1.『彼女』の日常
「いってきまーす」
母さんに声をかけて玄関をあける。
鬱蒼と生い茂る緑の隙間から溢れ落ちる木漏れ日に目を細める。
オレ、九重 響が今の姿になってからもう4年がたとうとしていた。
小学6年生の後半に、後天性性転化症候群と呼ばれる現代の奇病を発症し、女の子になってしまうなんていうファンタジーみたいな出来事に遭遇。1週間ほど高熱を出して意識不明で入院。気がついたら骨と皮だけみたいな体になっていた。
急激に体を作り変えるものだから、体力……というか身体そのものをかなり消耗するらしい。下手をするとそのまま亡くなる人や、十分に体を作り変えることが出来なくて男とも女ともつかない状態になってしまう人もいるらしい。そういう意味ではオレは幸運だった。
といっても、発育も良く40kgくらいあった体重はまさかの20kgまで激減し、そりゃあもう死ぬような目にあった。
リハビリも辛かったけど、ここで語るようなことじゃないな。割愛しよう。
さっきオレは幸運だったと言ったが、それ以上に幸運だったのは、オレがこんなになっても態度を変えずに接してくれる親友が居たということだ。コイツに何度助けられたかわからない。言葉にはしないけど、感謝しているのだ。言葉にすると調子に乗るから言わないけど。
「響、いくぞー」
「はいはい、鞄入れさせてね」
その親友、結城 和人が自転車にまたがったまま声をかけてきた。
オレは薄っぺらい鞄を雑に前カゴに突っ込むと、後ろの荷台に横向きに座る。本当は安定感を考えるとまたがりたいんだけど、スカートでそんなことをする勇気は無い。
そのまま和人の腰に手を回してしっかり掴むと、ゆっくりと自転車が走り出した。
コイツはそんなにがっしりとした体格をしているわけではない、むしろひょろい部類に入ると思うが、意外に頼れるヤツだったりする。別に女1人乗せるくらいなんてことないってかんじで毎日学校までこうして送ってくれている。
「おはよう響ちゃん、今日も彼氏と一緒かい?」
「あはは、彼氏じゃないですよ」
庭いじりをしている近所のおばさんに茶化されるけどいつものことだ。
実際彼氏でもない、というかそんなもの作ろうと思ったことすらないけど、こうして毎日送ってくれることには感謝しかない。例の病気のせいか、体力が全く無いんでありがたく乗せて貰っている。
まあコイツも毎日美少女の胸が背中に当たる感触を堪能出来ているのだから、これはきっとWIN-WINの関係だろう。オレの胸で嬉しいかはさておき。
さっき自分のことを美少女と言ったが、これは決して誇大表現ではない。例の症候群で女になった人は、基本的にとても綺麗だ。なんでも、外的要因がほぼ絡まない状態で体を作り直すから、遺伝上理想に近い状態になるらしい。よくわかんないけど偉い先生がそう言ってたとか。
自慢ではないけど街を歩けば10人中8人くらいが振り返る美少女っぷりだ。くりっとした大きな黒い瞳に薄いピンクの唇、小さいけど整った鼻筋、大した手入れしていないのに意味わからないくらいツヤツヤした黒髪。別に努力して手に入れたものじゃないってのがチートっぽい。こんなチートより超能力とか魔法とかが使えるようになりたかったてのが正直なとこ。
もちろんメリットばかりではなく、わりと大きなデメリットも存在する。
動物の細胞の、細胞分裂の回数には制限があり、一定数の分裂を行うとそれ以上の分裂は出来なくなると言われている。オレも受け売りだから難しいことはわからないんだけど、簡単に言うとそれが寿命ってわけだ。体を作り変えるのにどれだけの細胞分裂が必要になるかわからないけど、総じて短命な傾向がある。
医者からは、50歳までは生きられないだろうと言われたけど、まだ実感がわかない。今から焦っても仕方ないってのは事実だし、気にしないことにしている。
体の発育は年齢相応か、ちょっと足りないくらいだろうか。平均がよくわからないからクラスメイトとの比較になるけれど気がつけば16歳。出るとこは思ったよりも出てないけど、引っ込むところは引っ込んでる。うん見栄張った。周りと比べても貧相だわ。貧相なんだけど、あれほど嫌がっていたブラも、つけないと痛いもんだから今じゃ必需品だ。
余計なこと考えてたら道の段差で大きく揺れてちょっとビビった。改めてコイツの腰に回した腕に力をこめて、背中に頬を寄せる。なんというか安定するんでちょっと落ち着く。
「もうちょっと気をつけてよ」
「善処はしよう」
しばらくして駅の駐輪場に到着。自転車を降りて、和人が自転車を置いてくるのを待っている間に、風圧で乱れた髪を手早く整える。このへんもだいぶ慣れてきた。身だしなみはマナーだ。まあ、これから乗る満員電車でまた乱れるんだけど。
和人が戻ってきて、オレに鞄を押し付けてきた。そうだった、鞄回収忘れてた。どうも毎日忘れてる気がする。
「ありがと」
お礼を言いつつ鞄を受け取って、並んで駅へ向かう。
オレ達が通っている高校は、電車で4駅の場所にある中高一貫校だ。例の症候群のこともあって中学に上がるとき、さすがに最寄りの公立中学校に通う気は起きなかった。そこそこの進学校で偏差値的にも距離的にも手頃、ある程度過去と距離を置くには最適ということで今の学校を選んだわけだ。まあ、カウンセラーの先生の入れ知恵なんだけど。
小学6年生の後半を入院とリハビリで費やしたオレに、進学校に受かるほどの学力があったのかと言われると、無かったとしか言いようが無い。要するに国の援助でものすごい高い下駄を履かせてもらって合格したってかんじ。
さすがにそのまま落ちこぼれるのは各方面に申し訳が立たないので、ついていくために必死で勉強した。おかげで今では成績上位者に名を連ねるほどだ。高校、大学への進学のためにも成績が良いに越したことは無い。それだけ選択肢が増やせるんだし。
懸念していたような嫌がらせやいじめは、無かったわけじゃないけれど、大変だったのは最初の1年だけだ。人間関係が作れてしまえば、あとは割りと順風満帆に学生生活をエンジョイ出来ているんじゃないかと思う。
あと、制服が可愛いのも重要。女子はブレザータイプの制服なんだけど有名なデザイナーが手掛けたとかで高級感があってお洒落で可愛い。一歩間違えればゲームのコスプレみたいになりそうなデザインなのに落ち着いて見える。いやね、最初は嫌だったんだけど、どうせ着るしかないならダサいより百倍マシなんだ。
「そういや英語の宿題やってねえや」
改札にむき出しのICカードをタッチしたあたりで、和人がしまったなあといった風にぼやく。コイツは結構抜けてることがあって、月に1回くらいこういううっかりをする。
わざわざ口に出すってことは、つまるところ宿題見せろって要求してきてるわけで。こっちとしても宿題を見せてあげるのはやぶさかではないのだけど、ロハでってのはお互いの為にならないと思うんだ。
「おおかわのわらび餅で見せてあげないこともないよ?」
「高えよ! ……学食のシュークリームでどうだ?」
オレもパスケースを改札にタッチして抜ける。
……こういうちょっと狭いところを通り抜ける時、スカートに風を感じてちょっとぞわぞわする。慣れないなあ。
難しい顔をしながらついてくるオレに何か勘違いしたのか、和人が報酬を上げてくる。
「わかった、シュークリーム2つでどうだ?」
「オッケー。ついたら見せるね」
ホームに向かう階段を降りながら商談成立。今日のお昼はデザートつきだ。
薄っぺらい鞄からもわかるとおり、お昼は学食だ。いつもオレとコイツと、数少ない学食派女友達の高橋 理恵と一緒に食べている。
「響ちゃんはっけーん!」
「わぷ!」
ホームに降りた途端後ろから抱きつかれた。
「ええんか、ここがええんか?」
そのまま乳やら尻やらを揉みしだいてくる。おいバカやめろ。こんなことしてくるアホは1人しか心当たりが無い。
「あ、だめ、やめてよ理恵ちゃん! ちょ……あっ……」
「ぐえへへへへ、その表情、堪りませんなあ」
「やめんか」
和人が薄っぺらい鞄を理恵ちゃんの頭に振り下ろす。それオレの鞄なんだけど。抱きつかれた時に落としたのか。
「いったーい! くそう、今日も護衛が居たか!」
「お前みたいなキティが居るからな」
和人から渡された鞄を胸の前で抱きしめてガードを固め、涙目で理恵ちゃんを睨みつける。
「ああー、うるうるしてる響ちゃんかわいい! 持ち帰っていい?」
「……理恵ちゃん、バカなことしてないで学校いこ?」
とっさに和人の背後に隠れつつ、肩のあたりから顔を出して言う。
理恵ちゃんはポニーテールの似合うスポーツ少女で、小学校の頃は兄の影響で剣道をやってたらしい。今はやってない。臭いとか言って……いやわかるけど。スタイルもいいんで抱きつかれるといろいろ当たって、その、ちょっと困ってしまう。主に胸とか胸とか。それ以上にエロい手つきが困るんだけど。まさかセクハラされる側になるとは思ってもみなかった。
とりあえず、その手をワキワキさせるのやめてほしい。
満員電車に揺られて学校の最寄り駅まで4駅、たった12分程度の旅路だけどオレみたいな体力なしの竹ひご女にはなかなか辛い。さりげなく和人がオレと理恵ちゃんをガードしてくれてるからまだマシだけど。
なにげにいろいろと気が利くんだよなコイツ。中学1年の時の嫌がらせを解決したのもコイツだったし。オレが本当に女の子だったら惚れてたかもしれないな。
駅を出て大きく伸びをする。満員電車は肩が凝る。毎日あれに1時間とか揺られているサラリーマンとか、ほんとお疲れ様としか言えない。いつか自分もこの奴隷船に揺られ続けることになるのかと思ったけど、それ以上に結婚して子育てとかやってる可能性のほうが高いんだよな。
結婚とか……誰とすんのってかんじだ。まだまだ恋愛なにそれ美味しいの? って段階だしそんな先のことまで考えてどうするのって話ではあるけれど、ほんと一体どうしたもんだろうか。それに、結婚って男とすんだよな。うむむ……わりと抵抗がある。オレはホモじゃないし。いや、実は理恵ちゃんの影響で最近BLに目覚めた。ホモとBLは違うんだよ。BLはファンタジーなんだよ。
「響ちゃん、なんかすごい難しい顔してるけどどうしたの?」
「……野々村くんと宮里くんはどっちが攻めなんだろう……?」
「……うん、わたしが言うのもなんだけど、クラスメイトで掛け算はやめようね」
和人の右隣、いつもの定位置を陣取って他愛もない話をしながら通学路を歩く。ちょっとコイツが蚊帳の外になっちゃってるから何か話を振ってみようかな。そういえばそろそろ聞いておかなきゃいけない予定があったっけ。
「和人、夏休みなんだけど、今年も別荘来るよね?」
「もちろん。日程決まったら教えてくれー」
さらりと答える和人。まあそうだよね。特に発展性の無い話題だし。と思っていると。
「別荘!?」
なぜかくいついた理恵ちゃんに和人がこたえる。
「ああ、コイツの別荘が海の近くにあってな。毎年そこで海水浴とかさせてもらってるんだ」
「海水浴!? 響ちゃんの水着が見れるの!?」
そこなの理恵ちゃん……?
「おう、それが楽しみで行ってるまであるぜ」
なんでドヤ顔なのさコイツは。まあ実際はオレの水着を見てもすぐ目を逸らして別の方向見てるし、そんなに興味は無いんだろうけど。リップサービスとして受け取っておこう。
「そこの岩風呂も最高でな、天井が全面ガラス張りなんで夜空を眺めながら入れるんだぜ」
「岩風呂!? あの温泉とかでよくある!? なんかすごい非日常感があるんだけど、もしかして響ちゃんってお嬢様……?」
えっ……? そんなことは無いと思うけどなあ。別荘は爺様の持ち物だし。ウチはそこまで裕福では無いと思う。
というか爺様の家が裕福すぎてヤバい。軽井沢と大洗に別荘があるし、家は屋敷だし、女中さんが3人常に居るし。子供の頃はこれが普通だと思ってたけど、今考えるとあきらかに普通じゃない。先祖の墓が指定文化財になってるのも普通じゃない。
話を戻そう。なんか理恵ちゃんからすごい期待してる目で見られちゃってるし、せっかくだから誘ってみようかな。
「理恵ちゃんも来る?」
「行く! もちろん行くよ! うわー水着買わなきゃ! 一緒に買いに行こう!」
「う、うん。いいけど?」
テンション高いな! 一緒に買いに行くってことはオレも買わないといけないのかな。一昨年まで水着は母さんに任せっきりだったし、去年は家族で買いに行ったから、友達と水着買いに行くのは初めてだ。
……下着を一緒に買いに行くよりはハードルは低いだろう。
「和人はどうする? 一緒に来る?」
「さすがに俺が付いていくのはありえないと思うぞ……」
なんとなく誘ってしまったけど、水着を買うってことは試着とかするんだから男子を誘うってのはありえないか。下着よりはマシだろうけど、下着みたいなものだもんな。
……中学に上る前はじめて女物の下着買うとき、心細くて無理言ってついてきてもらったことは大変申し訳なく思っている。でも試着した姿を見て大爆笑したのは絶対に許さない。
それはさて置き、理恵ちゃんの水着姿たぶんめちゃくちゃエロいぞ。理恵ちゃんスタイルいいし。これを見られないなんて可哀想なヤツめ。といってもどうせ現地で見られるんだけど。
しかし、日頃更衣室とかで下着姿は見ているけど、やっぱ水着は別腹って感じがする。去年のプールの授業では、オレとコイツで女子の水着姿批評なんかやってたっけ。結論は、ややむっちりしてる方がエロいってことで落ち着いたが。
……オレ? もう少し肉つけろだとさ。これでも体重20kgのかいわれから、40kgのもやしに進化してんだからな。そこから増えないけど。いや、正しくは頑張って食べれば一応増えるんだけど、腹から肥えるんだよ。解せぬ。
「しょうがない、かわりと言っちゃなんだけど来週末あいてるか?」
「うん。ゲーセン?」
来週末はタッグでの大会があった筈。そういやまだエントリーしてないな。
理恵ちゃんがニヤニヤしながら顔を寄せてくる。
「おや? デートのお誘いかい? 結城君も隅に置けませんなあ」
「たぶん格闘ゲームの大会だけど?」
オレがそう言うと、理恵ちゃんは何言ってるんだこいつという表情でこっちに向き直った。
「え? 格闘ゲーム? え? ウメハラとかそういう人がやってる?」
「その格闘ゲームであってるよ」
超有名2D格闘ゲームの最新作だ。グラフィックは4から3Dになってるけど。ジャンルとしては2D格闘ゲームと言えるだろう。
混乱している様子の理恵ちゃんに、和人がオレのかわりに説明を続ける。
「コイツたぶん地元のゲーセンで一番強いぞ。2桁連勝とか日常茶飯事だし」
「正直結構自信ある」
誇らしげにドヤ顔で胸を張る。
「今回みたいなタッグ大会だと、コイツと組むのが優勝への近道だから。まあ俺以外と組ませたりなんかしないけどな」
おかげでゲーセンの常連にはコイツとカップルだと思われてる節がある。訂正するのも面倒くさいし、フリーだとわかったら粉かけてきそうなのも何人か居るからちょうどいいのかも。
「そういやしばらくゲーセン行ってないみたいだよな」
「んー。生理前でイライラしてたから負けたら当たっちゃいそうだし一週間くらい行ってなかったよ。今日あたり顔出しとく?」
「あーそういや言われてたな。今日そのままエントリー済ませちまおう」
「いやいやいや、待った! ちょっと待った! 響ちゃんゲーマーだったの? なにサラっと生理とか言ってん!」
理恵ちゃんがすごい形相で割り込んできた。なんかキャラブレてない?
「あれ? 言ってなかったっけ? 一度泊りに来てるし、部屋見ればわかると思ってたんだけど」
「なんかぬいぐるみに囲まれて、ごっついレバーみたいのがあるのは気がついてたけど……」
ごっついレバー? リアルアーケードプロのことかな。アケコンの定番中の定番だ。ちなみにケース内に鉛シートを貼って重量増加と静音化の改造済みだったりする。
ぬいぐるみは、ほら、ゲーセンに行くとなんとなくキャッチャーで取っちゃうっていうか。かわいいのを見つけるとつい、ね。
「すっごいカオスを感じたけど、突っ込んだら負けだと思って突っ込まなかったのに!」
「……カオスかなあ?」
ぬいぐるみもRAPもかわいいのに。RAPがかわいいという主張については、今まで誰も同意してくれる人が出ていない。何故だ。デコったりしても面白そうなんだけど。
「あと、生理前はほら、どうしてもイライラしたりするから、事前に伝えておけばお互い気を使えるし」
「いやーさすがにそれはどうなの。響ちゃんは恥ずかしくないの?」
「さすがに赤の他人とかには嫌だよ?」
「……俺としてはもうちょっと気にして欲しいんだけどなあ」
苦笑されても、人間だって生き物なんだから食事もするし排泄もするし、女だったら生理もある。自然の摂理でしかないし、世の中は綺麗なものばかりじゃないよね。それに、こんなくだらないことでコイツとケンカとかしたくないし。
こういうのは隠そうと思うから恥ずかしくなるんじゃないかと思ったけど、じゃあ裸とか見られて平気なのかと言われるとそんなこと無くて首をひねる。
「それでも、全て包み隠さずとはいかないのが難しいところだよね」
「むしろ隠し事があるのかと心配になるレベルだよ……」
理恵ちゃんはそんなことを言うけれど、オレにだって隠し事は1つや2つでは済まないレベルで存在するのだ。