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杜若あやとの襲来――後編

「ん、うー……」


 翌日である。ベッドの上で身じろぎするあいりの姿があった。


 翌朝、ではない。翌日である。時計の短針は、青空に高く昇った太陽と同じく、ほぼ真上を指して制止していた。あいりは枕元のスマホを手にとり、現在時刻を確認する。眠たげな目でたっぷり3秒ほど黙り込んでから、大きなため息をついた。


「やっちまったー……。もうこんな時間かぁ」


 寝坊の原因はわかりやすく夜更かしだ。夜更かしの原因は、これもわかりやすくゲームと晩酌である。昨晩、父と母が帰ってきた後、あいりとあやとは両親の晩酌に付き合った。とは言え、あいりが飲んだのは一杯だけだし、あやとは未成年だから麦茶だ。ただまぁ、なんだかんだで話が弾んで、寝るのがだいぶ遅くなった。


 で、起きるとこんな時間である。普段は寝る前に髪が傷まないようまとめるのだが、どうやら昨晩はそれすらも怠ってしまっていたようで、長めに伸ばした髪はボッサボサである。服も着替えていない。


「んうー……」


 額を押さえながら、のっそりとした足取りで階段を降りる。降りるとちょうどそこが居間になっている。見ると、いきなり新聞を読んでいる父親に出くわした。


 父は、あいりをちらっと見てから、新聞に視線を戻す。


「もう昼だぞ」

「あれ、お父さん……。会社は?」

「今日は休みだ」


 テーブルの上には、ラップをかけられた朝食が並んでいる。エッグスラットやらタルトっぽいのやら、何やら異様に凝ったものが並んでいる。絶妙な凝り具合からするに、作ったのは目の前で新聞を読んでいるこの男だろう。


「とりあえず、シャワー浴びてからご飯食べるわー。そういやアヤトは?」

「ん」


 父親が無言で示したのは、やはりテーブルの上に置かれた紙だった。元気の良い筆跡で、このように書かれている。


 〝荒川運動公園でちゃらばたけさんと遊んでます アヤト〟


「あいつ……いつの間に……」


 茶良畑とそんなに仲良くなっていたのか。


「どこへ行くにしても早めに帰ってこい。夕飯は父さんが作る」


 基本的に、あいりの父は物言いがぶっきらぼうだ。あまりこちらの目を見て話してくれることも多くない。これが怒っているわけではなく、単に感情表現が下手なだけなのだと気づいたのは、だいぶ大きくなってからのことだった。


「母さんも早めに帰るそうだ」

「張り切ってるわね。アヤトが帰ってきたから?」

「………」


 無言は肯定の表明であった。父娘揃って、素直ではないのだ。




 荒川河川敷に設けられた運動公園にあいりがやってくると、案の定そこに茶良畑とあやとがいた。今日は2人は、バスケではなくサッカーを遊んでいて、今度はだいぶ茶良畑が優勢であるように見える。ここまではまぁあやとの書置きの通りだったわけだが、そこにはローズマリーの姿もあって、ちょっと驚いた。


「……あんた、何やってるの?」

「見守っています。さあ、アイリもどうぞ」


 芝生の上にシートを広げ、おにぎりの入ったタッパーと大きな水筒を持参している。完全にピクニックか、そうでなければ息子の部活練習を応援に来たお母さんといった風情だ。あいりはおずおずと靴を脱いで、シートの上にあがった。


「アイリ、ひょっとして急いで来ましたか? 髪がまだ乾ききっていませんよ」

「えっ、嘘」

「嘘です」

「何の意味がある嘘なのよそれは」


 ローズマリーの言う通り、急いで家を出てきた。せっかく父親が作ってくれた朝食なので、それは存分に堪能したが。


「なんでマリーがここにいんのよ」

「チョリッスがアヤトと遊ぶと言うので。私も暇ですから」

「ふーん」

「おにぎり、食べますか?」

「さっき食べてきたからいいや」


 その代わり水筒に入っているお茶をもらうことにする。てっきり麦茶か烏龍茶だと思っていたが、中に入っていたのはアイスティーだった。喉を潤しながら、ボールと戯れる2人の男を眺める。

 たぶん、それなりに高次元なやりとりをしていると思われる茶良畑とあやとのサッカー対決だが、あいりに球技スポーツの知識がまったくと言って良い程ないので、どれだけ高度なことをしているのかまではよくわからない。感想として出てくるのは、よくもまぁ足だけであんなに器用にボールを回せるわね、てなもんだ。それくらい小学生でも言える。


「アヤトにバスケのことをいろいろ聞きたかったのですが、あまり話したがりませんでした」


 そう言って、ローズマリーは何冊かの漫画を手に取る。


「あー、なんかリーグで負けてインハイ行けなかったらしいわよ。あいつ割とメンタル脆い部分あるし」

「なるほど、姉弟ということですね」

「マリーあんた、あたしを怒らせてそんな楽しいの?」


 弟の代わりにバスケの話でもしてやれれば良かったが、重ねていう通りあいりに球技スポーツの知識はない。あやとのポジションがSFであるということだけは知っているものの、あいりにとってSFとは『スモールフォワード』ではなく『ストリートファッション』の略称である。


「それにしても、昨日も思いましたがだいぶ身長差がありますね」

「そうねぇ。前から背は高かったけど、高校入ってから一気に伸びたわね。あたしが160とちょっとだから、だいたい30センチくらい?」


 両親ともに上背はそこまででもない。だが、確か祖父が異様に大柄だった記憶があるので、隔世遺伝だろう。顔つきや人懐っこさは母譲りだが、その辺に父方の血が流れているわけだ。

 ともあれ背が高いのは良いことだ。さすがのあいりも、バスケをやるのに身長があった方が良いことくらいは知っている。世界規模で見れば190センチなんてそんな高いわけでもないらしいのだが、日本の高校生ともなればかなりの武器になるだろう。


「これを読む限り、日本の高校生でも190代は結構いそうですが」

「それ漫画だからよ……」


 サッカーに夢中になっていた茶良畑とあやとが、こちらに気づく。


「おっ、ねーちゃん来てたんだ!」


 無駄にさわやかな、人懐っこい笑顔。あいりは返事代わりに、ひらひらと手を振った。


「ちょっと待っててよ。あと1点とったらオレの勝ちだからさ!」

「言うねぇアヤト。悪ィけど、おれも手ェ抜かねぇからマジ」


 茶良畑も割と闘志に火がついている様子で、あやととの一騎打ちを再開する。


「……なんであんなに仲良くなってんの?」


 あいりは当然の疑問を口にした。


 あんなに親しげに弟と話す茶良畑を見るのはなんとも奇妙な気分である。なんとなく、茶良畑のあのチャラチャラした雰囲気は弟に似ているなとは思っていたが(年齢が1学年上なのは知っていつつも)。ああいうのを、波長が合っているというのだろうか。


「コミュニケーション能力が高いですね、アヤトは」

「まー、そうねぇ」


 ぽつりと漏らしたローズマリーの言葉に、あいりは頷く。まあそれもあるだろう。


「昔はもーちょっと気が弱い奴だったのよ。背もそんなに高くなくてね。泣き虫だしすぐに逃げ出すし、人って変わるものよねぇ」


 バスケットボールに夢中になり始めたのは、小学校の高学年くらいから。中学に入ってから一気に上達していった。

 あやとがバスケに興味を持ったころは、あいりもファッションデザイナーになりたいという夢を持ち始めたころ。あのあたりはまだ、姉弟揃って順風満帆だった。あやとが中学に入るころには、あいりは専修学校に通い始め、めきめきと腕を上げていく弟とは対象的に、才能の壁にぶつかって苦悩し始めた。


 あやとが自信をつけていったのはその頃で、あいりが自信を失っていったのはその頃。


 ただ、不思議と弟に対して強い劣等感を覚えたことはない。理由は自分でも、よくわからない。羨ましいとは思うが眩しいとは思わず、ただ純粋に背中を押して応援できる。それはあいりにとっては貴重な感覚だ。


「(あいつ、今年はインハイ行けなかったのかぁ……)」


 弟も自分のように、才能の壁にぶつかる時期が来ているのだろうか。


 だとしたら、杜若あやとは姉のように、情熱とモラトリアムを持て余した青春を送ることになるのだろうか。あいりが自分の人生を悔いることは決してないが、あやとがそのような状態に陥るのは、なんだかとても、もったいないことのように思えた。




 結局そのあと、あやとを連れていろんなところを回った。


 大学の地下研究所で謎の研究をしている友人を尋ね、オタサーで囲まれている友人を尋ねた。秋葉原に繰り出して、いわくつきの品を扱う怪しげなパーツショップを訪れ、ゲームセンターでVR系のゲームを遊んだ。みんなでガンサバイブ・プラネットを楽しんだが、急遽乱入してきた黒づくめの突撃兵に全滅させられた。

 神保町の少し高そうな喫茶店に入ると、やはりまた知人に遭遇したので、弟を紹介したりもした。知人はあいりとあやとを見比べ、『なるほど』と呟いていたので、それがまたえらくカンに触った。


 あとはまぁ、いろいろだ。


 毎年の正月に顔を合わせるとはいえ、あやとの方が里帰りしてくるなんて久々だ。あいりが連れまわせる場所は結構あった。この5年くらいで人脈は異様に広がったし。渋谷に新規オープンした男性用ファッションブランド“MENS MiZUNO”を尋ねたのち、そろそろ帰らないと夕食を作っているお父さんが哀しむからということで、帰宅することになった。


「あっ、ねーちゃん! 帰る前に1つ! 1つだけ!」


 川口駅を降りたところで、あやとは叫んだ。


「なによ。もう良い時間でしょ?」

「いや、最後にちゃらばたけさんと決着だけつけたい!」

「お、いいねぇ」


 あいりは時計を確認する。


 もうすぐ夜の7時だ。食卓で1人座りながら子供の帰りを待っている凝り性の父を想像すると、いささか忍びない気持ちになる。


「すぐ戻っからさー! な、おねがい!」

「そのお願いはお父さんにするべきだと思うけど……。まー良いわ。先に帰って言っとく」

「やったっ!」


 飛び跳ねて喜ぶあやと。


 決着って言ってもサッカーでしょうに。と、あいりは思う。バスケで負けたならともかく、そこまでこだわらんでも……なんて考える一方、負けず嫌いは杜若家の遺伝だなとも感じる。


「アイリ、決着が長引くようなら私が止めます」

「え、それは悪いわよ。マリーもそろそろ家に帰る時間じゃない?」

「私は1人暮らしですし。チョリッスとアヤトだったら延々と続けかねませんし」

「まあ、それは……」


 と言って、あいりはちらりと茶良畑を見る。


 茶良畑も普段は無駄に聞き分けが良いのだが、あやととはだいぶ波長が合うようで、一緒にいると時間を忘れてじゃれあう傾向にあるようだ。なんというか、『つるんでいる』という表現がしっくりくる関係である。


「じゃあ、すんません杜若さん、弟さん、お借りするんでマジで」

「お借りされまーす!」


 茶良畑とあやとは、肩を組んで駆け出していく。

 身長180センチ越えの2人が仲良く肩を組んで川口駅のロータリーを駆け下りていく様は、異様と言えば異様な光景であった。そんな様子を眺めてローズマリーが呟く。


「男の子ですねぇ」

「ねぇこれ、そーゆー表現でいいの?」

「いいんじゃないでしょうか。チョリッスも大学入ってから、話の合う男の友人があまりいないようでしたし」


 ただチャラチャラしてるだけの男なら、城南大学にも履いて捨てるほどいると思うのだが。茶良畑はそうした連中とも仲がいいが、あまり本格的につるんでいるといった様子はない。

 まぁ、あんな生き生きとした茶良畑を見るのはなかなかないし、あやとも自分といるときはあんな表情を見せないから、良いと言えば、良いのかな、という気にはなる。


「うーむ……」


 あいりは自らの顎をに手をやって目をつむる。


「どうしました?」

「つくづくあいつはあたしに無いものを持っているな、と……」


 不思議と劣等感はまるでないのだが。それでも、例えば、これが、


「これがヒナとか御曹司とかだったら、あたしもめっちゃ悔しがったのかしらねぇ……」

「チョリッスをとられたような気になりましたか」

「え、そういうのは特にないけど……」


 とられるも何も茶良畑はモノではなかろう。


「とりあえずマリー、あたしは家に帰ってるから。帰りが遅いとお父さん泣くし」

「メンタルの弱さは遺伝なんですか」

「認めたくないけどそういう側面はあるわ。マリーも遅くなりすぎるようなら途中で帰っていいからね」




 家に帰ると、テーブルの上にはめっちゃ豪華な料理が並んでいて、食卓についた父親が物憂げな表情で待っていた。厚紙製の三角帽子をかぶっているのが異様に哀愁を誘ってくるが、かろうじて泣いてはいなかった。父親の威厳は保たれたようだ。


「アヤトはちょっと遅れるって。1時間もしないうちに戻ってくるわよ」

「そうか」


 ぶっきらぼうにひと言だけだが、内心かなりの安堵と喜びがあることは想像に難くない。あいりはテーブルの上に並んだ料理を改めて確認した。


 ローストビーフにパエリア。この2つはあやとの好物だ。あとはバランスをとるためのシーザーサラダがあって、異彩を放つのはあいりの好物である銀鱈の粕漬。いずれにしても豪華な取り合わせであることは間違いない。なぜかワインまでおかれている。


「これ全部お父さんが作ったの?」

「そうだ」


 父親がぼそりと言う。


「言ったことはなかったが、父さんは昔シェフを目指して修行していた時期があってな」

「ちょっと待って。その話は破壊力が高そうだから聞きたくない」


 父がその夢をかなえられたかどうかは、この話が初耳な時点で推して知るべしだ。さすがに遺伝したのは熱湯好きと負けず嫌いとメンタルの弱さくらいにとどめておきたいものである。

 だが、もともと寡黙な父親である。話を止めると陰気な沈黙が流れて居づらくなる。何か別の話題を切り出さないと、と思っていた矢先、インターホンが鳴った。


「あやとが帰ってきたか」

「いや、自分の家でピンポンは鳴らさないでしょ」、


 そういって、あいりはリビングに備え付けられた親機をタッチする。薄暗くなった外を、カメラがゆっくりと映し出した。


『あ、あの……』


 そこに立っていた、見覚えのない少女がおずおずと声を出す。


『あの、杜若さんのお宅でしょうか……』

「どちらさま?」

『あ、わたし、その……。あやとくんの、学校の……』


 あいりはそこで、父親と顔を見合わせる。


「あやとの友達か」

「普通の友達ならわざわざ家来ないでしょ。あいつの学校岐阜なのよ」

「だとすると……」


 父は、眼鏡の奥の瞳をキラリと光らせる。


「彼女か」

「彼女ね」


 玄関に立っている少女が、遠慮がちにこくりと頷いた。


「(あんにゃろう。かわいいじゃないの)」


 そして自分には全然似ていない。


「あいり、中に入れてやれ」

「あ、うん。そうね」


 遠路はるばる来てもらったのだから、立ち話もなんだ。


 父親は、頭にかぶっていた三角帽子を外して、いそいそと洗面所に引っ込んでいく。電動シェーバーの音が聞こえてきた。あの親父、息子の彼女に色気づいてどうするつもりだ。


 あいりは玄関の扉を開き、少女を中に招き入れる。学校の制服を着たままの彼女は、小さく会釈をして中に足を踏み入れた。自分があやとの姉だと名乗ると、少しほっとした様子で頷き、それから今度は、笑顔で深々と頭を下げる。

 あやとの彼女は、仙道結花といった。緩やかなパーマのかかった茶髪だが、見た感じ柔らかい印象を与える子だ。マイペースなあやとにはこんな子が似合うのだろうか。あいりは結花を、玄関まで通す。


「あ、あの。あやとくんは……」

「あー、今家にいないのよ。すぐに帰ってくると思うけど……」


 あやとを追って岐阜から埼玉まで来たのだろうか。ガッツのある子だ。


「いらっしゃい」


 ぶっきらぼうな物言いで、食卓についた父が挨拶する。顎には絆創膏が貼られていた。


「息子ももうすぐ帰ってくる。なんだったら、食べていきますか」

「あ、パエリアとローストビーフ。あやとくんの好きな食べ物ですね」


 そこまで把握しているのか。やるな。あいりは思わず舌を巻く。


 しかし、あやとが彼女を。事前に聞いてはいたが。こんないかにも出来た感じの彼女を。ほんの10年前は泣きながらあいりの後ろをついてくるだけだった鼻たれ小僧が。あんにゃろう、やるわね。

 あいりが弟の驚異的な成長に打ち震えていると、結花は申し訳なさそうに声をあげる。


「あの、お姉さん、お父さん。実はあの、お話ししなくちゃいけないことがあるんです」

「ん、なに?」

「実はあの、わたし、あやとくんのバスケ部のマネージャーもやってるんですけど……」


 その直後、仙道結花の口から語られた真実に、あいりと父は空いた口がふさがらない。杜若家のリビングに、しばしの静寂が訪れた。秒針の刻を刻む音だけが、ただ無感動に響いていく。


「……え? それ、マジで……?」


 あいりがかろうじてそう声を発する。

 すると、あいりの真横で父親が腕を組んで頷いていた。


「あやとならあり得る」

「いや、でも、さすがにそんな……」

「あやとならあり得る」

「まあ、それも、そうか……」


 ショックを受けたあいりは足に力が入らなくなり、そのままその場にへたり込んでしまう。


「はあああぁぁぁぁぁ~~~ああああ!!」


 口から重い重い溜息が漏れて、あいりは思わず天を仰いだ。


「忘れてたわ……。いや、忘れてたわけじゃないけど、あいつ、あたしの、弟だったわ」

「そして俺の息子でもある……」

「杜若家の遺伝子が流れてるわけね」


 思いっきり脱力した様子の父娘を、仙道結花が心配そうにのぞき込んできた。


「あのう、だからわたし、あやとくんを連れて帰らないと……」

「ええ、わかるわ。大丈夫。あたしが首に縄ひっかけてでも、連れてくるから……」


 あいりはよろよろと立ち上がり、そのまま玄関につながる廊下の方へと歩いていく。

 後ろの方では、父が静かにテーブルの上の食事を片付け始めている。


「結花さん、せっかくですからパエリア食べていきませんか」

「え、でも。それ、あやとくんの……」

「いいえ」


 きっぱりと言う父の声が、玄関を出たあいりの耳に届いた。


「息子に食わせるパエリアはもうありませんよ」




「へっ、やるな。ちゃらばたけさん……」

「アヤトも結構やるじゃん? 俺にここまで食いついてきたのぉ、宝林以来だわマジで」

「そいつが誰なのか知らねーけど、オレがまとめて抜いてやるぜ!」


 日が暮れた荒川の河川敷で、男同士の戦いが続いていた。1点とったら終わり、という誓約は確かに守られていたが、この1時間ほど、一進一退の攻防が続いている。アマチュアのフットサルにしておくには惜しい、ハイレベルな戦いではあった。


 そんな様子を、野々ローズマリーはブルーシートの上で『男の子ですね』と呟きながら見守っている。なお、同様の発言は5分に一度は繰り返されていた。ボキャブラリーの不足が感じられた。


「見せてやるぜ、オレの本気! ねーちゃんが家で待ってるからな!」


 バスケ部ではなくサッカー部だと言われれば信用してしまう、華麗なボールキープ。機敏に動き回る茶良畑の虚をつき、ついにあやとは彼の真横をすり抜けた。目の前にはゴール。そしてこれを1点叩き込めば、自分は満を持して家に帰れる。自慢の姉に今日の戦果を報告できる。


「あっ」


 すぐ背後で、茶良畑の間が抜けた声がした。

 彼もあんな驚き方をするのか。だがもう遅い。昨日はバスケで勝ち、そしてサッカーでも自分の勝ちだ!


 シュートが決まるかに思えた、その瞬間。


「あああああやあああああとぉぉぉぉぉおおおおッ!!」


 真横から放たれた何者かのドロップキックを、あやとの反射神経は軽やかに回避した。宙を舞う赤い髪。鬼の形相がこちらをにらんでいるのが、やけにスローモーションに映った。そしてその鬼は、あやとの最愛の姉によく似ていた。


 というか姉本人であった。


 素人丸出しのドロップキックは見事にスカり、しかしそのまま地面に落下するかと思われたあいりの身体は、振り向いた茶良畑によってキャッチされる。期せずしてお姫様抱っこの体勢になり、しかしあいりは人差し指をあやとに向けて、叫んだ。


「あやと、あんたね! 昔から根性なしだとは思ってたけど、やっぱりあんた、あたしの弟だわ!」

「えっ、な、なんだよねーちゃん急に……」

「すっとぼけんな! 結花さんに全部聞いたわよ!」


 茶良畑によってそっと地面におろされたあいりは、そのままずんずん歩いて、30センチもの身長差がある弟の胸倉を、掴みあげる。


「あんた、明日からインターハイだって!?」

「マジすか」


 あいりの背後で、茶良畑が素直に驚いている。


「地区予選で負けたって聞いたんすけど」

「嘘よ! 県下の強豪をねじふせて、地区予選の決勝リーグを堂々の1位通過、バスケ部史上初の快挙だって聞いたわ!」

「パねェ」


 それを聞いて青い顔になるのは、あやとである。バレてしまったのも驚きだが、まさか結花から直接コンタクトをとってきたというのも驚きだ。祖母には口裏を合わせるよう頼んでおいたのだが、しかしまさか、こんなにあっさり。


 冷や汗を浮かべる弟に、姉は唾を吐き散らさん勢いで怒鳴りつける。


「なんでこんなところにいんのよ! まぁだいたい想像つくけどね!」

「マジすか、パねェ」

「聞いたわよ。明日あたる相手、去年負けたとこなんだって?」


 関東の覇者、東星大附属。あやと達のチームが、去年のインターハイで初戦にぶつかり、そして大敗を喫した相手だ。期待のルーキーとして入部した杜若あやとの鼻っ柱を正面から叩き折る、最初の出来事であった。


 悔しさをバネに、あやとは猛練習をした。

 あやとだけではない。チームメイト全員が練習に励んだ。


 努力は確かに応えてくれた。もともと強豪校ではあったあやと達のチームは、さらに実力をあげ、県下では並ぶものがなくなる。だが、インターハイが近づくにつれ、あやとの脳裏には去年の敗戦がトラウマのようにぶり返してきた。

 去年までだって、努力を怠ったわけではない。誰よりもうまく、強くなるための練習を重ねてきたつもりだ。だからこそあやと達のチームは、去年もまた、決勝リーグを辛くも1位で通過することができた。


 だが負けた。あんなにあっさりと、完膚なきまでに叩き潰された。


 あんなに練習したのに。あんなに努力してきたのに。


「なるほど、それで逃げてきたんですね」


 ブルーシートをたたみながら、ローズマリーが言う。


「チームメイトに迷惑かかってるとか、まぁそういうこともいろいろ言いたいんだけどね。まぁ説教しに来たわけじゃないからこの際置いとくわ」

「え、じゃ、じゃあねーちゃん何しに来たの?」

「怒りをぶつけに来たのよッ!」


 拳を握り、みぞおちに一発。油断していたあやとには綺麗な一撃が入った。後ろで茶良畑がヒュウと口笛を吹く。

 あやとは『うぐぅ』とうずくまりながら、腕を組んで仁王立ちする姉を見上げる。


「でも、でもねーちゃんだってわかるだろ! オレは努力してきたんだよ! 辛い特訓にも耐えて頑張ってきた! 夏も冬も雨の日も雪の日もだ! 努力を認めてほしいって言ってんじゃないよ! でも、あんなに頑張ったのに、それがもし、通用しなかったらって思うと、怖くなるだろ! ねーちゃんだってわかるだろ、そういうの!」


 努力が報われるとは、必ずしも限らない。


 あやとは去年、それを知った。積み上げてきた頑張りが、無慈悲に打ち砕かれる光景を目の当たりにした。


「わかるわ。あたしの人生そういうのばっかよ」

「だったら逃げたっていいと思うんだよ! 今までの頑張りが、あの血のにじむような日々が裏切るんだって言うなら、それを確認せずに負けた方が、なんかこう、いろいろ守られるし、負けて当然の展開だから納得できる! 理不尽じゃないだけ納得できるし、自分の自信だって守られるだろ!?」

「情けねーこと言うなッ!」


 たまらず弟を蹴り倒すあいり。ぶっ倒れたあやとに身体にまたがるようにして、彼女は再度、その胸倉をつかみあげた。


「そこまで言うなら言ってあげるわ、あやと。努力は人を裏切るって。あんたもあたしも、どれだけ頑張っても、その頑張りはあたし達を平気な顔で裏切るの。世の中はそういう風にできているの」

「なら……」

「でもだからこそ、あたしは、あたしを裏切らない。世界のすべてが見捨てても、あたしはあたしを見捨てない」


 あの日、笑顔でデザイナーになりたいと言った自分に、嘘をつきたくはないからだ。


「あたしだって夢に背中を向けたことは何度だってあるわ。忘れれば楽になれるって思ったことだってあるけど。でも、逃げたことはなかった。っていうか、逃げても逃げても、絶対に逃げきれないわ。一度見た夢からは、絶対にね」

「………」

「ましてやあんたは、才能があるんだからさ……」


 そう。あやとが自分と違うのはそこだ。夢を追うのに十分な、才能がある。


 それでも挫折をすることはあるのだろうが。理不尽な現実に打ちのめされることだってあるのだろうが。それでもインターハイに出られるだけの実力がある。逃げるなんてもったいない話だ。もったいないというか、非常に腹が立つ話だ。許せない。才能があるんだから良いじゃない。1度くらい打ちのめされろっつーの。


「はー、パねェ」

「久々に聞きましたが、やはりシビれますね」


 茶良畑とローズマリーは、後ろでのんきに拍手をしている。


「う、うう……。ねーちゃん……ねーちゃぁーん……!」


 あやとが顔面をぐしゃぐしゃにしながら、あいりに抱き着いてくる。


「はいはい。泣け泣け。どーせ勝っても負けてもまた泣くんでしょーけど。こんくらいじゃ尽きないわよあんたの涙は」

「ぢーん」

「人の服でハナかむなッ!」


 拳で頭を思いっきり殴りつけて、あいりは後ろの2人に振り向く。


「なんか振り回しちゃってごめんね。あたしの弟こんなんよ笑っちゃうでしょ?」

「そうですね。ちゃんちゃらおかしくってヘソから3ポイントシュートが飛び出します」

「あんた言うようになったわね……」

「でも立派にお姉さんしているアイリを見ると、なんだかこう、ココロが温かくなりますね?」

「あんたのココロとやらをあっためるなんてあたしも大した女になったわね」


 あいりの父と、仙道結花が土手を歩いてこちらまでやってきたのは、ちょうどそのあとだった。


「あ、あやとくん」

「う、ぐすっ……。結花ぁ……」

「あいり、お疲れ。服汚れてるぞ」

「あ、お父さんすか。ちす。おれ、杜若さんの大学の友達っす」

「同じくです。アイリにはよくしてもらっています」

「なんだこれ忙しいわね」


 ぐすぐすと泣いているあやとは、そのまま結花に抱き着いてぽんぽんと背中を叩いてもらっている。彼女というのは本当のようだ。さっきまで自分に抱き着いていたくせに。いっちょまえに恋人なんか作りやがって。いざこうしてみると弟がとられたようでちょっとだけ悔しい。


 そうだ、と、あいりは結花に尋ねる。


「あの、ごめんね。まーあたしが謝ることじゃないかもしんないけどさ。他のチームメイト、怒ってない?」

「大丈夫です。全員きちんと立ち直らせたし、あやとくんで最後です」

「は?」


 思わず尋ね返すあいり。


「間違いじゃなければうちの弟みたいなのが他にもたくさんいるように聞こえたんだけど」

「いやー、うちのバスケ部、みんな強いけどメンタルが弱いんですよぉ。あやとくんは筋金入りですけど。お姉さんが叱ってくれたみたいで助かりました」

「こんなのが最低でもあと4、5人いるんか……」


 それはさぞかしマネージャーの気苦労も絶えないだろうな、とあいりは思う。


「それじゃあ、わたし達、帰りますね」


 ぐすぐすといまだに泣きじゃくるあやとの手を取って、結花が言った。


「このまま岐阜に?」

「いえ、インターハイは広島なので、そちらまで。東京まで出てから新幹線でなんとか間に合いそうです」

「お、おお……。がんばってね」

「大丈夫。今年のあやとくん達は負けません」


 拳をぐっと握り、仙道結花は勝利を約束してくれた。


 そうして仙道結花と杜若あやとは、荒川の土手を降りて川口駅の方へと向かって行く。背中を見送りながら、茶良畑が感心したように言った。


「いやァ……。良い子っすねあれマジで」

「アヤトのことをどーかお願いします」


 あいりは両手を合わせてその背を拝む。


 ひとまずこうして嵐は去り、荒川の土手には4人が残された。あいりとその父、茶良畑、そしてローズマリーだ。


「2人とも、よければうちでご飯でも食べていきませんか」


 咳ばらいをして、父は2人に尋ねる。


「え、いいんすか?」

「あやとが食べると思って多めに作ったのが、余ってしまって」

「あ、じゃあゴチになりてっす。あざっす」

「では私も、ご迷惑でなければ」


 ローズマリーがちらりとあいりを見たので、あいりも手をぱたぱたと振る。


「迷惑じゃないわよ。ぜーんぜん。むしろ弟が迷惑かけたし。お詫びも兼ねてね」

「杜若さんの親父さんってメシ作ってくれんすね。パねェ」

「あー、うん。ま、まぁね……」


 実は。


 父親の料理はあいりとしても大好きではあるものの、単純に味で勝負をするなら茶良畑より数段は落ちるなと、常々思っていた。だがそれを口にすればきっと父親は泣き出してしまうだろうから、あいりはそっと、事実を胸の奥にしまっておくことにした。




 それから数日後。


 仙道結花の宣言が間違いではなかったことが証明された。試合に出場したあやと達は、最初こそ泣きじゃくりながらプレイをしていたものの、徐々に本領を発揮しはじめ、彼らはやすやすと高校バスケットボール界の頂点に君臨することとなった。


 その後、優勝旗を手にあやとが笑顔で帰省をしてきたわけだが、あいりはそれが無性に悔しくて、再びドロップキックをお見舞いした。


 今度はうまく当たった。

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[一言] 面白いです、良い物語をありがとうございます。
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