閑話 3-5.甘えたい
たとえば、こんな経験はないだろうか。
なにかを提案されたとき、言い出した人がやるべきだと感じたり、誰も動かないことに腹を立ててしまったり。一見すると当たり前のように見えるのがまた曲者で。
提案した人がやらなきゃいけない義理はない。自分だって手を出そうとすらしてないクセに、都合よく考えて甘えてしまう。
気付かぬうちに楽をすることが当然になっていて、口先ばかりで自ら動くことを忘れた愚か者の出来上がり。
たぶん、恋だって同じなのだ。
コイツが先に告白してきたんだからと、全ての責任を押し付けて。『コイツ以外の男と恋愛するなんて無理なんだから責任を取ってもらわないと』なんて、主体性のないことを考えて。
誰かのせいにして生きるのは簡単だ。擦り減らないし、大抵のことは傷付かずに済んでしまう。
でも、それはただの責任逃れ。
もちろん全てに真正面からぶつかっていては、いつか砕け散ることになる。逃げ道を作ること、それはそれで大切なことだ。
だけど、せめてこれくらいは。
コイツに対してだけは、真っ直ぐでありたいと思うのだ。
甘えっぱなしではなく対等に、自分で考えて自分で決める。愚か者にならないために、出来ることがあるはずだ。
とはいえ、重たく考える必要もないだろう。自分の中のふわふわしていた部分。それを明確にするというだけで、あくまでメインはバレンタイン。
コイツが喜んでくれれば、それで――。
「んげ」
いきなり首根っこを引っ掴まれた。
ていうか髪の毛巻き込んでる! それに首がぐきって! ぐきって!
勢いよく振り向いて、マフラーごとコートの襟を掴んだアホに食ってかかろうとしたところ、呆れたように返された。
「信号、赤だぞ」
「……あれ?」
完全に没頭していたらしい。
自分のすぐ後ろを、けたたましくクラクションを鳴らしながらトラックが通過してゆく。
「…………」
嫌な汗が噴き出した。慌てて和人の隣に舞い戻る。
「……もしかして、危なかった?」
「歩きながら考えごとは、やめた方がいいかもな」
ごもっともである。
ごもっともではあるものの、首は痛いわ髪は絡まるわで、思わず文句をつけてしまう。
「で、でもさ! もうちょっとやりようがあったと思わない?」
「……とは言われても」
「腕を引いて、よろめいたところを抱き止めたり。いくらでもあるじゃない!」
「ええー……」
ほんともう、ただの八つ当たりでしかない。
そもそも自分の不注意が原因で、コイツは助けてくれただけなのだ。理屈よりも感情が優先されることが多くなってきたのは気のせいではなさそうだ。
和人は困惑顔を見せたあと、何か思いついたようにオレの手を取ると、そのまま腕を組んで手を繋ぐ。
「とりあえず、これで大丈夫だろ?」
周囲の視線が気になって、街中では組むのをやめていた腕と腕。
でも、離したいとは思わなかった。
「…………うん」
俯き加減にそれだけ返して黙ってしまう。
たったこれだけで、もう八つ当たりなんてどうでも良くなって。こんなにちょろくて大丈夫なのか、我ながら心配になるレベルである。
冬だというのに汗ばんだ、お互いの手のひらを確かめながら小さく呟く。
「…………ありがと」
「気にすんな」
はたしてそれは、何に対しての感謝だったのか。自分でもよくわからなかった。
トラックから助けてくれたこと。八つ当たりに気をつかってくれたこと。腕を組んで、手を繋いでくれたこと。他にもいろいろ曖昧で。
それでもなんとなく、伝わってはいるようだ。
コテンと頭を倒して、コイツの肩にもたれかかる。
甘えっぱなしはダメだけど、時と場合によるけれど、やっぱり甘えたいと思うのだ。
そう、たとえばこんなときくらい。
あらあら。なんて言いながら口に手を当てて、買い物帰りの主婦がオレたちを追い越して行く。
信号はもう青になっていた。
暮れてゆく街並みの中、オレたちは行きつけのゲームセンターの前で立ち止まった。
今日の目的地は、店の中ではなく店の裏。自動販売機が立ち並ぶスペースの前。あの日あの時、コイツに告白された、あの場所に用がある。
「……行きたいところ、か」
和人はそう呟くと、繋いでいた手と腕をほどき、あの日と同じようにオレの背中に添えてくる。
「……やっぱりわかっちゃうんだ」
「長い付き合いだからな」
答えになっているんだかいないんだか。
そのまま和人に促されるようにして歩き出す。ここまではあの日と同じ。ただ、あの時のような悲壮感はない。
もう日も沈む。暗いと思っていたゲームセンターの駐車場は、思いがけない明るさで照らし出されていた。
「満月だね」
たしか、夏休みに海で見たのもこんな月。
人の営みが生み出す街の灯りと、空には丸いお月さま。
「海で見た月にそっくりだ」
和人も同じことを考えていたようだ。
「あれからもう半年。それどころか、あと三日だよ?」
「……三日?」
「付き合い始めて八ヶ月。覚えてない?」
長いようで短くて、順調なようでもどかしかった八ヶ月。
「六月十七日のことは、全部覚えてる」
「……うん。たぶん一生忘れない」
穴だらけの計画を実行した。レバーと画面を通して語り合った。でも自分に負けてしまい。この場所でコイツに告白されて。そして、初めてのキスをした。
きっとここが、恋人としての二人の原点。始まりの場所。何かを忘れそうになったなら、ここに戻って来ればいい。
「あの日は先に言われちゃったから、自分の気持ちをきちんと言葉にしておこうと思って」
あのときと同じにしないよう、コイツの右手が離れる前に、自分から大きく一歩前に出る。自販機の隣でふわっとくるっと半回転――。
「…………うん?」
視界に一瞬、妙なものが映り込んだ。
見間違いでなければ、あれは人だ。ベンチに誰かが倒れている。
せっかくいい雰囲気だったのに、ほんとに今日は何なんだ。言いたいことはいくらでもあるけれど、さすがに見過ごすことも出来なかった。
「和人――!」
「ああ」
それだけで察してくれたようだ。
「大丈夫ですか!?」
荷物を放り出し、二人で駆け寄って声をかける。
女の人だ。
自販機の灯りに照らされたその人影は、大きなお腹を抱えるようにして、苦悶の表情を浮かべていた。
意識はあるのだろうか。肩に手をやって揺らしてみるも返事がない。
「どうしよう!? とりあえず救急車……!」
「いま呼んでる」
見れば、和人はすでにスマホを手に持ち通話中。画面の明かりが横顔を照らし出している。
「――ええ。その通りに面したゲームセンターの駐車場の奥です。ええ。五分ですね、わかりました」
思っていたよりも早く到着するようだ。
大きく息を吐き、肩の力を抜いたところで女の人が身じろぎする。唇が小さく動く。何かを伝えようとしているのだろうか。
普段なら気にならない自販機の音も、こうなると煩わしい。口もとに耳を近づけてそばだてる。これでなんとか、どうだろう。
「…………う」
「う?」
「産まれる……」
待って。
救急車来るから待って!
救急隊の人が、手際よく妊婦さんを担架に乗せて、救急車へと運び込む。
「……なんかもう、疲れちゃった」
「救急車呼んだだけなのに、なんだってこんなに……」
救急車は本当に五分で到着した。
車の中から救急隊員が現れて、要救助者の確認と確保を始めたのが三分前。あっという間の出来事だったはずなのに。
緊張感に当てられたとでも言うのだろうか。
「峯岸、受け入れオーケーです」
助手席から男が顔を出し、声を張り上げる。
その名前には聞き覚えがあった。峯岸レディスクリニック。家の近くにある産婦人科で、オレと和人の生まれた場所。
「君たちも来てくれ。話を聞く必要があるかもしれん」
「え、ちょっと?」
「急いでるんだ。おーい車出すぞ」
「でも!」
「いいから、あとは車の中で」
強引に押し切られ、慌てて鞄だけ拾って乗り込んだ。
恋人としての原点に来たはずが、人生の原点までドナドナされることになろうとは。売られてゆく仔牛もびっくりだ。
内壁に据え付けの固い椅子に、和人と並んで腰掛ける。年若い救急隊員が、ストレッチャーに乗せられた妊婦さんに声をかけ続けていた。
「十分くらいで着きますからね。苦しくはないですか。聞こえてたら頷いてくださいね――」
妊婦さんは懸命に頷いている。
……そういえば、何かを忘れているような?
即落ち二コマ風に甘えさせたかったなどと、訳の分からない供述をしており略。
数字は漢字で書くのがいいという話を読んだので、なんとなく全部漢字にしてみました。