10.伸ばした手の先に
月曜日、アイツは迎えに来なかった。スマホを見るが、今日まであれから何のメッセージも来ていない。ため息をついて玄関に向かう。
「あんた、和人と何かあったの?」
手すりに身を預けるようにして、姉が階段からオレを見下ろしていた。
「……別になにも」
「ついに愛想を尽かされたってわけ?」
姉の言葉に何か言い返そうとして言葉に詰まる。しばらくして出てきたのは弱々しい笑い声だった。
「あはは……そうかもね」
どうやらそれは姉のお気に召さなかったらしく、形の良い眉が片方だけピクリと吊り上がるのが見えた。
「あんたはそれでいいの?」
「……いいも悪いも、アイツが決めたことだから……」
「ふうん。アイツが決めたこと、ね。やっぱり何かあったんじゃない」
探るような、それでいて見透かすような姉の視線に、耐えきれず目をそらす。
「……大丈夫だから、放っといてよ……」
「大丈夫に見えないから言ってるの! あんた自分の顔見た?」
「……見てない」
見たくもない。見なくてもわかる、そんなの。
心の中がぐちゃぐちゃで、自分がどうしたいのかわからない。答えの見えない袋小路に入り込んだまま、抜け出せずにもがいているみたいに。
「……何があったのか、話してみない? 気持ちが楽になるかもしれないから」
姉はゆっくりと階段を降りて、オレの目の前に立った。目をそらしたままのオレの腕を掴んで引き寄せると、そのまま頭を胸に抱え込むようにして抱きしめた。ふわりと、花の薫りが鼻腔をくすぐる。いつもの姉の香水の匂い。
人のぬくもりを感じた。ただそれだけなのに泣きそうになる。泣いてしまったほうが楽になれたのかもしれない。でもそれはどこかに残った意地のようなものが許さなかった。
自分はどこかおかしくなってしまったのだろうか。先週末、学校の屋上で見た、あの場面。まるでドラマみたいな告白。和人がありがとう、って頷いて、そして――。
怖い。それを思い出すだけでたまらなく怖い。思わず身を震わせると、背中に回された姉の手がゆっくりと髪を撫でてくれた。
「ほら、楽になっちゃいなさい」
普段の様子からはとても考えられない柔らかな声でそう促してくる姉に、思わず恨み言を口にしてしまう。
「……やっぱり姉はずるいよ……いつも面倒くさい絡み方ばかりしてくるくせに、こういう時は優しくて」
「当然じゃない。私は姉で、あんたは妹なんだから」
なんて身勝手な主張だろう。でも、とても姉らしいと思えた。いつも傍若無人で、自分勝手で、それなのに、不意に見せるこういうところ。だから、嫌いになれない。
目の前の胸に頭を預ける。いやらしい感じがしないのは肉親だからなのか、それとも女同士だからなのか。
ためらいながらも、話してみようと思った。もしかしたら最初から、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。自分でも意外なほどすんなりと言葉にするができた。
「……和人に彼女が出来たみたいなんだ。祝ってやりたいのに、考えるだけで怖くなって、震えて。おかしいよね。こんなの」
なんで素直に祝ってあげられないんだろう。自分はこんな性格の悪い人間だっただろうか。いつも世話になってばかりいたクセに、おめでとうの一言も言えないなんて。
「……バカな子。そんなの決まってるじゃない。あんたは――」
ぞくりとした。心の中で何かが警鐘を鳴らす。
「――やめてよ!」
姉の腕を振りほどき、言葉を遮って玄関を飛び出した。これ以上聞きたくない。聞いちゃいけない。だって、それを認めてしまったら、きっと堪らえきれなくなる。
……姉は追いかけてこなかった。
大きく息を吐いて顔をあげる。道路には誰も居ない。ズキンと胸が痛むが、逆にほっとしている自分が居た。今アイツに会ってしまったら、どうすればいいかわからなかった。
今にも泣き出しそうな曇り空は、まるでオレの心を映し出す鏡のようだ。傘を持たずに出てきたのは失敗だったかもしれない。天気予報はなんと言っていただろう。
普段の3倍くらいの時間をかけて駅まで歩く。一応まだ遅刻せずに間に合う時間だった。
「おはよー! 待ってたよー……って、あれ? 一人?」
普段より2本も遅い電車を待つホーム。さすがにもう先に行ったとばかり思っていた理恵ちゃんに声をかけられて、ちょっとびっくりした。
「理恵ちゃん、待っててくれたんだ」
「なんか響ちゃんも結城くんも来ないし、どうしようかと思ったよ」
連絡もしてなかったし、そりゃ困るか……。アイツと会わなかったってことは、アイツはいつもより早い電車で行ったのだろう。休みなら連絡を入れてくるはずだし。
とはいっても自分には連絡してこないだろう。意図的に避けられているのは、ほぼ確定的と見ていい。土日で一度も顔を合わせないなんて、今までで無かったことだ。ため息が漏れそうになるのを飲み込んで笑顔を作る。
「ごめん、ちょっと寝坊しちゃって」
「またゲームで夜更かししたんでしょ。それで、結城くんは?」
何気ない調子の問いかけに、咄嗟に応えられず、言葉に詰まる。
「……響ちゃん?」
「えっと、先に行ってもらったんだ。ぎりぎりになりそうだったから」
そんな嘘をついていた。ただ問題を先送りしただけ。きっとすぐ彼女も何かあったことに気がつくだろう。
そもそも誤魔化す必要はあったのだろうか。本当のことを言ってしまっても良かったんじゃないか。自分がなんでこんな行動を取っているのかわからない。
それでも、この場を凌ぐことには成功したようだ。彼女は目をぱちくりとさせると、ポニーテールを揺らしながらこんなことを言った。
「ありゃ……きっと大変だよ?」
しばらくして乗り込んだ電車の中は、まさに戦場だった。電車が揺れる毎に右に左に流される。まるで濁流に流された小さな笹舟にでもなった気分。大変ってのはこのことか。
不可抗力とはわかっていても、胸や尻に何かが触れてくる感覚は不快だった。こまめに体の向きを変えたり、鞄でガードしてみたり、過剰反応だとはわかっているんだけど耐えられない。尻はまだしも胸は無理だ。
今まで、こんなことになってるなんて知らずに生きてきた。アイツがさりげなくガードしてくれてたから。オレはどれだけアイツに守られていたんだろう。たぶんオレが気がついていないだけで無数にある。
どれだけ感謝すれば足りるのだろう。どうすれば恩が返せるのだろう。アイツと話がしたい。……けど、その機会は与えられるのだろうか。
たった4駅、たった12分の旅路だというのに、まさかこんなに疲れるだなんて思わなかった。駅のホームで体をほぐすように小さく伸びをして、理恵ちゃんとともに改札へ向かう。
ねずみ色の空が広がっている。ザーザーという音が、雨脚の強さを伝えてくる。嫌な予感が当たったか。傘を持ってこなかったのは明らかに失敗だった。
エスカレーターを上がり、売店の前を通って改札を抜ける。いつものようにバスターミナル側出口へ向い、そこで立ち止まった。
土砂降りだった。バケツをひっくり返したような雨とはこういうことか。ホワイトノイズのような雨音が耳を打つ。道路の低いところに向かって、まるで川のように水が流れてゆく。道路のちょっとしたくぼみはまるで池のようだ。
色とりどりの傘の花が開き、歩道に溢れる。鞄を傘代わりに走り出す人も居る。傘を持たない人が屋根の下で立ち尽くしているのが見えた。
いつものように、左隣に向けて声をかける。
「和人、傘はいら……」
伸ばした手の先に触れるものはなく、目的を失った手を下げることも出来ず、呆然と立ちすくむ。言いようのない喪失感があった。子供の頃何よりも大切にしていた宝物を失くしてしまったときのような……。
少し遅れてやってきた理恵ちゃんが怪訝そうな顔をしていた。心配はかけたくない。気合を入れ直していつもの自分を装うようにする。
「……理恵ちゃんは傘持ってる?」
「鞄の中に必ず1本入れてるよ。一緒に入る?」
「うん。助かるー」
小さな折りたたみ傘に、肩を寄せ合うようにして入って歩き出す。
……いつもなら。いつも通りならアイツのさす大きな紺色の傘に、軽く文句をつけながら入って、理恵ちゃんに茶化されたりじゃれつかれたりしながら通っていたのだろう。今日はただアイツが居ないだけ。それなのに。
気がつけば姿を探してしまう。理恵ちゃんに話しかけられながらも、どこかずっと上の空な自分が居る。
会話が続かないのを、雨音のせいにして。
濡れた右肩が、少しだけ重たく感じた。
アイツはオレを避け、オレはアイツに話しかけられないまま水曜日になった。
この2日間、アイツはオレではなくあのセンパイの隣に居る。登下校も一緒のようだ。さすがに周りも気がつくらしく、どこか腫れ物に触るかのような態度を取られることが多くなった。
まあ要するに、オレは振られたと思われているってことだ。そんな関係じゃないと何度となく口にしていたが、周りはそうは見ていなかった。それどころかわりとバカップル扱いだったみたいで、この展開は予想されていなかったらしい。
好奇の視線に晒され続けるのは辛い。見られることにはある程度慣れているが、さすがにこれは居心地が悪い。結局はゴシップの類なので、次に興味を引くものが出れば視線もそっちに移るだろう。でもそれがいつになるかはわからない。面倒な話だ。
それでも、大半の人間は遠巻きに見守ることを選択しているからまだいい。
「あの噂って本当なの?」
稀に居るのだ、こういうブッパしてくるヤツが。声の主を確認すると、予想通りヤリチン王子こと田中だった。コイツは空気を読まない。読めないのではなく読まない。そこに地雷原があったらわざと突っ込むタイプだ。
「……知らない」
そっぽを向いてやる。コイツと話すのは疲れる。ただでさえ疲れているのにこれ以上相手をしてられなかった。
「九重さんさ、俺と付き合ってみない?」
さらにブッこんで来やがった。教室がザワつく。休み時間に言うことじゃないだろ。
「……お断りします。チャラチャラしてるの好みじゃないんで」
冗談で返す気力もない。正直に答えてやるとヤツは目を丸くしていた。
「あはは。振られちゃった。ま、振られた者同士仲良くしてよ」
そう言い残して立ち去ってゆく。田中と仲の良い男子が、お前すげえな、なんて声をかけていた。
……これはアレか? コイツなりに元気づけようとしてるのか? よくわからんな。
昨日から少し熱っぽい体を机に倒して休める。ひんやりとした天板が心地よい。月曜日に少し雨に打たれたせいか調子が悪い。正直動くのが億劫なくらい。
突っ伏したままぐったりしていると、不意に誰かに頭を撫でられた。そちらに視線を向けると、困ったように揺れるポニーテールが見えた。
「……響ちゃんは今のままでいいの? 結城くん、取られちゃうよ?」
取られるも何も、もともとアイツとはなんでもないんだし。
不貞腐れたように背中を丸めるオレに、理恵ちゃんは優しく諭すような声で。
「……響ちゃんは、本当はどうしたいの?」
何故だろう。その言葉が耳にこびりついて離れなかった。
筆記試験の時点でもうだめだと思ったのに面接を受けてくる良受験生。