After 3-11.誰かの幸せを願って
「……帰るか」
そう言って立ち上がった和人の顔は、月明かりの下でもわかるくらい赤かった。きっとオレも同じか、それ以上に真っ赤になっているのだろう。
キスをするなら夕方がいい。夕焼けが赤ら顔を隠してくれるはずだ。なんて益体も無いことを考えつつ。
「いたっ……!」
立ち上がろうとした途端、激痛が走った。
「……ごめん。立てそうにないや」
砂浜に腰を下ろしたまま、自分の右足首に視線を向ける。
何かがあった。普段より一回り以上大きく腫れ上がった何かが。足首と呼べるようなくびれはもはや存在しておらず、痛々しいと言うよりどこかコミカルな印象を抱かせる。
うわあ……。他人事のような声を上げるも、これは確かに自分の足だ。信じられない。誰がこんな酷いことを。
うん。自分だった。ちょっと無茶をし過ぎた気がする。これ間違いなく3日くらいでどうにかなるようなものじゃないよね? いったいどれだけ悪化させたのだろう。足首を動かそうとさえしなければ、我慢出来ないほどではないのがせめてもの救いか。
「わ……悪い。忘れてた」
コイツがこんなうっかりをするのは珍しい。そもそも赤くなること自体が珍しいのだ。何故……と考えてすぐに思い至る。
はじめて伝えることが出来たあの言葉が、あの一撃が、自分が考えている以上のダメージを与えていたことに気がついて、頬が緩みそうになる。いつも慌てるのは自分ばかりだし、たまには逆の立場を味わって貰うのも面白そうだ。
「せっかくだから、ちょっとお願いしていいかな……?」
初体験が大事故になったお姫様だっこのやり直し。おばさん……? オレのシマじゃノーカンだから。いや、割と消えない爪痕残された気もするけどさ!
それを伝えると、コイツは面白いくらいに固まった。
ダメージが残ってるうちにどんどん追撃をしてゆくスタイル。問題は自分の被害も軽くないということか。相打ちオッケーと言いつつも、先に自分が倒れるビジョンしか見えないのはどうなんだろう。ダメっぽい。
いや、でも。ここまで来たらもう、行けるところまで突っ走るだけだ。
「ほ、ほら!」
膝を揃えて、膝を曲げて、膝裏に腕を通しやすい姿勢を取る。デニムショートパンツとレースアップTシャツは、お姫様と言うにはちょっと活発過ぎるかもしれない。涼しい格好で横になってるはずだったのに、どうしてこうなった。
「お……おう」
隣に跪くと、和人はおずおずと手を伸ばす。膝裏に触れる肌の感触がくすぐったい。背中から腰に回された手が脇腹のあたりに添えられる。
「……うあ」
伝わる温もりが、首筋にかかる吐息が、少し汗ばんだシャツの匂いが、取り繕っていたはずの冷静さを奪ってゆく。
何が相打ちだ。一方負けじゃないか。
頭がクラクラしてたまらない。身体の芯のあたりに電流でも流されたような、甘い痺れに悶えそうになる。
「上げるぞ」
照れ隠しなのか、ぶっきらぼうにそう言うと、コイツは腕に力を込めた。膝裏と腰に自分の体重がかかる。体が砂浜から離れて持ち上がる。
……少し呆けていたのかもしれない。テンパっていたと言い換えてもいい。急に地面という支えを失ったような気がして。
――気が付いたときにはコイツの首に腕を絡ませていた。
「……!?」
もはや言葉も出なかった。金魚のように口をパクパクとさせるばかりで、何一つ声になりやしない。
至近距離にコイツの顔があった。キスだってしたし、不意打ちではあったけど添い寝もした。今更このくらいのスキンシップは平気だと思っていたのに。
じわじわと、服越しに触れ合う肌が熱くなっていく。自分とは違う、少し筋張った身体つきに異性を感じた。
一番身近な男の子。華奢そうに見えて、意外な力強さにドキドキすることがある。そうして不意に、自分が女の子であることを自覚させられるのだ。
今だってそうだ。抱きかかえられてわかる体格と力の差。男と女、違う生き物だと実感する。それが何故か嬉しくて、もっと近づきたいと思ってしまうのだから重症だ。
結局のところ、これだけ触れ合っても恐れていたような忌避感に襲われるようなことはなかった。反射的に拒絶してしまったら……? なんて考えていたこともあったのに。
男の子だった自分はもうすっかり過去のものとなっていて、思い出の1ページに過ぎないのかもしれない。少しだけ郷愁に似た寂しさが胸をよぎる。
でも、それは自然なことで。
人は変わってゆく。子供から大人へ変わるように。体だけじゃなく、心も形を変えてゆく。
紫陽花の花が咲く頃に始まった恋心。体は女でも、心は男だと思っていたところに、自分の本当の気持ちを突きつけられた。はじめての感情に突き動かされるまま、戸惑いながらも走り続けたこの2ヶ月。
恋がどういうものかなんて、未だにわからないでいるけれど。コイツといっしょなら、いつかわかる日が来るのかもしれない。
いっしょに考えて、いっしょに悩んで。一人では乗り越えられないことも、二人ならきっと大丈夫。
「……本当は、ずっと怖かったんだ」
少し落ち着いて、ようやく出せるようになった声。
顔を伏せる。まだちょっと照れくさい。でも、伝えるなら今だと思った。
「和人はわかってるって言ってくれたけど、不安だったんだ」
そんなに長く生きられない。もしも逆の立場だったなら、残された自分はどう思うだろうか。考えてゾッとした。
自分といっしょになるということは、つまりそういうことなのだ。そんな思いをコイツにさせてまでして、幸せになろうだなんて虫が良すぎる気がして。
「何度も何度も考えて。自分一人で解決しなきゃいけないことだって勝手に思い込んで。でもどうにも出来なくて」
諦めようと思ったこともある。自分よりコイツに相応しい人がいるはずだなんて考えて。なのに――。
「諦めきれなかった。和人の隣にいたいと思った」
コイツの隣にいない自分なんて、想像出来なかった。
「そうして見て見ぬフリをしていたら、おじさんに全部言われちゃった」
伏せていた顔を上げると、目の前すぐで目が合った。そのままお互いに、額をコツンとぶつけて苦笑い。
「みんなさ、誰かの幸せを願ってるんだよ。ちょっとピントがズレてるだけで」
自分だってそうだったのだ。
「例えば、例えばの話だよ? 和人の幸せのために身を引きますって言われたらどう思う?」
「説教だな」
「だけど真剣に考えた結果なんだ。こうすることで幸せになれるはずだって」
でもそれは、自分の考えを押し付けているに過ぎなくて。そうやって人はすれ違う。
「たぶん、おじさんも同じだったんだと思う」
和人が将来、悲しまずに済むように。いつまでも、笑顔でいられるように。そんな祈りにも似た気持ちから、憎まれ役を買って出たとしたら。
「そんなこと望んじゃいないんだがな」
少し肩をすくめると、コイツはため息を一つ。
「意外とわからないものなんだよ」
「……そういうものか?」
オレのためとか言って、距離を置こうとしたことがあるヤツがこの不思議顔。ほらやっぱりわかってない。
「後で説教ね」
「なんでだ!?」
慌てる様子がおかしくて。でもそんなところも、何故か無性に愛おしい。
「二人で幸せになろうよ。文句のつけようがないくらいに。結城 和人の幸せを願う人も、九重 響の幸せを願う人も満足するくらいに」
コイツの首筋に額をあてて、そのまま胸元に頬を寄せる。
みんな笑顔がいいよ。
誰もが誰かの幸せを願ってる。それはきっととても素敵なこと。
自分の手の届く範囲なんて限られているけれど、せめてそのくらいは、みんな笑っていて欲しい。
「ちなみに、結城 和人を幸せにしたいと考えてる誰かは、ここで抱っこされてるらしいよ?」
いたずらっぽくウインクすると、ぐるぐると振り回された。きゃあきゃあと声を上げて笑い合う。
「よくそん恥ずかしいことが言えるな!」
「雰囲気に酔ってるのかも!」
いっしょに笑って、いっしょに泣いて。でも最後は笑顔で。この先何があるかなんてわからないし、死が二人を分かつまでなんて言うと重くなってしまうけど。
「ずっといっしょにいてくれる?」
「喜んで、お姫様」
コイツも大概恥ずかしい。
空にはまん丸なお月さま。どこまでも呑気な顔で、優しく微笑んでいるように見える。
その光が、辺りをやわらかに照らしていた。
アスファルトに、重なった影が伸びていた。
明日も更新予定です。