After 3-3.到着と大掃除
潮の香りがただよう田舎の街並みを抜け、申し訳程度に舗装された道をミニバンが走ってゆく。
生い茂る木々はまるでトンネルのようにせり出して、昼間だというのに少し薄暗い。たまに見える民家が、ここが人里であることを思い出させてくれた。
妙に雰囲気のある林を抜けだすと、視界は一気に開かれて。日差しの強さに目を細めると、遠くにはキラキラと光る水平線。
海が見えた。
「わあ……!」
隣に座る理恵ちゃんが感嘆の声をあげる。
曲がりくねった私道の坂を降りてゆく。耳をすませば、波の音が聞こえてくる。視線を上げると目に入る、空に浮かぶ入道雲。
毎年見ている見慣れたはずの風景に、それでもなお心が躍る。
夏はもう真っ盛り。普段なら恨み言のひとつも言いたくなるくらい能天気な太陽も許せてしまう。
車はいつのまにか舗装されていない砂利道へ。海はもう目と鼻の先だ。しかしそのまま海には向かわず、横道に回り込むように入り込むと、ところどころ塗装のはげた白い壁と、煉瓦色の屋根が見えた。
切り立った崖のような場所に建てられた、そのモダンな建物は、まるでオレたちを歓迎しているようで。
――2泊3日の小旅行。いろいろと課題も問題もあるけれど、心配しても始まらない。
とりあえず、目一杯楽しんでやるのだ!
これはひどい。
和室の惨状を前に、気が滅入りそうになるのを感じた。
畳に広がる白と青のマーブル模様。空気の流れとともに立ちのぼる靄のようなものに、口元のマスクを確認する。
カビである。
チーズ好きな人には馴染みのあるヤツらなのかもしれないが、しかしここでは部屋を不法に占拠する侵略者。
別荘に到着した一行を待っていたのは大掃除だった。年に1、2回しか使われず、海からの潮風を浴び続ける建物がどうなるか。その答えは目の前に広がっていた。
「うわあ……」
ドン引きしている理恵ちゃんは放っておいて、まずは窓を全開に。大人も子供も手分けして大掃除を開始する。このくらい、毎年やってることなのだ。こんなところでめげてはいられない。
手にした掃除機のスイッチをオンにする。回転ブラシも動かして、まずは大雑把にカビどもを吸い上げる。
畳は痛むし胞子は飛び散るし、褒められた方法とは言えないだろう。だが、何よりも大切なのは、いかに短時間で生活に耐えうる環境を作り出すかである。
掃除機で吸い取った先から、和人が鼻歌まじりに水拭きして行く。
「ずいぶん機嫌良さそうだけど、何かあったの?」
「明日になれば水着が……!」
「え? あ……うん」
そんなに……?
どんどん退路がふさがれていってるような気が。
いいんだけど。もちろんいいんだけど。ハードルもいっしょにどんどん上がって行くのが恐ろしい。
「あれ? 明日?」
手持ち無沙汰にしていた理恵ちゃんが、意外そうな声をあげる。そういや言ってなかったっけ。
「今日は大掃除でだいたい潰れちゃうから、海に入るのは明日からだよ」
「そうなんだ……。でもたしかに、これは時間かかりそう」
「うん。だから手伝って」
掃除機をかけ終えた手を止めて、にっこりと笑いかけると、苦笑いで返された。
さすがに初見で指示無しはきつかろう。何かやってもらうとして、それも比較的軽めの仕事。頬に指を当ててしばし考える。そうなるとあれが良さそうだ。
スリッパのまま和室に上がり、押入れの戸を開く。その中には、圧縮袋でぺたんこになった布団が折り重なって積まれていた。
「とりあえず、これをテラスまで運んで干さないと」
「結構あるね」
「7人分だから……っと」
圧縮袋に入った敷き布団を1つ理恵ちゃんに手渡しする。思ったより重かったのか、ちょっとつんのめりそうになった彼女は、しかし別の何かを見ているようだった。
「どうしたの?」
「……響ちゃん。後ろ……それ……」
恐ろしいものでも見たかのようなその様子に、慌てて振り向いてみれば。
ムカデがいた。
掃除機で無慈悲に吸い取った。動きが早い昆虫などに比べれば楽な相手である。Gやカマドウマの場合は結構手こずる場合がある。まあ、そいつらムカデに喰われるんですけど。弱肉強食の掟がそこにはあった。
ドン引きしている理恵ちゃんに向き直る。信じられないとでも言いたげな顔で、こちらを見ているのは何故なのか。
「もしかして理恵ちゃんって虫ダメだったりする?」
「そういうことじゃなくて。たしかに虫はダメだけど、そういうことじゃなくて!」
「……うん? てんとうむしとかかわいくない?」
「無理無理無理絶対無理」
めちゃくちゃ首を横に振られた。ここで生きていくには辛そうだ。ほんと虫だらけだしこのあたり。
自分も1枚布団を持って、押入れからテラスへと運び出すと、袋を開けて中から取り出した。実は布団圧縮袋にはスペースの有効利用のほかに、もう一つの大きなメリットがある。
「布団はカビてないんだね」
「圧縮袋さまさまです」
バルブ式の圧縮袋でしっかり空気を抜いてやれば、そうそうカビることはない。もちろん、押入れ自体の湿気対策は必要ではあるものの、取り回しはだいぶ楽になる。
別荘と聞くと、優雅なイメージを持つ人は多いと思う。でも実態はこんなものである。カビと虫との戦いから始まるのだ。
全ての掃除を終えた頃には、もう夕方になっていた。
「いやーごめん。寝てたわ」
今更のように起き出して来た姉が、悪びれもせずに伸びをする。よくあの暑い中、車で寝ていられるものだ。もしかしたら、日陰で風通し良くしてればそうでもないんだろうか。
布団を取り込み終えたテラスのテーブルで、理恵ちゃんといっしょにペットボトルの紅茶をちびちびと。
ずいぶんと汗をかいた。ここが自分の部屋なら、扇風機の前でスカートをたくし上げて、風を送っているところだ。ワンピースだと、そのまま上半身まで風が届くのがポイントと言えよう。
はしたないという自覚はある。それでも、涼みたいという欲求に逆らうのは難しい。暑い日本が悪いのだ。
「あんたたち、ちょっと早いけどお風呂入っちゃう?」
母さんがテラスの3人、つまりオレと姉と理恵ちゃんを見て、そんなことを言った。
ここの湯舟は大きな石を積み重ねた、いわゆる岩風呂というやつだ。地震なんかで隙間ができると水漏れが起こることがあるらしい。
なので毎年初日は、給湯器の確認と湯船の水漏れチェックのため、早めにお湯を沸かす。するとどうなるか。夕暮れ時の海を眺めながらお風呂に浸かるという贅沢が堪能出来てしまうわけだ。
残念ながら夕日は海とは反対側。それでも、水平線のすぐ上がピンクに染まるあの風景は、それはそれで侘しさがあって美しい。
待ってましたとばかりに立ち上がると、理恵ちゃんに肩を掴まれた。
「ねえ響ちゃん、いっしょに入ろうよ」
「……うん。元からそのつもりだったけど」
たぶん、母さんもそのつもりだったと思うし。
「お姉さんもいっしょにどうですか?」
「そう? じゃあせっかくだから高橋さんといっしょにあんたでも弄ろうか」
なんか不穏なことを言われた。
脱衣所で鏡に映る自分の裸は、ここしばらくの間なにも変わっているように見えなかった。
大豆製品が良いと聞いた。日々の献立に豆腐料理を積極的に取り入れたり、きな粉牛乳なんてものもお風呂上がりに飲むようにしたくらいだ。
マッサージだってするようにした。でもヨガは長続きしなかった。育乳に最適なんて謳い文句のナイトブラも使ってる。
なのに何故。
肉は腹から増えるのか。全ての努力をあざ笑うかのごとく暴虐に振る舞う脂肪が憎い。おまえの家はそこじゃない。もっと上に引っ越して欲しいのに。
周りの女子が言うところの、華奢、スリムはそんなにいいものではないと思う。元男子として言わせて貰えば、そんなものは不健康の象徴でしかない。
なのに一向にそこから抜け出せないのは、結局のところスタイルを気にしてしまうからなのだろう。
「響ちゃん細くていいなあ」
「ひゃあああああ!?」
理恵ちゃんに背後から乳を揉みしだかれた。スキンシップに遠慮がないなこの子は!
鏡越しに見る彼女の姿は、その位置関係から大事なところは隠れて見えないが、それでも均整のとれた理想的なプロポーションは隠しきれていなかった。
自分より少し背が高い。それはいい。でも腰の高さの差がそれよりも大きいのはつまり。
足長すぎない?
どこまで戦力差を見せつければ気がすむというのだろう。それに――。
そろそろ反撃してもよいのではなかろうか。いつか揉んでやると誓ったその生乳が、手の届くところにあるならば。というか背中に当たって、乳とその頂きの感触がはっきりと。そりゃあもうはっきりと!
ドキドキした。いけないことをしているような、そんな気がして。
なんということだろう。同性でこの破壊力。いわんや異性だったなら。
アイツの自転車の後ろに乗るとき、押し付けるように抱きついたりもするけれど、そもそもあれは服越しだし戦力も違いすぎる。さらにいうなら、アイツが胸の感触だと思ってるものの大半は綿と布だ。
自分の胸に視線を落としてため息を一つ。
「なに面白い顔で百面相やってるのよ」
呆れたといった様子で、姉が自前の腰に手を当てていた。
「面白くないしかわいいし!」
「はいはい響はかわいいかわいい」
おざなりな返事もそこそこに、姉は脱衣所から風呂場へと入ってゆく。その後ろについてオレと理恵ちゃんも移動する。ところで後ろの子はいつまで抱きついているんでしょうか。
風呂場は3人並んでもなおゆったりとしていた。ちょっとした露天風呂のような大きさで、御影石のタイルが敷き詰められた床は無駄な高級感に溢れている。
その先にある風情溢れる岩風呂と大きな窓。その窓にはブラインドが下されているが、開けば海を一望出来る贅沢仕様。
ガラス張りの天井からは、夕日に照らされた雲が流れる様子が見えた。夜になれば、星や月を眺めながらなんてのも乙なもの。
爺様の、風呂に対する並々ならぬこだわりがよくわかる。それなのに当の本人は、腰を悪くしてから来れずにいるのだから皮肉なものである。
「いっちばーん」
姉がそのまま湯船に飛び込んだ。
「ちょっと姉! かけ湯くらいしてから入りなよ!」
「えーいいじゃんめんどくさい。あ、ブラインド開けていい?」
「いいけど、理恵ちゃんもいい?」
「大丈夫だよ」
迷いなくそう答える理恵ちゃんに、姉はちょっと意外そうな顔だ。
「覗かれちゃうかもしれないよ?」
「そんなこと言ってたら露天風呂とか入れないですよ」
なかなか男前なことを言う。
「……ふうん。それじゃ早速……!」
姉は湯船から立ち上がると、えいっという意外と大人しい掛け声とともにブラインドを引き上げた。
「わああ……」
今日の理恵ちゃんはそればかり。でも無理もない。
鈍色に染まる水平線。折り重なるようにした藍色の空は、その上をほのかにピンク色に染め上げて。
「なにこれ綺麗! 夕焼け……じゃないよね?」
この東の夕焼け。たしかヴィーナスベルトと呼ばれていたはずだ。
「呼び方なんてどうでもいいのよ」
姉のその言葉に同意する。名前を呼んでしまったら、何処にでもある変哲のないものになってしまう。そんな気がして。
「よし!」
かけ湯だけ済ませて、そのまま湯船へ踏み入った。髪もまとめずお湯の中に広がるに任せ、東の空を眺めやる。褒められたことじゃないけれど、どうせあと数分でこの空は見納めだ。少しくらい後回しにしてもいいだろう。
「これだけでも来た価値があったかも」
遅れて湯船に入った理恵ちゃんが、そんなふうに呟いた。髪が湯につかないよう、頭に白いタオルでまとめているあたり、なんだかんだで真面目な彼女らしさを感じる。オレや姉とは大違いだ。
とは言っても、反省する気などさらさら無いのだけど。
力を抜いて寄りかかると、背中に感じる岩の感触が心地よい。そのまましんみりと景色に見入っていたら、振り向いた姉の目が三日月型に細められた。
「ところで――」
嫌な予感がした。久しぶりに見るこの表情。しばらく姉に余裕がなかったせいか、見ることのなかったこの表情。
「あんたと和人、どこまでいったの?」
こいつ……! やっぱり生徒会に売り払うべきだったんだ!
「それですよお姉さん! 響ちゃんなかなか教えてくれないんですよ」
思わず立ち上がろうとしたところで、むんずと手首を掴まれた。その先に、興味津々といった様子の理恵ちゃんが。
……どうやら、味方はいないみたいだ。
妹と二人並んでやってたら母がすごい顔してました(何をとは言わんが