最悪の救世主
非人道的な描写、表現がありますので、そのような話が苦手という方はお戻りください。
そこは黒かった。そして赤かった。床も、壁も、棚も、ベッドも、見渡す限り全てが赤黒いナニカで染め上げられていて、例外といえば床に転がるバラバラの骨と棚に飾られたホルマリン漬けの眼球が入った瓶、そして部屋の主である男くらいのものだ。それらの例外も、染まりきっていない部分があるというだけで、大半は赤のような、黒のような色の液体により染まっている。
大多数の人間が入った瞬間、あるいは開いた扉から溢れる匂いに気分を著しく悪化させるであろう部屋の中で、唯一まともに色彩を保っている家主たる男は、バキバキ、と乾いた鉄製の染料が音を立てるベッドから起き上がった。
そして、〝食事〟を摂ろうと部屋を見回して、食材がない事に舌打ちをして部屋を出た。
「確か燻製肉が地下にあったはずだな」
瓶詰も腸詰も先日食い尽した事を思い出しながら、寝室よりはマシなものの、他人に見られれば通報必至な廊下を抜け、階段を下りて地下に向かう。地下には面倒になって丸ごと燻製にした〝肉〟がそのまま吊るしてあるはずだった。
そこで男が見たのは、食い散らかされた燻製肉だった物と、骨すら貪り噛み砕いている緑色のナマモノ。
口に骨を咥えたまま振り返ってこちらを見たソレに対し、男は少しだけ上を向いて考え、
「今日は朝飯抜きか。ゴブリンとか不味くて食えたもんじゃないしな」
まるで猫でも追い払うように軽く手を振った結果、トマトかあるいはザクロのように四散ゴミから目を背けるように地下を後にした。
散らかった部屋を掃除しなければならないという現実から逃避するかのように家を出た男は、いつも通りに魔物を蹴散らしながら人間のいない町を進み、焼け落ちた門から外へと出ていく。まるで散歩するような様子の男の背後には、真新しい赤の塗料で染め上げられた道が足跡を示すように続いていたが、町の外に出ればさすがに大半の魔物が彼の脅威を知るのか、門前が少し赤黒くなっているばかりで、色彩豊かな緑が男を迎えてくれている。
こうして脅威を覚えても、翌日には忘れて襲い掛かって来るゴミの処理がネックではあるが、男はそれでもこの町からどこかへ拠点を移そうとは考えていなかった。今ではこの町のような場所は珍しくもないし、そうでない場所は大抵が〝食糧の生息地〟であるからだ。
ここから北と東、南東にあった狩場はこの数年の内にこことそう変わらない状態となり、南はそろそろ怪しく、西は周辺地域で最も美味な肉の取れる狩場であるが、同時に最も難度の高い狩場であるため、男にとっては数日かけて遠くまで足を延ばすのとどちらがマシかと考える所だ。
別に森の木の実や山菜、動物を狩って食べるという事も出来なくはないのだが、男にとってそれはどうしても食料が無い状況で選ぶ最後の手段であり、可能であるならば美味い食事をと望むのは生物としては当然の欲求だろう。男のそれがもたらす被害は別として。
そのためにも、男が最も好む食糧の天敵が増え続けている現状は、頭を抱えるほどではないとはいえ、悩みの種と言える。
「だが、そのためにチマチマと害獣駆除するのはかったるいしなぁ」
毎日それなりの数を処理しているのに、まるで減った様子の見えないゴミの様子を思い返し、うんざりした顔で男は呟く。実際、一度町の中を綺麗に〝掃除〟した事もあるが、数日後にはどこからともなく新しいゴミが補充されていた事もあり、地道に駆除というのは男の選択肢から排除されている。
食糧が天敵に対する防衛能力を持ってくれるのが一番手っ取り早く男の手も煩わされない最良ともいえる未来だが、そうなると男の狩りも難易度が跳ね上がって美味い食事にありつけなくなる頻度が増えるのは想像に難くない。強ければ強い程美味いのはこれまでの経験上確かな事だが、狩れなければどれほど美味くとも意味が無いだろう。
だが、天敵に負ける事は無く男には簡単に狩られるような理想というよりも夢想というべき未来が訪れる事など望むべくもなく、天敵の天敵でも現れないかな、などと益体の無い事を考える程度だ。
「あー、いや、ちょっと待てよ。天敵じゃなくてなんかそれっぽいのいたような気がするな」
さすがに何も食べないと腹が減るからと森の奥まで踏み込み、適当に見つけた動物の首をねじ切りながら男は記憶から思い当たるモノが無いかと検索を掛ける。さすがに生で動物の肉を食べる気にはならないからと適当に炙った肉を美味くないという感想と共に噛み砕き飲みこみながらブツブツと呟きながら考える。
その当時は興味もなかったが故になかなか出て来ない知識に苛立ちを覚えるが、それよりも当面の食糧を確保する方が先であるという思考の元、多少減っても天敵にやられなさそうな西を狩場に選び、ハグレでも居れば良いななどと呟く。
そうして歩く事数刻。昼食用に持ってきた動物の足と少しの木のみを齧りつつ歩いていた男は、ふっ、と求めていた知識を思い出してポンと手を打とうとし、手に持った食事が邪魔なのに気付いて放り投げた。
「思い出した。魔王だ魔王。ゴミ共のボスを潰せばこのアホみたいな大増殖は終わるとかいう話だったっけ。んで、その討伐に出された勇者とかいうのが死んだせいでゴミが増え放題になってるんだったか」
改めて手を打ち合わせた男は、いやー、あれは美味かったな、などと過去に食べた最も美味かった肉の味を思い出しながらも、食糧の天敵のボスを潰せば良かったのかと納得しながらうんうんと頷く。ただ、すぐにそのボスであるところの魔王がここから遠く、国を三つも四つも越えていかなければならないほどの距離に居を構えている事も思い出して、若干うんざりしたような顔を見せた。
天敵が増え放題の現状、国境を越える事はさほど難しい事でもないだろうが、それでも途中の食糧調達なんかを考えたら、地道にゴミを処理していくのとさほど変わらないほど面倒な事に思えたからだ。
しかしそれでも、おそらく延々と代わり映えもせずに続くであろうゴミ処理と、一度で済む大元の処理を天秤に掛けて、そこに移動途中で今までとは味の違う食糧を調達できるかもしれないという期待を加えると、食糧の安定的な供給も含めて後者の方が魅力があるように男には思えた。
「ふむ。そうと決まればまずは保存食造りだな」
先ほどまでの気だるげで面倒くさいという思いが溢れる様子から一転、期待に胸を膨らませて機嫌が良くなった男は、森に入る事は止めて堂々と西へ向かう道を歩き始めた。その速度は、ぼんやり歩いていた今までと比べて明らかに早く、昼前にはきっと〝狩場〟に到着するだろう。
そうして到着した狩場がどうなるかは、もはや想像するまでもない。
その日、人類の希望である城塞都市が一つ消え、人類にとって史上最悪の救世主が、歴史に記す事すら憚られるような理由を掲げて立ち上がった。
そこに人類の希望などなく、津波に襲われている所に背後で竜巻まで発生したかのような絶望が、静かに広がっていく事になる。