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杜若あやとの襲来――前編

 杜若あいり、20歳。

 城南大学経済学部に通う女子大生である。将来の夢は、アパレルデザイナーだ。


 先に断っておくと、この話は彼女がモラトリアムの檻に閉じ込められてじたばたするような話ではない。あいりも年がら年中四六時中、自身の才能の無さに鬱屈としているわけでもなければ、他人を羨んでいるわけでも、満たされない承認欲求に苦しめられているわけでもない。不健全な満足感に浸って停滞を是としているわけでもないのだ。

 まぁその、物語は常にドラマチックだから、そうした一面を抜き取られやすいというだけの話であって。杜若あいりは、原則としておしゃれで面倒見が良く、物事には白黒つけるきっぱりとした気風が持ち味の、爽やかな女の子である。


 今回の話は、そういう話だ。




      ◇      ◆      ◇




 映画館から出てくる面子の表情はそれぞれだ。爽やかな後味を満喫して笑みを浮かべるもの、感動のあまり涙で顔をぐちゃぐちゃにしているもの、真面目な顔をして内容や背景についての考察を重ねるもの。このとき、あいりを含めた一団は、ひとまずそのすべてを内包していた。


「いっやー、気分の良い映画だったわねー! 面白かった!」


 8月の残暑にもろ手を振って天を仰ぐのが、杜若あいりだ。


「うっ、うっ……ぐすっ……。ほ、ほんとうだな……。良い話だった……」


 言葉を発するのも精一杯という様子であえいでいる背の高い子が、薄荷ラム。


「なんか、あれっすね。割と今までの新海作品とは切り口が違ったっつうかぁ……」

「ええ、かなり一般向けになっていましたね。登場人物が恋に落ちるメソッドが説明不足なのは、今まで通りですが」

「恋なんてそんなもんじゃないっすか?」


 顎に手をやりながら難しい顔をしているのが、茶良畑著葎須と野々ローズマリーである。


 大学生の夏休みというのは9月いっぱいまであるもので、今のところ彼らは楽しい時間を継続中だ。いま話題のアニメ映画がとても面白くてとても泣けるというので、あいりは友人たちを連れ立って見にきた。あいりはアニメ映画と言えばディズニーかスタジオジブリでしか区別の出来ない人間で、今回もてっきりジブリだと思っていたのだが、どうやら違うらしい。どっちにしても十分面白いので気分は上々だ。

 泣けるかどうかという評価であるが、ラムの反応を見ればそれも明らかであろう。実際、終わった後でこそすっきりしているものの、あいりだって何度か泣いた。鬼の目にも涙である。


 映画館の入っていたアリオを出て、線路沿いに川口駅へと向かう。途中、京浜東北線の青い車体が何度か横を通り過ぎていく。


「最近、京浜東北線見るたびにテンション上がるのよね」

「あれはインパクトがあったからなー……」


 先日見た映画のワンシーンの話である。件のシーンでは、あいりも思わずジュースに入った紙コップを握り潰し、お気に入りのチュニックを台無しにした。


 今年は、あいりもおおよそ大学生として非の打ちどころのない夏休みを満喫している。

 映画を見て、夏祭りに行って、電気ネズミを捕まえる為に新宿御苑にも行き、プールにも行った。ラムに誘われてサバゲーも経験し、荒川で水鉄砲遊びをしたあと花火をやり、馴染みのMMOでは期間限定イベントにも乗り込んだ。その間、デザイナーとしての修業をサボっていたわけでもなく、来月は東京ガールズコレクションだって見に行くつもりだ。


「さすがに今年の夏は遊びすぎたかなー。もうおカネがあんまないのよねー」

「金欠はすべての大学生の普遍的な問題だからな。後ろの2人には関係なさそうだが」


 ラムが言う後ろの2人というのは、先の映画について激論を交わすローズマリーと茶良畑のことだ。ローズマリーはゆるキャラの版権でつつましやかな収入を得ているし、茶良畑は精力的に実入りの良いバイトを続けているから、どちらもカネに困っている様子はない。


 友人にカネの無心をするほど落ちぶれてもなし。残りの夏休みは、清貧を旨として生きていこう。そう思うと、このあとカフェでお茶をしようという気も憚られてくる。とは言え川口駅で解散というのも、あまりにも寂しい。どっかでのんびりだらだらできないかしら。


「これからどうします?」


 などと考えているうちに、川口駅についてしまった。ついて真っ先に、ローズマリーが口を開く。


「その辺でちゃーでもしねぇっすか?」


 茶良畑が背中を丸めながら、親指で繁華街の方を指した。


「そうしたいんだけど、懐が心もとなくてねー……」

「したってたかだか800円くらいじゃないっすか?」

「800円は大金なの! 秋物もひと揃えしちゃったし! だいたい学食で3回は食べれる値段じゃない!」

「言ってくれりゃベントー作りますよ、おれ」

「いや、良いわよ……。明日から学食も止めなきゃだし……」


 夏休み中も、城南大学の学食はちゃんと営業している。大幅な短縮営業ではあるが。あいりの家は両親が共働きで日中は家をあけているから、ついつい昼を学食で済ませてしまう。なんてことは、割とよくある。これからは、家に備蓄されたレトルトやインスタントラーメンを消費する毎日が始まることだろう。


「じゃー、ここで解散っすか?」

「それも勿体ないのよねー。みんなこのあと予定ないでしょ? だらだらどっかでお喋りしたい」


 ぐるっと見回すと、実に頼もしいことに、3人のお友達は間髪入れずに首肯する。


「まぁ、だべるなら大学っすかね。杜若さん、缶ジュース買うカネあります?」

「あ、あるわよ……それくらい……」

「言ってくれりゃ奢りますよ、おれ」

「あるわよっつってんでしょーが!」


 実を言うと、節約すると決めた矢先に財布を開くのは、例え100円であっても決意が揺らぐのでしたくはない。だがそれを言うと、茶良畑は本気でジュース代を奢ってきそうなので、あいりは意地を張った。こと、金銭のやり取りにおいては潔癖でありたいというのが杜若あいりの信条だ。理由は長くなるので省く。


「じゃー、このまま大学まで行きましょーか。特に目的はないけど」

「時間を無駄に消費する大学生という感じで、実に良い過ごし方ですね」

「まーねぇ……」


 目を瞑って呟くローズマリーに、あいりはのんびりとした肯定を返した。


 自堕落な過ごし方なのは認める。だがやることはきちんとやってるあいりとしては、そこまで焦燥や罪悪感の類を感じない。まー、相変わらず才能の方は芽が出ない日々だが、そこは今に始まったことではなく、焦ってなんとかなるものでもない。

 遊ぶときは遊ぶ。楽しむときは楽しむ。悩むときは悩む。それが健全な過ごし方というものだ。


 大学は赤羽にある。京浜東北線で一駅。定期があるので運賃を惜しむ必要もない。そのまま川口駅の構内へと吸い込まれていく途中、あいりの耳に聞き覚えのある声が届いた。


「見つけた!」

「へ?」


 人混みの中から飛び出してきた何かが、あいりにとびかかる。何かも何も、人混みの中から出てきたのだから人間だ。身体を突き飛ばすほどの質量がぶつかって、しかしあいりが吹き飛ばなかったのは、長い腕が背中に回されていたからで。

 飛び出してきたのは少年で、少年はあいりにいきなり抱き着いてきたのだ。


 少年は背が高く、人懐っこい笑みを浮かべている。抱きすくめられたあいりは、そのすらりと伸びた腕や、胸板に、しっかり筋肉がついているのを理解できる。客観的に見れば、男性としてかなり魅力的に映るだろうことは間違いない。

 しかし幾らイケメンであろうと、これは立派なセクハラ事案だ。あいりはかつて通学途中痴漢に遭遇し、その犯人の手をバシッと掴んで鉄道警察に引き渡した結果、これが見事な人違いで全身全霊の土下座をキメたという武勇伝を持つ。そんなあいりが行きずりの少年にいきなり抱きしめられたのだから、相応の反撃もあって然るべきだったが、この時ばかりはあいりは何もしなかった。


「ちょ、ちょっとアヤト……!」

「うわー。うわー。久しぶりだなー。正月以来? 背ぇ伸びた?」

「言うほど久しぶりでもないわよ。伸びるわけないでしょ」


 突然の暴挙に出た少年とそんな言葉を交わしつつ、しかしあいりはすぐにこちらへ向けられる3つの視線にハッとする。


「ちょっとアヤト放して。友達が見てるんだけど」

「えー、別に良いじゃん。久しぶりなんだし、こうやってさぁ……」

「だから言うほど久しぶりでもないって……」


 いきなり背の高い少年に抱き着かれ、しかしそれを拒絶する様子もなく、平然と言葉を交わすあいりを、友人たちはそれぞれの異なる反応をもって眺めていた。

 ラムは目を白黒させ、ローズマリーはさして動じた風もなく。だが茶良畑だけはあからさまに少年を威嚇するような、敵意に満ちた視線を向けている。面倒くさくなる前に、さっさと事情を説明しなければならないような気がした。


「なんだァ、てめェ……」

「ひっ」


 悲鳴を飲み込んだのはあいりの方である。

 額に青筋を浮かべ思いっきりメンチを切る茶良畑は、もはや全然チャラくない。どちらかと言えば、コワ畑くんとかオニ畑くんとか呼ぶべき存在である。敵意は明らかに少年に向けられているが、その少年の腕の中にあいりもいるわけで、結果的に二次被害を受けている。


 少年は茶良畑の方を見、目をぱちくりさせたあと、両手をばっと開いてあいりを解放する。


 茶良畑は180センチ近い長身の持ち主だが、少年の方はそれよりも幾らか高い。いざ睨み合うと迫力が違う。少年は正面からめいいっぱいの悪意を向けられたところで、さして物怖じする様子もなく、平然と自己紹介をした。


「あ、オレ、あやとっす。杜若あやと」

「ほォ……。それでてめェは……あん? ……かきつばた?」


 途中ではたと気づいたように、茶良畑は言葉を止める。そして、聞きなれた、そして決してありふれているわけではない苗字に首を傾げ、同じ苗字をした顔なじみにそのまま視線を移す。伺うような目を向けられた彼女は、小さく肩をすくめて、それを肯定の代わりにした。


「どうも、ねーちゃんがお世話になってます!」


 そして決定的なひとことを、少年は口にする。礼儀正しい、というには、いささか元気の有り余る態度での一礼。これで茶良畑は完全に毒気を抜かれた。


「あー、うん。驚かせてごめんね?」


 それでも説明は必要だろうと、あいりも言葉を挟む。茶良畑の手をとってぶんぶんと握手する杜若あやとを指して、自分と彼の関係を、きっちり口に出して解説した。


「この子、あたしの弟なのよ」




「アイリ、弟がいたんですね」


 キャンパスの片隅、小さなバスケットコート脇にあるベンチで、ローズマリーはあいりに向けてそう言った。


「いたのよ。まー、あいついま、岐阜のおばあちゃん家に住んでるんだけど」


 杜若あいりの弟、杜若あやとは、今バスケットコートで茶良畑と1on1の勝負に興じている。茶良畑の運動神経と、あらゆるスポーツに精通するセンスの良さは確かなものだが、それを前にしたところで、あやとの動きは軽やかだ。

 人懐っこい笑み、誰とでも仲良くなれる素直な性格、すらりとした手足、そして抜群の運動神経。これが、あやとが持って生まれたすべてだ。ラムなんかは先ほどから、感心した様子でじっとあやとを見つめている。


「良いなぁ、カキツバタは。私は、一人っ子だからな」

「私は一応兄弟いますよ。私を含めて10人兄弟です」

「えッ!」


 ローズマリーの突拍子のない告白に硬直するラム。あいりとしては、その10人兄弟のカラクリを知っているので特に驚くこともない。茶良畑との勝負にはしゃぐあやとを眺め、あいりはぼんやりとした表情で、缶ジュースを口に運んだ。


「カキツバタ、嫌だったら答えなくていいんだが」

「なーに?」

「どうして、弟くんはその、実家暮らしじゃないんだ?」


 おずおずと尋ねるラムは、言外にデリケートな事情があることを察している風であった。が、あいりは苦笑いを浮かべて手をパタパタと振る。

 デリケートな事情なんて、ない。例えば親が一度離婚しているだとか、あやと自身が大きな問題を起こして地元にいられなくなっただとか、そういった事情は、いっさい、ない。彼が地元埼玉を離れ、はるばる岐阜の祖母の家にいる理由は、実に簡単だ。


「あいつ、バスケが趣味なのよね」


 茶良畑のセーブをひらりとかわし、あやとはゴールに向けて一直線に走り出していく。ドリブルで弾む球。まさに手慣れた動きでそれを掴むと、彼の長身は軽やかに宙に浮いた。

 ばすん! という気持ちの良い音と共に、ゴールリングが揺れる。ネットの間をすっぽりと潜り抜け、ボールは地面をバウンドする。おお、と、思わずラムは拍手をし、少し遅れてあいりとローズマリーも手を叩いた。あやとはこちらに向けて、満面の笑みでピースサインをする。茶良畑は特別悔しがるでもなく、しかし確かに驚いた様子で、あやとの肩を叩き賞賛していた。


「で、めっちゃ上手いのよ。バスケが」


 見ての通りのことを、あいりはきちんと説明する。


「だからまー、中学の頃からね。バスケの強い学校に行きたがってたの。で、ちょうど岐阜のおばあちゃん家から通える距離に、良い学校があるっていうから。それでねー」


 才能に恵まれた杜若あやとは、そうして中学半ばで岐阜へと渡った。せめて中学時代くらいはこちらで過ごせと両親は言ったが、はやる心を押さえきれなかったのだろう。結果的に、それは良い方向に働いたはずだ。中学レベルでもバスケット強豪校のひしめく土地柄だったらしく、あやとはそこでメキメキと実力をつけていった。


 で、今となっては立派な強豪校のレギュラーである。


 夢に向けて努力し、ひた走り、そしてそれが真っ当に報われている好例であると言えた。


「………」

「………」


 少しばかり誇らしげな気持ちで弟の紹介をしていたあいりだが、そこでふと、自分に向けられた奇妙な視線に気づく。ローズマリーとラムから向けられるそれは、なんというか、どことなくあいりを心配するような、気遣うような、あるいは憐れむような、そんな感情を想起させた。


「だ、大丈夫か? カキツバタ……」

「えっ、なにが?」

「だってそんな……そんな立派な弟の話をして……辛くならないか?」

「は!?」


 一瞬何を言われているのかわからないあいりに、ローズマリーが追撃をかける。


「アイリ。私たちはアイリがきちんと努力していることを知っています。その事実は誰にだって侵害できるものではありません。アヤトはアヤト、アイリはアイリです」

「そうだ。カキツバタはカキツバタのペースで頑張れば良い」

「ちょっと待って!? 知ってるわよそんなこと! なに!? あんた達、あたしがアヤトに劣等感を抱いてるとか、そーゆー想像してんの!? しねーわよそんなこと! 実の弟よ!?」

「だって夢に向かって真っすぐに努力して、それを叶える才能もある奴なんて、カキツバタの天敵みたいなものじゃないか」

「うるせー! 確かにそうだけど! 弟の幸せを素直に祝福するくらいの度量はあるっつーの! そんなみみっちくてセコい女じゃないわよあたしは!」


 杜若あやとのことを誇りに思いこそすれ、それに鬱屈した感情を抱くことなどない。あり得ない。今ではずいぶんデカくなったが、あれでたった一人の可愛い弟なのだ。小さい頃は泣き虫で弱虫で自分にべったりだったあのあやとが、『ねーちゃん、オレ、バスケやりたい』と言いだし、そしてその才能を見事に開花させた時、あいりは我が事のように喜んだ。泣いた。赤飯を炊いた。砂糖の配分を間違えたせいでドチャクソ不味かった。


 そんなあやとである。普段はおくびにも出さないが、あいりの誇りだ。


 だからこそ、笑顔でこちらに手を振るあやとに、笑顔で手を振り返すこともできる。


「なるほど」


 ローズマリーの声は感情を感じさせない。だから、それが安堵の意味を示すものなのか、ちょっとだけ判断に迷った。


「アイリは大好きなんですね。アヤトのことが」

「いや、そういう聞き方はちょっと恥ずかしいわね……」


 だがまぁ、嫌いではないだろうな、と、あいりは思っていた。




 その夜、あやとはあいりの家に泊まった。家族なので当たり前である。


「お父さんとお母さん、今日は遅くなるって。冷蔵庫にあるもんでテキトーに食べちゃっててってさ」


 あやとが何の前触れもなくいきなり帰省してきたことを告げると、そのようなメールが帰ってきた。せっかくの機会に家族4人が揃わないのは寂しいが、これは帰ると言って帰ってこなかったあやとが悪い。

 あいりは、とりあえず米を炊いて、冷蔵庫の中にある魚をてきとうに焼いて、あとは漬物やらインスタントの味噌汁やらを出して誤魔化すことにした。あやとは祖母の家に下宿しているわけで、毎日ばーちゃんの手作りを食っているのだろうから、これくらいでは物足りないかもしれないが。


「あんた、なんでいきなり帰ってきたの?」

「ねーちゃんの」

「顔を見たかったからってのは、ナシね」


 食卓について、弟のラブコールを片手ではじき返す。


 あやとは若干鼻白んで、味噌汁をすすった。


「まあ、いーじゃん。特に理由なんかないよ。ここ、オレの家だよ? 帰ってくるのに理由いる?」

「まー、いらないけどさ。連絡くらい寄越してくれないと、びっくりするじゃない」


 杜若家のさして広くもない居間。ここ最近は、2人以上で食事を摂る機会というのもそう多くはなかった。あいりは不思議な気持ちになりつつ、壁にかけられたカレンダーをちらりと見る。8月も、残りわずかだ。もうすぐ夏が終わろうとしている。


「アヤトさー、学校始まる前に、ちゃんと戻んなさいよね」

「うんうん。わかってるって」


 姉弟の何気ない会話とは、こんな具合だ。


「ていうか、あんたまた背が伸びた?」

「うん。いま、ひゃくきゅうじゅう……いくつだったかな。忘れた」


 御曹司が188くらいだったから、たぶんそれより高いわね。とあいりは思う。そして心の中に芽生えかけた謎の優越感を、ひっつかんでゴミ箱に捨てた。アレに身長で勝っているのは、あいりの弟であってあいりではないのだ。


「………」


 案外、会話は続かない。


「……それであんた、最近、学校はどうなの」


 出てきた言葉は、息子とのコミュニケーションに悩む母親のようであった。


「どうしたのねーちゃん。息子とのコミュニケーションに悩む母親みたいだけど」

「話のネタが続かないから、こっちから話題を振ってやってんじゃないのよ! どうなの! 学校は!」

「えー、普通だよ普通。勉強も困ってないし、部活も順調。大会のレギュラーにも選ばれたしね」

「そりゃまー、あんたの実力ならそうでしょーよ」


 あいりは、自分の弟に才能があることを露とも疑ってはいない。

 自分と同じ遺伝子で出来ていることがどうにも信じられない時期もあったが、最近はそこまで不思議にも思わなくなった。才能と言う点で言えばあいりにもある。才能と自分の夢に齟齬があるだけの話であって。


 だが、あやとは苦笑いを浮かべてこう返した。


「まぁ、負けちゃったけどね」

「え、あ、そうなの?」

「うん。リーグ敗退。インターハイには行けなかったよ」

「あらまぁ……」


 そう言えば、今年はまだ夏の大会の結果について、連絡が来ないなと思っていたのだ。調べようと思えば調べられたし、どこかでテレビ中継をやっていたのかもしれないが、去年はあまりにもあっさり全国へ出場していたものだから、今年もてっきりそうなるだろうと思っていた。

 去年は去年で、インターハイ初戦敗退という悔しい結果に終わっている。号泣するあやとを家族3人で慰める為、岐阜に行ったことを思い出す。


 今年は去年ほど打ちのめされていないな、とあいりは思った。

 あるいは、既に泣くだけ泣いた、そのあとなのかもしれない。


「まぁー……。そんな結果なら言いにくいわよねー」

「ごめんね。期待させてたら」

「別に良いじゃない。あんたは来年もあるんだし」

「ねーちゃんは後がないの?」

「なんでそうなるのよ」


 まだ、まだ幾らか余裕はあるはずだ。まだ。諦めない限り負けはないはず。たぶん。


 それからまた少し沈黙がある。『ごちそうさま』が済んだあと、空の食器を下膳する最中、後ろからいきなり、あやとがこんなことを尋ねる。


「ねーちゃん、彼氏できた?」

「できてないわよー」


 手をぱたぱた振りながら、あいりは答えた。ここ数年の間に、すっかり色恋沙汰には疎くなってしまった。当然、恋人なんてものができる気配もない。作る努力を怠っているだけとも言えるが、まだ欲しくなる気配もない。

 そういうあんたはどうなのよ、と返そうとした矢先、あやとが先手を打ってきた。


「そーなんだ。オレは彼女できたよ」

「えっ、うそ。マジでっ」


 どんなことを言われても平然と返すつもりではいたが、さすがにこれはちょっと驚く。あいりは洗い物を放りだして、テーブルでスマホをいじっていた弟に、勢いよく詰め寄る。


「どんな子? ねぇねぇ、どんな子? どんな子?」


 自分の恋愛はどうでも良いのに、弟のこととなると急にテンションがあがる。


「ねーちゃんによく似てる子」


 急にテンションが下がる。


「それ……言われてどう対応すりゃいいのかわかんないんだけど……」

「写真もあるよ。見る?」

「見ねえ」


 あいりも弟のことは好きだが向こうから想像以上の愛をぶつけられるとちょっとヒく。


「それでー? さっきも聞いた気がするけど、あんたいつまでこっちいんの」

「あ、今の、露骨な方向転換?」

「そうよ。だからさっさと答えなさいって」

「んー……」


 あやとは天井を眺めて考え込んだ。


「しばらくはいるよー。昔の仲間とも会いたいし。あ、あとそーだ。ヒナさんとかとも会いたい。同じ大学なんでしょ?」

「あいつか……」


 あいりは幼馴染の1人を頭に思い浮かべ、引きつった笑顔になる。思い出すだけで頭痛を覚える知己というのも、なかなか得難いものだ。

 あやとが会いたいというのなら、まぁ、会わせてやっても良いかな。あの2人を引き合わせると人懐っこさの相乗効果で周囲の人間を引き寄せるマイクロブラックホールが発生したりするのだが、その辺のフォローまではあいりの知ったことではない。


「まぁいいや。8月が終わるまでもう少しあるしね。あたし、お風呂行ったら自分の部屋で用事済ましてるから。あんたの部屋はそのままにしてあるから自由に使って」

「本当にそのままになってる。物置になってたりしない?」

「あー……。ちょっとしてるかも。冬着とかあんたの部屋にしまいっぱなしだったかも……」


 ついつい、家にいない人間の部屋をデッドスペースにしておくのが勿体ないのだ。一戸建てとは言え、そんなに大きくない杜若家である。


「あたしちょっと片付けてくるわ。先にあんたが風呂入っといて」

「え、良いよ別に。オレ後でも」

「せっかく沸かしたのが勿体ないでしょ」

「いま夏だよ……」


 地獄のように熱いシャワーと地獄のように熱い風呂を愛するのは、杜若家の伝統だ。今は亡き祖父の影響で、あいりも、あいりの父も、熱湯をこよなく愛するようになっている。おかげで、杜若家のガス代は一般家庭よりもやや高い。

 なおこの辺は、弟には引き継がれなかった様子だ。あやとは割と母親似なところがある。あの妙な人懐っこさとか。


 ともあれ、


「文句言わない。さっさと入る」

「はーい」


 あいりが強く言えば、あやとは従う。


「洗濯物はカゴに入れといてね。パジャマ出しとくから……。あ、あんた替えの下着は?」

「持って帰ってきてないや」

「替えの服もないわよねー……。まぁいいや。下着だけ入れといて。コンビニで代わりの買ってくるからさ」

「はいはい……」


 普段はあれだけ『お姉ちゃん大好きオーラ』を出してくる癖に、うるさく指図すると途端にテンションを落とすのだから現金なものだ。あいりはこのやり方で大人しくさせたあやとを風呂場へ押しやり、小銭を握ってコンビニへと向かった。




「あ、もしもしおばーちゃん? あたし。あいり。うん。夜遅くにごめんね」


 コンビニで弟のパンツを買い、そのまま弟の部屋に放り込んだ冬着を片付け、あいりは1階の居間に戻ってくる。風呂場からはまだシャワーの音が聞こえていた。

 今、思い出したように岐阜の祖母へと電話をかけている。


 あの無軌道な弟のことであるから、どうせ祖母へも置手紙ひとつで家を出てきたのだろうと思い、こうしてあやとの無事を報告しようと思ったのだ。すると電話口の向こうから、祖母の穏やかな笑い声が聞こえてくる。


「どうしたのおばーちゃん……。えっ、うん。そう、アヤトのこと。一応いま、家にいるわ。風呂入ってるけど……。あとで電話させる? ……そう?」


 どうやら祖母の態度からして、あまり心配はしていなかった様子だ。普段からおっとりしている人なので、そんな感じはしていたのだが。

 それ以外にも、妙に含みのある態度のような気がする。だが結局のところ、祖母はあいりに対して、『あやとをお願いね』とだけ言い、電話はそれで終わってしまった。何やら釈然としないものを感じつつ、あいりは居間の椅子に腰かける。テーブルの上には、あやとのスマホがあった。


「………ん?」


 スマホが軽快な電子音をたて、画面にメッセージの着信を告げる通知が並ぶ。ふっと見えた通知だけで結構な数があった。


「あいつ……。岐阜の友達にもろくな連絡してこなかったんじゃないかしら」


 でもまぁ、どうせいつもの人懐っこさで、すぐに謝って解決してしまうのだろうな、と思った。愛嬌のある奴は得だ。男女の別は関係なしに。あいりももうちょい愛嬌があれば、人生そう損することばかりでは……まぁ、あったかもしれないが。あいりの立ち向かうべき逆境は愛嬌で乗り越えられるレベルを超越しているのかもしれないが。


「ま、友達は大事にしなさいよー」


 あいりは風呂場に向けてぼんやりそう呟くと、自分のスマホを片手に部屋へと戻るのだった。

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