、でもそんなのはどうでもよくて。半年前よりも少し逞しくなった背中にドキドキしっぱなしだったのだ。
コイツのことなら誰よりも知っている。自惚れではないはずだ。それなのに、いつも何かに驚かされる。
この四年で身長は大きく伸びた。体格も、気がつけば少年から大人へと変わろうとしている。最近は喉仏も目立つようになってきた。
「……和人は、大きくなったよね」
「成長期だからな……っと」
ブレーキ音を立てて、自転車が家の前に到着する。
「……着いちゃった」
この背中から離れるのは、少しだけ名残惜しい気がして。それでも一度ぎゅっと抱きつくと、勢いをつけて荷台から飛び降りた。
「お疲れ様。ありがと」
「……ほんと、今日は疲れたわ」
お互い顔を見合わせて苦笑い。
「名刺貰ったけど、どうしようか」
「これさ、連絡しないとダメかね? べつにお礼が欲しいわけでもないし」
「でも放置してたら学校まで乗り込んで来そう」
「それなんだよなあ。あのおっさんならやりかねない」
学校に乗り込んで、道行く生徒をガクガクと揺さぶって、オレたちを探し彷徨う旦那さん。下手をしなくても通報されてしまう気がしたのだ。
「それに、赤ちゃんは見たいんだよね」
後学のため、あの奥さんに聞きたいこともあるし。
「なら、退院する前に連絡――」
「くしゅん」
くしゃみが出た。
「……寒いし、あとで話すとするか。来るんだろ?」
「うん。お風呂上がったらそっち行くね。今日こそキャプテンコマンドーをノーコンティニューでクリアしないと」
カプコンベルトアクションコレクションは神である。第二弾が出るなら、ダンジョン&ドラゴンズ二作とエイリアンvsプレデター、それにキャディラックスとパニッシャーをお願いしたい。
ちょっと時間は遅くなったものの、いつも通り家の前で別れると、そのまま玄関の鍵を開けて上り込む。
「ただいまー」
「あら。お帰り」
最速で姉と出くわした。ちょうど二階から降りてくるところだったようだ。
「うわっ……」
「あからさまにうんざりした顔するのやめてくれない? ちょっとからかっただけなのに」
「……からかった?」
それはもしかして、先程のお電話のことをおっしゃられているのでしょうか。
「本気であんなこと言うわけないじゃない。子供が出来てたら大問題だしもっと慎重に扱うわ。ほんと期待通りのリアクションしてくれちゃって」
「はあ!?」
貴公は二十分も必死に説明させておいて、冗談だったで済まそうと申すか。ふむふむ。左様であるか。
キレそう。
「お母さんもだいぶ悪ノリしてたしね。あんな悪い顔久しぶりに見たわ」
「ちくしょう! おまえらはバカだ!」
「まあまあ、怒らないでよ。ところでちゃんと渡せたの?」
姉は階段の中ほどに腰掛けて、足をプラプラさせながら聞いてくる。
「渡せた? なにを?」
「なにって……。チョコレート」
チョコ……れえと? 香り高くて甘くて、老若男女問わず虜にする、体重を気にしている人には悪魔のようなあの食べ物。そういやなにかを忘れてると、頭の片隅に引っかかっていたその何か。
「…………え?」
血の気が引く音が、聞こえたような気がした。
一体いつから忘れてた? 学校を出たときは間違いなく持っていた。帰り道で首根っこ掴まれたときも離さなかった。ゲームセンターの裏手で倒れてる人を発見したとき。あのとき自分は何をした?
「……って、あああっ!?」
鞄と紙袋を投げ出して、倒れてる人に駆け寄った。そのあと鞄は回収したけれど、紙袋の方は記憶にない。
即座に回れ右をする。行かなくちゃ。
「どこに行くのよ!」
「ちょっと忘れ物!」
公園の下り階段を、自転車に乗ったまま飛び越した。
ほんの十段程度、距離にすれば二メートル、高さは自分の身長と同じくらいか。ガチャンと派手な音を立てて着地するも、どうにか転ばずに済んだようだ。
……しょ、ショートカット成功。
心臓がバクバク言っている。お尻が痛い。
子供の頃、まだ男の子だった頃にも、和人と並んでこの階段を飛んだことがある。着地を失敗してすっ転んで大泣きしたことも、今となってはいい思い出だ。
……やんちゃだったなあ。
次があるならスカートでやるのは控えようと思いつつ、夜の公園を駆け抜ける。この公園を突っ切ると、駅までの時間を数分短縮出来るのだ。
しかし、急いでいるとはいえ、借り物の自転車でなにをやっているのやら。
うちの自転車は誰も乗る人がいないため、パンクしたまま物置きの中である。無断拝借しておいてなんだけど、和人の自転車は自分には少し大きくて乗りにくい。
「急がなきゃ」
公園を抜けたら駅までは一直線。立ち漕ぎで速度を上げてラストスパート。
なんて、サドルから腰を上げたまではよかったが、風圧でスカートがスリリングなことになっているのが気になって気になって。行き交う人々の視線が太ももに向いているのを感じつつ、でもそんなの関係ないとばかりに全力でペダルを踏み込んでゆく。
駅前の横断歩道を、ギリギリ青信号で渡りきる。
「……急がなきゃ」
駐輪場まで行ってられるほど余裕がない。駅前で自転車を降りて放置自転車の列に割り込ませる。鍵をかけ、駅に向かって走り出すも、息が苦しくて顎が上がる。体力を付けようと努力していても、一朝一夕に行かないことくらいわかってはいるけれど。
もどかしい。会社帰りのサラリーマンをかき分けて。もつれそうになる足に鞭打って。
二月十四日は、あと三時間しかないのだから。