小野原くんの休日
仕事の無い日は、そのまま、予定の無い日である。
休みの日に行きたい場所も無い。やりたい趣味も無い。会って遊んだり話したりする友達もいない。
部屋にはテレビも無く、本は読まず、ゲームもしない。
かといってアウトドア派でも無い。近所のコンビニですら買うものを買ったら五分以内に出る。人目が苦手なので、家に居るほうが楽なのだ。
そんな彼が休日でやることといえば、久しぶりに掃除機をかけ、たまった洗濯物をコインランドリーに持って行くくらいだ。
その他の時間は、寝ることで潰す。
小野原シオンは十六歳にして、仕事漬けの男だった。
昨日はダンジョンに潜っていたが、思っていたより遅くなり、ぎりぎり終電で帰って来られた。アパートの部屋に辿り着いたのはすでに深夜で、駅から家まで歩いて来るのさえ億劫なほど、疲労は限界だった。
水でぐっしょり濡れたブーツを苦心して脱ぎ、ジャージとTシャツをコンビニのレジ袋に放り込んで、のろのろと布団を敷いたことは憶えている。そのあとの記憶は無い。
しかし――酷い目に遭った。まどろみながら、昨日の仕事をふたたび夢の中で再現してしまうほどに。
小柄で身軽な冒険者限定の依頼だと聞いたときに、受ける前から覚悟はしていた。が、聞いていた以上に酷かった。
天然ダンジョンである鍾乳洞は、奥に行くほど狭く道は水没していた。膝まで水に浸かりながら進んでいるうちは、まだマシだった。
だんだんと天井が狭くなっていき、一時間もすると下と天井の間が三十センチも無い道を、這いつくばって進む羽目になった。
体温は奪われっぱなし、身動きもほとんど取れないまま、もし毒蛇に忍び寄られて噛まれでもしたらここで一人で死ぬんだなと思いつつ、進んだ。依頼者が途中まで同行したのだが、狭い場所にはシオン一人で入った。
依頼者であり同行者だったのは、以前パーティーと別の仕事でやって来ていたという人間の女性冒険者だった。
そのときに携帯していたナイフを、知らない間に落としてしまったという。ただのナイフでなく、死んだ母親からプレゼントされたものだったのだ。
だが、いくら探しても見つからなかった。下に向かって緩やかに水の流れるそのダンジョンの、奥のほうに流れていったのではないかと思い、依頼を出したのだ。
女性が侵入を諦めた通路を、シオンはなんとか奥まで進むことが出来た。依頼の内容を聞いて、事前に少し身体を絞っておいて良かったと、心底思った。
顎の下まで水に浸かりながら、何かの罰を受けている気分で、ナイフが見つかるまでひたすら這い回った。
新人冒険者が見ればどこが冒険だと文句を言いたくなるだろうこんな仕事だが、実はそう珍しくも無い。
ダンジョン内で物を失くす冒険者は多い。しかし何故か、大事なものを持っていく者は絶えない。親の形見、友の形見、連れ合いの形見――。置いて来いと思う。
とんでも無い場所で失くしたことに気づき、慌てて捜索手伝いの依頼を出しても、嫌がって引き受けない者が多いという。それはそうだ。あまり金にならないわりに、辛いし、地味だ。シオンもその体格とワーキャットの身軽さと柔軟性を見込まれ、何度か受けた。というより、依頼者と受付嬢に頼み込まれ、しぶしぶ受けていた。今度もそうだ。
押しに弱い彼は、新宿冒険者センター受付嬢の間で密かに作成された『仕事を頼みやすい冒険者ランキング』の上位3位内に自分がランクインしていることなど、もちろん知るよしもない。
腕が良く、気安く、黙って列に並んだ挙句、残りカスのような仕事しか無くても文句を言わず、それでいて急に回した仕事にもやはり文句を言わず受けてくれる。
そんな冒険者こそが、職員たちに愛される優良冒険者なのである。
薄暗い中、電話が鳴っていることに気づき、シオンはぼんやりと目を醒ました。
まだ夢の中にいるような気分だった。瞼が重い。
携帯電話を探し、腕を動かすが、その腕もいやに重い。
たしか、寝る前に、枕許に放り捨てた気がする。そう思って頭の上に手を伸ばすと、指先にこつんと硬い感触があった。
受話口は遠くても、耳が良いので聴こえる。口だけ受話器に近づけ、なんとか通話ボタンを押す。
「……は……い」
寝起きの所為か、しゃがれた声しか出なかった。
〈あ、小野原さまでいらっしゃいますか? 突然のお電話、失礼いたします。私、新宿冒険者センターの……〉
聴こえる声は、聴き覚えのある受付嬢の声だ。それがどの受付嬢か、顔までは思い出せない。
〈……というわけでして、至急動いていただける方を……〉
「はぁ……」
どうやら何か仕事を頼まれている。
が、これも寝起きの所為か、まったく頭に入って来ない。
そもそも、さっき帰ってきたばかりじゃないか。依頼完了の連絡も入れた。それなのにもう次の仕事を入れようとするなんて、さすがに鬼か、と思う。別に受けなければ良いのだが、断るのも苦なのだ。そのへんもたまには汲んで欲しい。いかにあっちも仕事とはいえ。
大体、あれだけ毎回仕事を探す冒険者が窓口に大量に並んでいるのに、あれは一体何なんだ?
あの並んでいる冒険者たちは、一体どこに行ってしまうのだろう。
……そんなことは、考えるまでもなく分かっている。辞めるか死ぬか、楽な仕事ばかりを求めてけっきょく仕事をしていないかだ。
なんだか可笑しくなって、シオンは笑い声を漏らしていた。
〈え? 小野原さま? どうかされましたか?〉
「いや……べつに……」
と答えたつもりだが、完全に声が掠れていたようで、え? と相手が尋ね返す。
〈小野原さま? 小野原さま、聴こえますか?〉
笑っているシオンに、不安げな声で問いかけてくる。もちろん煩いくらいに聴こえている。
〈え? え? 小野原さま、大丈夫ですか? お取り込み中でしょうか?〉
返事をするのも面倒になってきた。笑うのも飽きた。
背中にぶるっと悪寒が走った。肩がいやに冷たい。
ジャージとTシャツを脱いだあと、下着だけで寝ていたことに、ようやく気づいた。タンクトップから出た肩に触れると、まるで昨日触った鍾乳洞の壁のように冷たかった。
初夏なのに、けっこう冷えるんだな、とシオンはぼんやりする頭で思った。肩以外は火照ったように熱いのに。背中なんて汗ぐっしょりだ。
いまだに何か話している電話越しの女に、シオンは文字通り重い口を開いた。
「……あの、オレ、さっき帰ってきたばかりで……いまは、ちょっと……できれば、後日に……」
という言葉は、実際には掠れてところどころだけ伝わった。
〈あ、でも、小野原さまは、昨日一件、依頼完了の連絡を受けておりますが……〉
「……きのう……?」
呟き、シオンはようやく目を開き、顔を上げる。
暗い部屋の窓の外に、濃い青色の空が広がっている。
これは、日没後の空だ。
こんな空を、あの水没ダンジョンから出たあと、震えながら見上げた覚えがある。
あれは、昨日のことなのか。
つまり、半日以上寝ていたのだ。
寝ているだけで、休日が終わってしまった。
いや、いつものことだが。
だったら、仕事の話を聞くか……何だか妙にだるいけれど……とシオンは気乗りしないまま、電話を手に、起き上がろうとした。
今週の予定では、一日休みを挟んで、出来たらもう一件何か受けようと思っていた。週末には紅子と一緒に簡単な仕事に出かけるので、平日のうちに稼いでおきたい。
――が、起き上がれなかった。
足が動かない。
シオンの意思とはうらはらに、昨日さんざん水に浸かった足は、休みたいと悲鳴を上げていた。
足だけではない。体全体が、軋むように痛い。
そして熱い。
なのに肩だけが、寒風にさらされているように寒い。
掠れた声は、出そうとするたびに、喉の奥にちくりと痛みを伴うことに気づいた。
「……ごほっ」
むず痒い気がして咳きをすると、酷く痛んだ。
〈小野原さま、どうされました? 大丈夫ですか?〉
電話越しの小さな声すら、耳を通り越し頭に響く。
あおむけに天井を眺め、シオンはぼんやり視線を彷徨わせる。
ズキズキと痛む頭で、考えた。
ああ、そうか。これは。
「……あの」
〈あ、小野原さま。聴こえてますか?〉
「ああ……へくしゅっ!」
〈え? へくしゅ? お、お話、いま大丈夫でしょうか?〉
「いや、あの……」
〈あ、はい!〉
「……オレ……風邪……引いたっぽいんで……へくしゅ!」
受付嬢はとても申し訳無さげに何度も謝り、丁重に通話を切った。
最後に、なにやら気になる言葉を残して。
〈保護者さまか、お仲間の方に、ご連絡しておきましょうか?〉
クシャミ連発の合間にどう答えたかすでに忘れたシオンの手から、通話の途絶えた携帯電話がぽとりと落ちた。
布団……せめて布団をかぶらないと……。
手のひらで肩を擦って温めながら、なんとか体を起こす。
六畳の部屋を見回すと、掛け布団だけ何故か押入れの前で力尽きていた。というか、シオンが敷布団を敷いただけで力尽きたのだ。
おかげで、あの掛け布団を取りに、部屋の隅まで行かなければならない。動かない体を無理やり起こし――起こせるだろうか?
全身どころか、脳まで動くことを拒否している。
寒くていい。動きたくない。このまま寝たい。
だけど、再びその愚行を起こせば、次目覚めたときには事態はもっと悪くなっているだろう。
昨晩まだ体が動くうちに、掛け布団を取りに行くべきだった。
いや、反省点は他にある。仕事が終わればどうせ休みだからと、衣服を軽く乾かしただけで帰った。それこそが愚かだった。せめて着替えて寝るべきだった。
あのとき、すでに病魔に蝕まれていたのだろうか……。クソ、そいつが目に見えるならナイフで斬ってやるのに、と朦朧としたまま思うほどには、彼は高い熱を出していた。
やっとの思いで這いずり、部屋の隅でようやく掛け布団を手に入れると、そのままそこで包まって、眠ってしまった。
それにしても、風邪を引くなんて、何年ぶりだろう。
亜人は人間より病気に強いと思われがちだが、それは違う。
人間よりかかる病気の数が少ないというだけで、かかるときはかかる。
幼いころも、風邪を引いたっけ……。たしか小学校のときだ。
あれはウイルス性の酷いやつだった。
猫亜人だけがかかるインフルエンザが全国的に流行し、まんまと感染し、クラスで一人だけ休む羽目になった。
父親が言うには、命の危機にあと一歩くらいまで迫ったという。それから毎年予防接種を受けている。
人間と違い、近くの病院では摂取出来ない。住んでいる地域ごと亜人ごとに、指定日と会場が決められ、そこで一斉に受けに行くのだ。そのときばかりは、医者と看護師以外、周囲はワーキャットだらけになり、シオンもこのうえなく溶け込んでいるはずだが、人間の中で育った所為か、かえって変な気分になる。
子供のときは父親に連れられて行き、泣き喚いたらしい。憶えていないが。同族に対して失礼な話である。
しかし今回のは、ただの体調不良……自己管理を怠った結果だ。多少きつい仕事でもあまり後に響いたことが無かったから、舐めていた。
子供のころなら父親がかいがいしく面倒を看てくれたが、一人暮らしのいまは、具合が悪くなっても自分でなんとかするしかない。
だが、なんとも出来ないので、ただ布団に包まって、畳で寝ていた。
深い眠りと浅い眠りを繰り返し、熱の寝苦しさに悶えて、結局掛け布団を蹴飛ばしていた。
再びうすぼんやりと目が醒めたとき、寝たのだし少し良くなっているかもしれないと淡い期待を持っていたが、医者にも行かず薬も飲まず、ただ畳の上で寝ていただけなので、当然悪化していた。
ダンジョンやモンスターには慣れていても、こんなときに十六歳の少年は無力だ。
何をしたら良くなるのか、全然分からない。
食事はしたくなくてもしたほうがいいのか。思いきって風呂に入って汗を流したほうがいいのか。そもそもこのままずっとただ寝ていれば良いのか。
「……ごほっ、ごほっ」
胸が詰まったような感覚に、弱々しい咳きを吐き出すと、それだけでも喉がひりひり痛む。
食欲は無いが、喉は渇いた。けれど、冷蔵庫まで這っていき、ミネラルウォーターを飲む気力も無い。というか喉は渇いたが、水を飲みたい気分ではない。
病気のときになにワガママなことを考えているんだ、と自分に無茶ぶりな叱咤をしつつ、スポーツドリンクくらい常備しておくべきだったと後悔した。
下に降りて自販機まで買いに……行く途中で、倒れそうだ。この選択肢は選ばないほうが良いとさすがに分かる。
……そういえば、誰かに連絡すると、受付嬢が言っていたな。
オレは、なんて答えたっけ?
自分の性格を鑑みるに、たとえ朦朧としていても意地を張って、いらない、と言ってそうな気がする。もしそうだったら、時間を巻き戻してでも訂正させたい。
保護者に連絡が入るとなると、父親の竜胆か、その友人でシオンが冒険者になったときの身許保証人でもある草間に連絡が入る。
あんまり連絡してほしくはない。理由は単に、恥ずかしいから。
だが、父親にだったらしてくれていても良いと、今は思う。強く思う。このまま死ぬくらいなら。
それから……他にも選択肢があった気がする。
そうだ、それとも仲間に連絡するかと、尋ねられた。
仲間というと……。
シオンは熱に浮かされた頭で、一人の少女の屈託無い笑顔と、なぜか両手に抱えたおにぎりをセットで思い出していた。
そう。仲間というと……浅羽紅子しか居なかった。
いや……それこそ自分の性格を鑑みると、絶対にその選択肢だけは選んでいないはずだ。絶対に。
いくら熱に浮かされていても、絶対頼んでいない。
理由は……もっと恥ずかしいからだ。
「――へくしっ!」
突然ぶるっときた悪寒とともにくしゃみをすると、腫れた喉に追撃とばかりに激痛が走った。
痛みは確実に増している。
それでも、着替える気力も無く、部屋の隅で下着のまま掛け布団に包まって震える姿を、同じ歳の少女にだけは見られたくない。たとえここで死んだとしても、
たとえ仕事しか脳が無くとも、彼は十六歳の男子だった。
シオンがようやく冷蔵庫の前まで這って行き、開けた冷蔵庫の中身の殺風景さに、自分の責任だが愕然とし、せめてゼリー状のドリンクの買い置きが無いか探していたら、キャラメルの買い置きしか無かったことに絶望し、こんなものでも舐めたら気休めになるかな……などと半分笑いながら考えていると、突然、扉を叩く音がした。
――コン、コン。
そう控えめに、誰かが戸を鳴らしている。
父親なら、前に会ったときに合鍵を渡しておいた。
勝手に入って来られるはずだ。
だから、父親では無い。彼なら、「入るよーシオンー」とのんびりした声を上げながら無遠慮に踏み込んでいるだろう。
――コン、コン……。
なら、このおずおずとしたノックの音は?
いつもなら扉の前に誰かが来るまでに、気づいているはずなのに。柔らかい髪から覗く猫の耳も、すっかり故障したかのように、まともに働いてくれない。
それでも扉を叩く音と、誰かがそこに立っている気配は、はっきり分かった。
シオンは手の中からキャラメルの粒をぽろぽろと零し、ぼうっとした目で玄関を見つめた。
「……あさば?」
いま、何時だろう?
時計なんて全然見ていないが、少女が出歩くには間違い無く遅い時間だ。
昔――中学のころなら、互いの家は、自転車で行き来できる程度の距離だったはずだ。彼女の家がどこかは知らないが、同じ中学だったから、たぶん。
だが、いまシオンの住む場所から、彼女の家は遠い。下手したら、もう終電も無い時間ではないか。
トイレにすら這って行くのがやっとだったシオンが、熱で軋む体をよろよろと立ち上がらせる。それだけでも目が回りそうだった。
誰かが頭を掴んで振ってるんじゃないかと思うほど、ふらふらと揺れ動く視界に苦しみながら、なんとか玄関まで辿り着いた。
「……浅羽なのか?」
掠れた声は、扉の向こうまで届かなかっただろう。返事は無い。
オレ、いったい、受付の人になんて言ったんだろう?
仲間に連絡しましょうか、と尋ねられて、それで。
お願いしますとでも、頼んだのだろうか。
オレが、浅羽に?
信じられないけれど、それなら、早く開けてやらないと、女子をこんな遅くに外に立たせておくわけにはいかない。
だが、そうして中に入れて……浅羽はいいんだろうか? 夜中に男の部屋に一人でやって来て。家族にはなんて言って来たのだろう。というか、いくら風邪だからといって、招き入れていいんだろうか?
そう逡巡したが、来てしまったものを、追い返すわけにはいかない。
たった数歩で行けるはずの玄関にようやく辿り着き、シオンは倒れこむようにドアノブを掴むと、昨晩鍵をかけ忘れていたことに今頃気づく。
力無くノブを回し、シオンはそっと扉を開いた。
同時に、真夜中の訪問者に詫びる。
「ごめん、浅羽……。ちょっと、悪いけど……オレ、すぐに着替えてくるから、待ってて……」
「え? なに?」
返ってきたのは野太い声と、目の前に飛び込んできたのは、シャツの胸許から覗くフサフサの体毛だった。
「ん? お前なにやってんだ、パンツ一丁で。風邪引いてんだろ?」
胸毛どころか全身フサフサに包まれた犬亜人の笹岡が、片手にドラッグストアの袋を提げ、立っていたのだ。
「……え。なにこれ……?」
「なにって、見舞いだろ。よっ、ダウンしたんだってな、シオンっち」
シオンの呟きに、笹岡が袋を持っていないほうの手を上げた。
まるでドッグフードのパッケージにでも採用されそうな、満点の人懐こい笑みを浮かべる。
「なんで、イヌがここに……?」
「おいコラ、誰がイヌか。だったらお前はネコだろが。食っちゃうぞ」
と言いながら、笹岡は「ガオー!」と大きな口をあんぐりと開け、全頭のワーウルフがよくやる古典的なギャグをかました。
あ、やばい。喰われる。
これ、イヌじゃなくてオオカミだ。
家かと思ったらダンジョンだったのかと、シオンは咄嗟に腰に手をやっていた。
熱と勘違いに混乱したシオンの頭は、仲良しの少女がそこに立っているかと思ったら、何故か立って喋る犬が居て、しかしそれは犬じゃなかった。
モンスターだ。殺さないと。
「……あれ? ナイフ無い……」
「って、殺すんかい」
パンツを履いた腰を手のひらで探るシオンの脳天に、笹岡が軽くチョップを入れると、立っているだけで精一杯だったシオンは、へなへなとその場に崩れ落ちた。
「ええー! だ、大丈夫かっ?」
これには笹岡が驚いて、首根っこを掴むようにタンクトップの背中を掴んだ。
「オイオイオイオイ! 汗まみれじゃねーか! しかも、むちゃくちゃ熱あるじゃねーか、お前!」
とシオンの額を触るイヌの手のほうが熱い気がしたが。
「病人は中入れ入れ! ていうか、救急車呼べよ、ここまできてたら!」
「……はぁ……」
そんなに酷い熱だったのか……とシオンは朦朧とした頭で思い、ドアを開けたときの言葉を、笹岡が聞き流してくれていることを願いながら、意識を手放した。
次に目覚めたとき、シオンは自宅ではない白い天井を、愕然と眺める羽目になった。
ベッドの上に寝かせられ、入院着を着せられて、点滴を打たれていた。
「……え、このレベル……?」
と思わず呟いていた。
熱が高くなっていくとは思っていたが、ここまで酷かったのかと、シオンは現在の自分の姿に、若干引いていた。
「おっ、起きたかー」
傍らでマンガ雑誌を読んでいた笹岡が、ぱっと顔を上げた。
その手にしているマンガ誌の表紙タイトルの、『実話系四コマまんが・仕事でやらかした笑える失敗談すぺしゃる!』という言葉が、いまのシオンの胸に深く刺さった。
「オレが連れて来てやったんだぜー。感謝しろよ。あ、病院代はとりあえず立て替えとくからな」
「あ……うん……」
相変わらず掠れた声しか出なかったが、なんとなく彼をイヌ扱いした記憶は、おぼろげにある。
「……ありがとう……ごめん……」
「おー。センターにも連絡しといたからな」
「センター……」
そうだ。センターが笹岡に知らせたのだろうか。
というか何故。
横たわったまま、まだちゃんと動かない頭で、シオンはぼうっと考えた。その疑問に答えるように、笹岡が言う。
「いやー、びっくりしたぜ。たまたまセンターに居たら、窓口の奥で女の子がでけー声で『小野原さん大丈夫ですか!』って連呼してっからよぉ。小野原なんて名字あんまいないし、たぶんお前だろーと思ってさぁ。ま、オレが様子見に行ってやるよってことになってさ」
「……ああ」
そういうことだったのか。
そういえば、前に一緒に仕事をした笹岡と、その相棒となったリザードマンの鷲尾は、怪我したシオンを家まで送ってくれたのだ。
「そしたらお前具合悪いのに汗だらけのパンツ一枚で寝てんだもんな。たぶん、あとで医者に怒られるぞ。食生活も悪いんじゃないかって。風邪と栄養失調のダブルパンチ。たしかに、なんかやつれてるしよ」
「それは……仕事前に、絞ったから……」
「そういうことするからだっつの。これだから若いワーキャットは……」
たしかこの人も、まだ大学生で若いはずだが。あとワーキャットは関係あるのだろうか。
とはいえ、笹岡のお陰で助かった。あのままでは、本当に死んでいたかもしれない。
点滴を打って安静にしていたからか、多少楽になっている。
「――ごほっ、ごほっ」
が、当然まだ本調子では無い。ずっと仰向けで寝ていた所為か、急に息苦しさを感じ、咳き込む。
「ん? 喉が苦しいのか?」
たまらずごろんと横を向き、背を丸めると、笹岡がそう言って立ち上がった。
「一回、医者呼んどくか。オレさぁ、ナースコール押すの好きなのよ」
それのどこが楽しいのかは謎だが、ベッドの上に引っ掛けられたナースコールのボタンを、うきうきと押す。
「すみませーん。患者起きましたー」
笹岡の言葉に、はーい、と看護師の声が返ってくる。
その間も、シオンは小さく咳き込んでいた。
「オイオイ、大丈夫か? まあ、仕事明けだろ? いい機会だ。ゆっくりしてろよ。亜人労働者にも休養は必要だぜ?」
と言い、ぽんぽんと背中を撫でる。
言動は軽いが、案外面倒見の良い男だ。背中をさする手つきが、少し父親を思わせた。
その手は力強く、顔を上げたシオンを覗く目は、優しかった。
「まー、ニヒル気取ってても、お前も考えてみりゃガキだもんな。心細いよな。病気んときは、気持ちが弱るからな。オレもちょうどヒマだし、退院までずーっと付き合ってやるよ」
ニヒルを気取った憶えは無いが、そんなふうに思われていたのか。
だが、あまり押し付けがましくない笹岡の気持ちは、少しありがたかった。
「ま、起きたんなら、ちょっと語ろうぜ。少しは楽になったろ?」
シオンが頷くと、笹岡は大きな口の端を、にんまりと上げた。
「――で、アサバちゃんって誰よ?」
「え」
開かれた口の中に、鋭い犬歯と、真っ赤な舌が見えた。
なんかこういう絵本を、昔読んでもらったような……。
「パンツ姿を見られたら困る、お友達のアサバちゃんって、どんな娘よ?」
「……あ、オレ、もう治った……」
点滴を腕につけたまま、無い力を振り絞って布団から出ようとしたシオンの肩を、力強い腕ががっしり押しとどめる。
「どこ行くんだよー、シオンちゃんよぉ」
「ア、アンタの居ないとこに……」
体の下で尻尾だけがバタバタ暴れていたが、その元気を出来たら手足に分けて欲しい。ちょっと暴れただけでまた咳きが出る。そんなシオンを、笹岡が温かい目で見下ろす。
「お前、あと一日は強制入院だってよ。……ま、慌てんなって。ゆっくり話しようぜ。いやー、オレ、他人の恋バナ大好きなんだよなー」
赤ずきんを騙して飲み込もうとするオオカミのごとき笑顔に、シオンはへたりと耳を下げ、引き攣った顔を向けた。
【終わり】