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閑話 3-6.16歳の保健体育

 なんとも場違いなところに来てしまった。というのが正直な感想だった。


 救急車に揺られること十分ほど。なぜか妊婦さんの手を握ったり励ましたり。気がつけば付き添いのような扱いで、クリニックの中までご招待。


 ――分娩室。


 目の前の扉には、そう書かれていた。


 ここ、峯岸レディスクリニックは、家から徒歩で十五分くらいの場所にある。昔は峯岸産婦人科だったが、二十年前に駅の向こうから移転するついでに、今の名前に変わったようだ。


「完全にアウェイなんだが……」


 虚ろな目で和人がそう訴えた。


 周りでは看護師さんたちが忙しそうに動き回っており、そこに男性の姿はない。なるほどこれはアウェイだ。


「自分もちょっと苦手かも」


 なにしろこっちとしても、ホームではないのである。


 曲がりなりにも女の子であるわけで、やんごとなき理由により二回ほどお世話になってはいるけれど。さすがにこの扉の前に来るのは初めてだ。


「帰りたい」

「でも、帰れないよね……」


 あの妊婦さんが分娩室に入る前に、一悶着あったのだ。


 彼女もかなり追い詰められていたようで。心細くて不安なの。なんて言われてしまっては、無碍にするのも気が引ける。


 本来その言葉を向けられるべき旦那さんは、職場からどんなに急いでも二時間ほどかかるらしい。


 そんなこんなで、代わりに無事を祈っているわけだけど。


「二時間か……」


 和人が壁の時計を見上げていた。現在時刻は十八時。二時間後には二十時になる。


 看護師さんたちの話によれば、それくらいで生まれる見込みであるようだ。旦那さんが間に合うかどうかは微妙なところで、ついでに言うと予定通りに行く方が珍しいとのこと。


 どちらに転ぶにせよ、家に連絡を入れておいた方が良さそうだ。


「ちょっと家に電話して来るね。和人はどうする?」

「あー……。俺も行くわ」


 正面口はさすがに避ける方向で。一人ならまだしも二人では誤解されかねない。ゴシップ好きにエサをやる必要もないだろう。


 非常口への案内を辿って外へ出る。


 夏場であればまだ夕焼けが見れる時間でも、冬となれば真っ暗だ。なんとなく空を見上げて一息ついて、冬の星座を探してみる。


 冬の大三角形が見つかれば、オリオン、こいぬ、おおいぬ座はすぐそばだ。そういやベテルギウスは近いうちに超新星爆発を起こすとか。天文学だから千年スパンだとは思うけど。


「さて……」


 電話をかけようと、スマホを取り出してはみたものの、なんとなく気が進まない。


「どうしたんだ?」


 和人が声をかけてくる。さっきまでのゾンビみたいな顔から、ずいぶんと生き返った様子である。


「虫の知らせって言うのかな。今、家に電話しちゃいけない気がして」

「俺がかけるか?」

「ううん。いいよ。ただの予感だし」


 自分に言い聞かせ電話をかける。コール二回の後――。


『はいもしもし』


 予想と違う声がした。


「あれ? 姉が出るとか珍しい」

『なんだあんたか。お母さんお風呂入っちゃったから。どうしても一番風呂が浴びたいんだって』


 今日も我が家の奇行種は平常運転のようだ。きっとまたテレビを鵜呑みにしたのだろう。最近のキーワードはデトックス。


「……うん。まあ、そういう日もあるんじゃないの」


 いつものことだし。


『ところで、この時間に連絡してくるってことは帰りは遅くなりそうね。どこにいるの?』

「……ええと」


 なんとなく、めんどくさいことになる気がした。


 ついでに言うと、回避不能の予感もした。悪いことに、こういう時の勘はよく当たるのだ。


「……峯岸レディスクリニック?」


 姉はしばらく黙りこくる。


『…………何科?』

「……産科?」


 なんでそんなことを聞くのだろう。


『……誰と? いや、愚問だったわ。和人はどうしてる?』

「さっきまで青い顔してたけど、今は落ち着いてるみたい」

『…………』


 またしても、姉はしばらく黙りこくった。


『……響』

「うん?」

『私はあんたの味方だから』

「……う、うん。ありがと?」


 なんだかよくわからずに首を傾げていると、バタバタと走る音がスマホ越しに聞こえてきた。階段を下り、ドアを開ける。そんな音がして――。


『お母さん大変! 響に赤ちゃんが出来た!』


 ……ほら。めんどくさくなった。





「バカ。ほんとバカ」


 誤解を解くだけで、二十分もかかってしまった。


 だいたいあいつらは人の話を聞かなすぎる。なにが『産むにしろ産まないにしろ、ちゃんと話し合いましょう』だ。間違いの一つすら起こっていないというのに、どうすれば子供が出来るのか。


 バカと言えばアイツもバカだ。こっちはもうとっくに覚悟を決めているのに、いつまでたっても手を出して来やしない。いっそのこと押し倒す? それとも、事故を装って押し倒させる?


 そんなことを考えながら分娩室の前に戻ると、なにやら慌ただしいことになっていた。


「あ、ついさっき本格的に始まったみたいですよ」


 看護師さんが声をかけてくる。


 それと同時に、扉の向こうから聞こえてくる妊婦さんのうめき声と、医師や看護師さんの指示の声。


『――いきまないようにね。ちゃんと呼吸して赤ちゃんに酸素を送ってあげて』『もう無理。ほんと無理!』『はい。吸ってー。吐いてー』『リラックスですよ。気楽に、気楽に』『無茶言わないで!』


 腹を立てていたことなんて、一気に吹っ飛んでしまった。


 保健体育の授業で、女子だけ集めて教材ビデオを見せられたことはあるけれど。現実はそれよりも大変であるようだ。


「……俺、家から自転車取ってくるわ」

「え? ちょっと和人!?」


 適当な口実をでっち上げ、足早にその場を後にする幼馴染を見送って呆然と立ち尽くす。看護師さんも苦笑いだ。


「……逃げた」

「逃げましたねー。男の子にはちょっと刺激が強いかも?」


 ひっひっふー。吸って、吸って、大きく吐いて。話には聞いたことがある呼吸法が、扉の向こうから聞こえてくる。


「あんのバカ……」


 逃げるにしても、なんで一緒に連れて行ってくれなかったのか。恨み言の一つくらい、言ってやりたくもなるものだ。


 だって。女の子でも辛いよ、これ。





 あっという間の二時間だった。


「響ちゃん、和人くん! 生まれましたよ! 生まれました!」

「あ、うん。良かったね……」


 和人がガクガクと、興奮した旦那さんに前後に揺さぶられ続けている。片や完全に魂が抜けていて、片やドラッグでもキめたかのようなテンションと、対比が軽くホラーではあるが。


 とりあえず、無事に産まれたようでなによりだ。


 あの後、和人は三十分くらいで戻ってきて、旦那さんは出産直前に滑り込みでやってきた。ヨレヨレになったスーツ姿で、汗だくになって現れた旦那さんは、登場から一貫してあの調子である。ランナーズハイというやつだろうか。


 それにしても。


 百聞は一見にしかずとは言うけれど、本当に濃密な二時間だったのだ。疲れた体をベンチに投げ出して目を瞑る。未だにあの妊婦さんの叫び声が耳にこびりついて離れない。


 なんとなくキラキラしたものを想像していたところに、圧倒的な現実を叩きつけられた。将来的には、自分も産むときがくるわけで。多少恐怖は感じたものの、いい勉強になったと思うべきだろう。


「そういえば聞きましたよ。あなたたちが見つけてくれなかったら、妻も子供も危なかったかもしれないと。本当にありがとう。どう感謝していいか……」


 とりあえず、その前後に揺さぶる行為をやめてあげるといいのでは。


「そうだ! 妻と子供に顔を見せていってくれませんか! そこの看護師さん、あとどれくらいで会えますか?」

「まだ産後のケアがありますけど、ご家族の方でしたらすぐに面会出来ますよ。ご主人は元々立ち会いの予定でしたし」


 汗だく過ぎて立ち会いを断られていたのはさすがに気の毒であった。衛生面とかいろいろあるんだろうけど。


「あ、すいません。家族ではないんです」


 そちらの方は? と、確認するような看護師さんの視線に正直に答えておく。和人はまだ揺さぶられている。


「そうなんですね。なら、大部屋に移った後での面会になりますので、あと二時間くらいですかねー」

「彼らは入れないんですか!」


 今度は和人が締め上げられていた。必死にタップしているが、エキサイトした旦那さんは止まらない。あの、ちょっと。さすがにやめてあげて欲しいのですが。


「もう夜も遅いですし、日を改めた方がいいと思いますよ」

「なるほど。確かにそうですね」


 看護師さんのアドバイスに、急に冷静になった旦那さんが動きを止める。和人はその隙に逃れたようだ。


 咳き込む和人の背中をさすって声をかける。


「大丈夫?」

「酷い目にあった……」


 掴み投げ一回で体力半分くらい持っていかれたようだ。レバガチャが足りない。というかこれ、普通に傷害事件なのでは……?


「名刺を渡しておきますので、都合の良いときにご連絡を頂けたら。お礼もしたいですし」

「……はい。そうですね。わかりました」


 名刺を受け取りつつ生返事。なんかもう、精神的に疲れ果てていたのだ。


 仕切り直しになったのはありがたかった。





 古戦場から逃げたい。

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