After 1-3.焦り
「どうしようかな」
洗い物をしていたらそんな呟きが耳に入った。現在この部屋には自分しかいない。和人はお風呂掃除中だし、おじさんやおばさんはもうちょっと遅くなるそうだ。
状況から鑑みるに、呟いていたのは自分だったらしい。独り言を言うクセは無かったはずなので少し驚いてしまった。思っていた以上に自分は悩んでいるみたいだ。
何を悩んでいるかというと、要するにお泊りするのかってことなんだけど。
もし泊まるのであれば、それは今までとは違う意味を持つということが、わからないほどバカじゃない。向こうにその気があるかは別として、付き合いはじめた以上、体を求められてもそれはおかしな話じゃないんだから。
もっとも、アイツはいきなり手を出せるようなタイプじゃない。ないのだけど、今までの自分の振舞いを省みるに、3年以上たっぷりと挑発していたような気がして、というかしてたわ。夏場とか普通に下着透けてたわ。無自覚って怖いなって改めて思う。
そんなわけでアイツの理性にこれ以上の負担をかけた場合に、ダムが決壊する可能性は否定しきれないんではなかろうか。
「どうしたらいいんだろう」
手を止めてひとりごちる。
自分に覚悟ができるまで、そういうことはすべきでは無いはずだ。でも同時に、こんなところで足踏みしてるわけにはいかないという焦りも感じる。
いったい何にそんなに焦っているというのか。
なんといってもまだ初日なのだ。焦る必要なんてどこにも無い。それなのに、なんでだろう。
ありがちな理由を挙げるとすれば、それはやはり時間だろうか。
自分のように、この病気で性転換してしまった人は総じて短命だ。無理に身体を作りかえる代償なのか、45歳くらいまでしか生きられない。
仮に25歳で子供を産んだとして、その子が成人する頃には、もしかしたらもう自分はいないかもしれない。そう考えると少し寒気がした。
とは言っても、さすがに今焦ってる理由はこれでは無いだろう。まだ高校生になったばかりだし、子供なんていくらなんでも早すぎる。そりゃいつかは欲しいけど、それはまだまだ先の話。長生きは……出来るものならしてみたかったけど、これも今更どうしようもないことだ。
だとすると……?
なんとなく引っかかって、もやもやして落ち着かない。何かとても大切なことを見落としているような、そんな気分。
理由を探して1日を振り返ってみても、いまいちピンと来ない。わかるのは、今日の自分がどこかおかしかったということくらいだ。
とてもシラフでは出来なそうな抱きついてのキスから、恋人つなぎ、胸を押し付けて腕も組んだし、旦那さまなんて呼んでみたり、ちょっと暴走してるんじゃないかってくらい。
フワフワと浮ついた気持ちのまま、思うがままにやらかした結果、異様に恥ずかしい思い出を量産しているわけだけど、後悔しているかというとそうでもなかったりする。
だって、もし冷静だったなら、冷静になってしまったら、キスしたり抱きついたりなんて出来ただろうか。ましてやその先に進もうだなんて考えられただろうか。
そういうことに興味はありません、なんてカマトトぶる気はない。人並みに興味もあるし性欲だってある。生きてるんだからこれは自然なことだ。
アイツのことが好きだ。抱かれたいと思ってる。でも覚悟……心の準備が出来ているかは別の問題で。
鉄は熱いうちに打て、ということわざがある。たしかにその通りだと思うけど、急いては事を仕損じる、ということわざもある。勢いに任せて進むことが一概に正しいとは言えないはずだ。
勢いはいつか弱まる。雨が止むように。日が沈むように。それは当然のことでしかない。
その時、オレみたいな半端者がアイツに抱かれることが出来るだろうか。自分は女だと思っていても、どこかに残った男の自分が、それを拒絶しないだろうか。
少し前にも同じことを考えていたのに、何故気が付かなかったのだろう。
生まれついての女ではないということ。男でいた12年と、女になった3年間。自分が女だと自覚しはじめてからまだ2年もたっていないし、恋心に至っては自覚したのが2日前というていたらく。
自信がないんだ。自分に自信が持てないから勢いだけで進もうとして、焦って不安になっている。
それは自分のことを半端者、なんて考えた時点でわかりきった話しでしかなくて。
つまるところ、この焦り、この悩みは。
オレは本当の意味で女の子になれたのだろうか? という一点に尽きるのだ。
洗い物を終える頃には、舞い上がっていた気分もすっかり落ち着いてしまっていた。
壁の時計を視線を向けたところで、帰りが遅くなることを家に連絡しないでいたことに今更ながら気がついた。そろそろ向こうから電話がかかってきてもおかしくない時間だ。
……心配かけちゃったかな。ちょっとだけ反省しつつ、スマホを取り出してダイヤルする。女の子なんだから遅くなるときはしっかり連絡しなさい、なんて耳にタコが出来るくらい言われているんだけど、たまに忘れてしまうのはなぜなのか。なんて考えていたら。
『どこほっつき歩いてんだいこのバカ娘』
繋がった電話から聞こえてきたのは、発生3フレの最速罵声だった。
「お、お母さま、お怒りですか……?」
『いんや。夕方に和人くんから連絡貰って知ってたからいいけど』
「あ、そうなんだ」
ビビらせないでほしい。普段ぼーっとしてるくせに、一度怒らせるといつまでもネチネチとつついてくるタイプなので本当に面倒くさい。ほんとウチの女どもは、姉も含めて面倒くさいのばっかりだ。
……あれ? もしかしてオレも面倒くさいカテゴリだったりするんだろうか。いや、まさか、そんなこと――。
『何考えてるか知らないけど、あんたも大概面倒くさいわよ』
「…………」
……心の中、読まれてんのか?
しかし、面倒くさい、面倒くさいかあ。なんとなくそんな気はしてたけど、あらためて言われるとショックでかいな……。
いろいろと余計なことで悩んでばかりいるし、そういうところが面倒くさいのかもしれないけど。それでも自分にとってはすごく大切なことばかりで、簡単に答えを出せるものではないのだから仕方ない。そうでなければ悩んだりなんてしないだろう。
ここ最近は特にひどくなっている気がする。一体どこにこれだけの悩みが隠れていたのか、不思議になるくらいだ。
今日だって――。
『泊まるかどうか、迷ってるんでしょう』
「……うん」
『あんたはわかりやすいからね。昔から思い込んだら一直線で』
「……うん」
『泊まってくれば? と言いたいところなんだけど』
そこで母さんは一度口を止めて、急に話題を変えてきた。
『聞いたわよ。あんたたち、付き合い始めたんですって?』
「え、あ……。うん」
『おめでとう。和人くんならこっちも安心だし』
「……ありがと」
誰かに認めて欲しかったわけじゃないけど、やっぱりこう言って貰えると嬉しいもので、自然と笑顔がこぼれてしまう。
『正直なところ、ようやくか、って感想なんだけど……ヘタレにしては頑張ったのかしら』
「一世一代の大勝負だったんですけどー」
『黙れヘタレ』
「イエスマム」
……どうあがいてもヘタレであることは否定できないからなあ。頑張ったとは思うんだけど、結局告白もアイツからになっちゃったし。
……度胸が足りないのかも。
『……話を戻すわね』
咳払いをしてから、母さんは苦笑混じりの声で続ける。
『昨日までなら、いっそ間違いが起こってくれたほうが話が早くていいって思って泳がしてたんだけど』
……なんか聞き捨てならないことを言われたような?
『ゴムは持ってるの?』
「……うん?」
一瞬なんのことかわからなかった。でも、理解が追いつくにつれて――。
『ぶっちゃけるとコンドームね』
「あるわけないよ!」
『じゃあ和人くんは持ってるのかしら?』
「……よく冗談半分に部屋を家探ししてるけど、そういうのが出てきたことは無いかな。えろい本はたまに出てくるけど」
だいたいが、黒髪ぱっつん小柄ひんぬーモノだったような……? あ、これ深く考えちゃダメなヤツだ。
『……かわいそうだからやめてあげなさい』
「……うん」
『それで、あんた前回の生理いつだっけ?』
「……ちょうど2週間前……かな……」
『……この歳でお婆ちゃんになるのはいやよ?」
「ソウデスネ」
言われてみればその通りでしかなくて。そんなことすら忘れてたなんて、どれだけ度を失っていたのだろうか。
『……こういうのを言ってあげるのも大人の仕事なのかしらね』
母さんはため息を一つついてから、呆れたような声でこう言った。
『もうわかってるでしょう。答えはノーよ。帰って来なさい』
反論は、する気にならなかった。
『迷ってるってことは、心がどこかでブレーキかけてるのよ』