After 3-8.スパイ
「軽度の捻挫……といったところかしら」
おばさんはそう言うと、救急箱の蓋を閉じた。
「内出血とかはしてないから……アイシングとテーピングはしたし、あとはしばらく大人しくしてれば大丈夫」
「大人しくしてるのは得意です」
「嘘ばっかり」
包帯で固く固定された右足首は、冷やしたおかげか痛みもだいぶ和らいで。
和人に背負われたまま別荘まで戻ることになったのは、怪我を考えれば仕方のないことだった。いっしょについて来てくれたおばさんが、服や下着の用意から怪我の手当てまでしてくれたのがありがたい。自分とアイツだけじゃ、こうは出来なかっただろう。
「さすが看護師」
「元がつくわ」
おばさんが現役だったのは今から17年前、まだ女性の看護師が看護婦と呼ばれていた時代の話だと聞いたことがある。
「でも、ほんとすごいですよ。これならすぐ歩けそう」
力を入れると痛いけど。
「すぐに動かそうとすると治りが遅くなるから、今日くらいは安静にね。本当は3日くらいは動かない方がいいんだけど、そういうわけにもいかないものね」
そう言うとおばさんは、オレの膝裏と腰に手を回して、ひょいと抱き上げた。
……記念すべきお姫様だっこ初体験は、おばさんの手によって奪われた。待って。ちょっと待って。やり直しを要求する。世界よ、10秒ほどロールバックプリーズ!
当然そんなこと出来るはずもなく。
そのまま二段ベッドのある部屋まで運ばれて、その一段目で横になる。
なんだろう、このやるせなさは。なんだろう、このショートケーキの苺だけ持って行かれたような感覚は。
もやもやした気持ちを抱えたまま、膝を抱えるようにして丸くなる。眠気はすぐにやって来た。睡眠不足気味ではあったし、何より今日の密度は高すぎる。自分が思っているよりも、疲れていてもおかしくは無い。
目を閉じれば、あっという間に――。
一度目覚めてしまえば、大人しく寝ているのはつまらなかった。
建物の中は静まり返っていて、人の気配は無い。こっそりと何かしたとしても見つかる心配は無さそうだ。
せっかくだから何かお菓子でも物色するか。そんなことを考えながらダイニングキッチンを通り抜け、その横のウォークインクローゼットへと上り込む。
おばさんの措置がしっかりしていたおかげか、足はそこまで痛まなかった。とはいえこの状態で歩き回るのが良くないってのはわかる。
「あったあった」
家から持ち込んだ、お菓子類の入った袋の中身をガサゴソと物色していると。
ダイニング側のドアの開く音が聞こえた。
咄嗟にクローゼットの扉を締めて身を隠す。大人しくしてるように言われた直後に見つかるのは、さすがにちょっとバツが悪い。息を潜めつつ扉の隙間からこっそりと部屋の様子を伺うと、和人とおじさんが入って来たところだった。
それにしても、いつ戻って来たのだろう。全く気がつかなかった。まだ帰ってくるには早い時間のはずなのに。
「あの子はどうしてる?」
「響なら部屋で横になってるんじゃないかな」
なってないんだなこれが。
「そうか」
そんなこと、二人が知るよしもない。和人とおじさんはテーブルを挟んで椅子に座る。隙間からでは二人の表情まで覗き見るのは難しそうだ。
「……それで、話って?」
和人がそう促すも、おじさんは腕を組んだまま、しばらく考え込むように黙っていた。
重たい空気が流れる。二人とも無言だった。チクタクと、壁に掛かった遅れたままの時計が、時を刻む音ばかりよく聞こえた。静寂が耳に痛い。
……どれくらい時間が経ったのだろう。5分だったかも知れないし、1分程度だったのかも知れない。おじさんは組んでいた腕を解くと口を開いた。
「……和人。響くんにあまり入れ込まないようにしなさい」
……ちょっとこれは、どういうことなのだろう?
「付き合うのは構わない。だけど、将来のことを考えると不安がある」
「……何が言いたい?」
問いかける声は少し不機嫌そう。
「和人は……あの子と添い遂げるつもりだろう?」
「もちろん。……そのつもりだ」
「……悪いことは言わない。よく考えた方がいい」
流れる空気が険悪なものに変わる。アイツをここまで怒らせるおじさん凄いなと思うと同時に、オレのために怒ってくれたことが純粋に嬉しかった。
これはあれか。『私のために争わないで』っていうヤツか。違うかな……?
「和人は30年後を考えたことがあるかい? だいたい今の僕たちの年齢になる頃だ」
……おじさんが何を言おうとしているのか、わかってしまった。
いくら察しが悪くても、それを間違えようが無い。
「君が46歳になったとき、あの子はもう居ないだろう」
……そんなこと、もう何度だって考えたことなのだ。
医者からは、50歳まで生きられないだろうと言われている。それはこの病気にかかり、女の子になった時点で逃れられない運命のようなもので。
最近まで実感はわかなかった。アイツに恋して、その先を考えるようになって初めて……怖いと思った。
自分はどうしたって、あと30年程度しか生きられない。アイツを置いて逝くことになる。
オレよりもアイツに相応しい人がいるのではないか……? オレよりも、アイツを幸せにしてくれる人がいるのではないか。そんなことばかり考えて。
何日も眠れない夜を過ごし、肺に泥が詰まるような息苦しさを感じ、そうしてやっと導き出した答えは、いつも同じものだった。
諦め切れるくらいなら、最初から悩んだりしないのだ。悩むくらいなら、オレが一番相応しくなればいい。
「恋愛するなと言ってるわけじゃない」
言葉は悪いかも知れないけど、と前置きしておじさんは続ける。
「その歳の恋愛なんてはしかみたいなものだ。将来のための練習くらいに考えればいい」
……はしか、ね。
例え話だとわかっていても、いい気分ではいられなかった。要するに、一時的なものでそのうち醒めると思われているわけだ。
「だけど――」
反論しようと、和人が腰を浮かせた。
そのタイミングで、モーニングミュージックが鳴り響く。KONAMIのバブルシステム起動時に流れるBGM。これを着信音にしているJKは、たぶんオレくらいのものだろう。
慌ててスマホを取り出すと、スリープボタンを押して音を止める。発信者はTAICHIだった。やば。姉に言われたのに着信拒否忘れてた。いろんな意味で手遅れ感が漂って、思わず天を仰いでしまう。
「……響?」
立ち上がり、アイツがクローゼットに近づいて来るのが見えた。その後ろにおじさんの姿もある。
身を隠す場所は見つからず。そもそもここに居るのはバレバレだ。どうにかするにはテレポートくらいしか思いつかなかった。もっとしっかりヨガを続けていればもしかしたら。
どうにか出来るわけが無かった。ヨガでテレポート出来るのはダルシムくらいなものだ。
かくて、クローゼットの扉は開かれる。
「……聞いてた……のか」
扉を開いた格好のまま、オレを見つめる和人の表情は、悔恨、困惑が見て取れた。そうだよね。こんなところでお菓子漁ってると思わないよね怪我人が。
「……どうも。覗き見に定評のある響さんです」
茶化してみようにも、空気は一向に変わらない。
なんとなくピンと来てしまった。今朝のおばさんの態度はこの話が原因か。もっとも、わかったところでだからどうしたという話でしか無いのだけれど。
「困ったな。でもちょうどいいのかな?」
事の発端であるはずのおじさんは、そんなとぼけたことを言っていて。
その『ちょうどいい』がどういう意味なのか、理解が追いつくにつれ、頭の中がすーっと冷えていくのを感じた。
たぶん、上手く行きすぎて勘違いしていたのだ。誰からも祝福されて幸せになれるなんて、おとぎ話でもなかなか無いことを信じてしまっていた。
腑抜けてたんじゃないか九重 響。
物語はいつだって、お姫様は幸せなキスをしましたでは終わりはしない。
そんなこと、わかってる。
わかってるつもりだった。
妹が持ち上がらなかった。