After 3-5.すまない
昔の話だ。
まだ小さかったオレが、姉と毎日いっしょにお風呂に入っていた頃。まだ小学校に上がったばかりで、一人ではお風呂に入れなかった頃。
どちらか長くお湯の中で息を止めてられるか競ったり、手のひらを使った水鉄砲でお湯をかけあったり、そんなことを飽きることなくやっていたっけ。
決着が着く前にのぼせてしまうことがほとんどで、2人揃って仲良く縁側で土左衛門が日常茶飯事。
両親からは呆れられたりもしたけれど、あの頃の姉は手のかかる弟にも怯まずに、きちんとお姉ちゃんしていた気がする。
今だって、手のかかる妹をちゃんと気にかけてくれているのだ。若干やりすぎなところは否めないものの、なんだかんだで応援してくれてるのはありがたいことなのかもしれない。
なんでこんなことを思い出したかと言うと、姉と二人仲良くテラスにぶっ倒れているからに他ならない。
ここまでのぼせたのは何時ぶりだろうか。隣に水揚げされた花柄パジャマの水死体を眺めながら考えて、思い出せなくて、どうでもいいかと投げ捨てた。
「ほらほら、どきなさいなあんたたち」
テラスではバーベキューの用意が進められていた。
そういうわけで、邪魔者は母さんに蹴られそうになったりしながら這い蹲って画面端に移動する。リアルバウト餓狼伝説なら、攻撃食らったら一発でリングアウトしそうな位置だ。
こっちはいい具合に茹っているというのに、同じくらい浸かっていた理恵ちゃんが、平気な顔して夕飯の準備を手伝っているのは何故なのか。
「なんであの子あんなに元気なのよ……」
うめくようにそう口にする姉に、知らないよとだけ返しておく。
基礎体力という言葉から目を逸らし、せめて邪魔にならないように膝を抱えて体育座り。準備は元気なヤツらに任せればいいかと思っていたら。
「いつまでもへばってないで、和人くんといっしょに焼き野菜でも準備してなさい」
ちょっと待って母さん。いま動くと気持ち悪いの。
「キッチンには和人くん一人だし、しばらく近寄らないようにするから」
待って。その気遣いいらない。
「ほら、遠慮しなくていいのよ。さあさあ」
誰か助けて! ヘルプミー!
キッチンに入るとそこに和人の姿はなかった。
代わりにあったのは、包丁を握り野菜相手に死闘を演じるおじさん……和人の父親の姿だった。
日頃包丁を握っていないことが丸わかりの危なっかしい手つきで、たどたどしくキャベツを刻む様は、いつ流血沙汰になってもおかしくなくて。
「か……かわります!」
慌てて駆け寄ってそう声をかけたのは、当然の反応だったと思う。
「ああ、君か。少し待ってくれないか。あとちょっとでコツが掴めそうなんだ」
とぼけたことを言う。日頃の練習なしで、短時間でどうにかなんてなるもんか。
「そういうのいいんで。指とか飛ばされても困ります」
「あはは。もう2本も飛ばしちゃったよ」
「うそぉ!?」
「もちろん嘘だとも」
ちくしょうめ!
「こうやって話しをするのも久しぶりだね」
久しぶりの会話がこれかよ! ……いや、この人は昔からこういう人だった。神経質そうな見た目に騙されると、すぐ裏切ってくるタイプ。
とりあえず包丁を受け取って、キャベツのざく切りの続きに取りかかる。
「君は、和人のことが好きかい?」
指を切りそうになった。
会話のノールックぶっぱやめてほしい。それにしても、どう答えるのが正解なのか。冗談で返すところでもなさそうだし……。
「えっと……はい」
若干照れが入りつつもそう答える。それを聞いておじさんは真面目な顔でうなづいた。
「だが僕のほうがずっと好きだ!」
なんだこのおっさんめんどくせえ。
「……僕たち夫婦の間にはなかなか子供が出来なくてね、30歳になってようやく授かったんだ」
そして始まる自分語り。たしか、大学を出て就職してから24歳同士で結婚したとか聞いたことがある。
おじさんが言うには、それから6年せっせと子作りに励んだのになかなか当たらなかったそうだ。なんだこれ。セクハラかな?
「あの子には幸せになって欲しいんだ」
なんてことはない言葉のはずだった。それなのに、凄みを感じた。
人の親なんだから当然だ。なんて理解したフリをするのは簡単だ。でもきっと、親になってみなければわからないことなのだろう。
「だから、すまないね」
違和感があった。何に対してあやまっていると言うのか。
でもおじさんはそれで口をつぐみ、オレは話を再開するきっかけを掴めないまま野菜を切り終えてしまって。
その『すまない』がいったいどんな意味を持っていたのか、ついに確認することは出来なかったのだ。
バーベキューってなんだっけ。
たしか、肉や野菜を焼き終えてから食べるスタイルだったと記憶している。
わかってはいたのだ。そんな行儀のいいことは無理な人たちだと。
当然にように焼いたそばから奪われていく食材たち。それならばまだいい方で。
「ねえ和人、あれまだ生に見えるんだけど……」
「生肉だな」
バーベキューどころか、焼肉ですらない。
お酒の入った後の大人たちの食べ方は酷いってもんじゃなかった。
せめてちゃんと焼けと、言いたいところではあるけれど、余計なことをして巻き込まれるのも避けたいところだ。
そうなると、結局こうして遠巻きに見守るくらいしか出来ないわけで。
比較的のんびりと他人事気分で眺めていたからだろうか、油断していたのかもしれない。警戒するべき人間の接近に気がついていなかったなんて。
「響ぃ~。なに辛気臭い顔してんの~?」
気がつけば姉に後ろから羽交い締めにされていた。器用なことに、片手には白茶色の液体が入ったグラスを持っていたりする。
あっ、と思ったときには遅かった。呆けたように半開きになった口に、その液体が流し込まれた。
いったい何を!? 甘い? なんていうかコーヒー牛乳っぽいような。
「これ? カルアミルク。あんたが風呂上がりにいつも飲んでる、きなこ牛乳のかわりに持ってきてあげたの」
絶対嘘だ!
思っていたよりもマイルドな口当たりだったせいだろうか、姉がグラスを傾け続けるものだから、こぼすよりはマシかなんて思ってしまったのだ。
されるがままに喉を鳴らしてそれを飲み切ると、視界がゆらぐような感覚に襲われた。
なんだか体がぽかぽかして、ふわふわと、ぜんぜん頭が回らない。
あれ? これもしかして……。
「……ふえぇ……」
「響ちゃん? なんかフラフラしてるけど……?」
「ああ。この子、お屠蘇で酔うのよ」
「お姉さん!?」
衝動に動かされるままに、隣に座る和人の膝の上に横座り。そのままコイツの首に腕を巻きつけるようにして、首元に顔を押し付ける。
「えへへ……」
なんだかよくわからないけど、嬉しくてにやけてしまう。
「……あの? 響さん?」
「敬語、ダメ」
「あっハイ」
和人はすぐそうやって誤魔化そうとする。前からちょっと不満だった。もっと真剣になって欲しいのに。
「それにしても、響めちゃくちゃ軽いんだけど……」
「軽くないもん。重いもん。死ぬまでずっといっしょなんだから!」
「そっち!?」
「いっしょのお墓に入ろうって言ってくれたし。ずっといっしょだよ」
機嫌よく笑って足をぶらぶらさせていると、和人の腕が同じようにぶらぶらと所在なさげに揺れていることに気がついた。
首に回していた腕を解くと、コイツの腕を掴んでお腹の前で重なるように移動させる。いわゆるあすなろ抱きというやつだ。
「雰囲気は糖分過多なのに、言葉のチョイスが残念すぎますね……」
「……なんで人生の終着駅の話ばかりなのかしら」
「……さあ?」
満足して、もういちどコイツの首に腕を回して抱きついた。そしてそのまま首元に、ついばむようにキスをする。
「……っ」
何度も何度も、キスの雨を降らせてゆく。首筋だけじゃなく、肩、鎖骨、胸元、そしてもう一度首筋に。コイツはオレのものだって、マーキングするみたいに主張する。
誰かの茶化すような声が聞こえた気がした。でも、まわりなんてもう見えていなかった。
コイツの胸に顔をうずめて、両腕を背中にまわして抱きしめる。コイツの匂いが鼻孔をくすぐる。少し汗臭いけど嫌じゃない。どこかきゅんとするような甘い痺れを感じる。
抱きしめられたい。この匂いに包まれたい。そう思うと自然と声が漏れた。
「……ぎゅってして」
自分でもびっくりするくらいの甘えた声。
ほどなくして、オレの背中にアイツの両腕が回された。すんすんと鼻を鳴らして匂いを満喫する。顔を横に向けて耳をつけると心臓の音が聞こえてきた。なんだろう。とても安心する。
幸せで、ドキドキして、クラクラして、なんだかとろけてしまいそうな気がした。
胸の奥から熱いものがこみあげて、ついでに喉の奥からもこみあげて。
「……吐きそう」
「は?」
恥の多い生涯を送って来ました。
思い出してしまった記憶は、おもわずそんな言葉を思い浮かべるくらい、どうしようもないものだった。
静まりかえった部屋の中に、波音と和人の寝息がやけにはっきりと聞こえた。窓から入る淡い星明かりは、見慣れたはずの部屋を幻想的に照らし出して。
二段ベッドのある小さな部屋で、そのベッドの一段目で横になったまま、眉間に手を当てて考える。
知りたいことはたくさんあった。
なんで自分はこの部屋に居るのか。なんでベッドで横になっているのか。なんで和人がすぐ隣に居るのか。なんで抱き合うような格好になっているのか。
……コイツの服が変わっていないということは、少なくともあのタイミングではゲロらずに済んだのだろう。そのあとについては――。
まあいいか。つぶやきは声にならなかった。世の中には知らなくていいことなんてたくさんあるのだ。
目を閉じる。今日はいろいろあった。きっと明日もいろいろある。
やらかしたっていいじゃないか。それを糧に、きっと明日の自分は、今日の自分より少しだけ前に進んでる。
そんなことを考えて、今日を締めくくろうとしてみても、眠ることなんてちっとも出来やしなかったのだけど。
眠ろうとはするものの、変わらず和人は目の前で呑気に寝息を立てていて。その腕はオレの背中に回されたまま動く気配はない。
心臓はさっきからフルマラソンだ。誰がこんな状況で落ち着けるというのだろう。
たぶん今日は、朝まで眠れそうにない。
罰ゲームとご褒美は紙一重。これは紙一重突破して、罰ゲームなのではなかろうか? そのくだらない問いかけに、答える人は誰もいない――。
とりあえず、キリのいいところまで出しておきます。
予告どおり、ここから先はラストまで書いてから投稿する予定です。
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