episode 13 ―宣戦布告―
「ちょ、ちょっと待ってくれ……」
メッセンジャーとしてサバイバルゲーム同好会に顔を出したローズマリーに対し、薄荷ラムは動揺を顕にした。
いや、ラムだけではない。その場にいた男子部員のほとんどにも、ざわめきが伝播していた。動じていないのはただひとり、さきほど話の途中、講義から戻ってきて部屋の後ろに腰を下ろした、厳つい体格の男ひとりだけである。彼は、ローズマリーの言葉に大して興味も示さず、電動ガン(SVDだろうか)を弄っていた。
「それはつまり、その、カキツバタが、私たちと敵対する……と、いうこと、か……?」
「そうなります」
ローズマリーは、杜若あいりの決断を伝える任を負って、こちらのサバイバルゲーム同好会に顔を出した。すなわち、第三の勢力〝アイリスブランド〟として明日の試合に臨み、商品であるミライヴギア・コクーン12台をすべてかっさらう。それは当然、ラム達サバイバルゲーム同好会の利益とは相反する。明確な敵対行動だ。
あいりの決断を伝える上で、ローズマリーは彼女の言葉通り『目が覚めた』以上の理由を、ラム達には伝えなかった。だが、やはりというべきか、それだけでラム達は納得しない。
「どういうことだ? ほんの少し前まで、あいつは私たちと仲良くしていたんだぞ」
ラムの黒瑪瑙のような瞳には、怒りに似た感情が滲んでいる。だが、その対象は、今ここにはいないあいりではなく、目の前のローズマリーに向けられていた。
「何か、あいつに変なことを吹き込んだんじゃないか?」
どうやら彼女たちは、ローズマリーがあいりをそそのかして敵対を煽ったと思っているらしい。視点を変えればそれは事実であるので、ローズマリーに否定することはできない。
「どうあれ、アイリが明日、第三勢力としてあなた方とFPS同好会の双方に挑むことは事実です。私はその件だけを伝えにきましたので」
あいりが自らここに足を運ばなかった理由はわかる。彼女は自分の決意を揺らがせるのを恐れたのだ。さきほど部室で『もう二度と、折れたりなんかしないわ!』と息巻いていた彼女だが、まぁ無理だろう。この先、あいりは何度でも折れる。そのたびに立ち上がる道を、彼女は選択したのだ。あいりだって、本心では自分の心の弱さを承知しているはずだ。だから、ここには足を運ばなかった。
あいりはまだ、ラムや、サバイバルゲーム同好会の彼らを友達だと思っている。彼らに縋られれば、心を乱すだろう。あいりはラスボスの器ではない。そんな鉄面皮にはできていないのだ。
「カキツバタと話をさせろ」
「アイリはそれを望んでいません」
「どうしてだ!」
ラムの叫び声に追従する形で、他の男子部員も声を荒げる。
「軍曹の言うとおりだ!」
「きっと話をすればわかってくれる!」
「無駄な戦いなんてする必要はない!」
ローズマリーは困惑こそしなかったが、どう対応したものだろうか、と考えていた。もう少し懇切丁寧に話をしたほうがいいのか、あるいは、突っ放しておくべきなのか。彼らだって、あいりのことを憎んでいるわけではないのだ。
あいりは、サバイバルゲーム同好会と敵対することを自分の意思で決めた。彼らの求めていたコクーン12台を、横から掠め取ろうという算段だ。もう少しことを穏便に運ばせる手段はあっただろうが、あいりはそうしなかった。第三勢力として、サバゲー同好会に正面から敵対する意思を叩きつけたのだ。そこには、あいりなりの考えがあってのことには、違いなかったが。
「もういい。お前では話にならない!」
薄荷ラムは、とうとう我慢が限界に達したかのようだった。ローズマリーを押しのけ、部室を出ようとする。が、その彼女を制止したのは、それまでずっと黙り込んでいた、件の大柄な男であった。
「どこへ行く気だ」
印象と違わない物静かな声が、ラムの動きを引き止める。立ち止まり、振り返った彼女は、震える声ではっきると告げた。
「カキツバタのところだ。話をしてくる」
「やめろ」
電動ガンを肩にかけ、男はゆっくりとラムの方へと歩を進めた。他の男子部員が、みんなオシャレな(それでいて無難な)格好をしている中で、この大柄な男だけは、全身をミリタリーファッションに包んだ、いかにも〝らしい〟格好をしている。男の歩みは、進路を塞いでいた他の男子部員達を、無言のうちに左右へと開かせる。
なるほど、と、ローズマリーは思った。
どうやら、このサバイバルゲーム同好会も、複雑な事情を抱えている様子だ。
「杜若は俺たちに敵対すると言ったんだ。放っておけ」
「だがおかしいじゃないか! さっきまで一緒だったんだぞ! 話せばわかってくれるはずだ!」
「おかしいのはおまえたちだ! 目を覚ませ、薄荷!」
いきなり怒声を響かせる男に大して、ラムはびくりと肩を震わせた。
ローズマリーは思い出す。この男が、あいりの報告にあった赤城瞳だ。以前、ゲーム内で敵対した凄腕スナイパー〝レッドアイ〟のプレイヤーでもある。彼がどうしてこれだけ怒っているのか、おぼろげにしか理解はできないものの、ひとつだけ、銃やプレイングに対するこだわりが、決してゲームの中ではないのだろうということだけは、合点がいった。
「いいか、俺たちはサバゲー同好会なんだ! 俺のためのサークルでもないし、おまえのためのサークルでもない! あいつのためのサークルでもない! 薄荷、おまえはただ、杜若がいないと不安なだけじゃないのか!?」
「そ、それは……」
「おまえはどうなんだ、缶張! 魚塚!」
赤城が声を荒らげたまま見渡すと、他の男子部員達は気まずげに目をそらす。だがそれは、ことさらに男の怒りを増長させた。剥かれた彼の牙は、そのまま赤城自身がずっと溜め込んでいた、爆弾に向けて直進する。
「おかしいんだよ! だいたい、まだ2年目の薄荷を部長にして、軍曹軍曹って呼んで持ち上げてたところからだ! 薄荷だってそう思ってたんだろうが!」
ラムは、顔を真っ赤にして目を伏せた。図星か、と、ローズマリーは思う。
「俺はずっと気に食わなかった。薄荷だってバカじゃないから気づいてただろ。そしたらなんだ、薄荷は俺に気を遣うようになって、お前たちまで俺に気を遣うようになって、そういうのうんざりなんだよ!」
これは、なかなか。
〝オタサーの姫〟なるものが生み出すサークルの崩壊構造というものは、ローズマリーもよく知っていたつもりだが。溜め込まれたものがこういった形で発露することになるのは珍しい。赤城は、単なる一部員として入部したラムが、軍曹として不自然に祭り上げられていく様を、苦々しく思っていたのだろう。
それでも今まで口にしなかったのは、自身がサークル内においてはマイノリティであることと、単純に自身のわがままでサークルを崩壊させることを忌避していたからだ。が、ここにきてとうとう、我慢ができなくなったらしい。
部室内はしんと静まり返っていた。盛り上がる祭りのさなかに、冷水をぶちまけられたような感じだ。赤城の言動は、空気が読めない男のヒステリーと見るべきか、それともサークルの正しい姿を取り戻そうとする、孤独な兵士の奮闘と見るべきか、それは意見が分かれるだろう。
「杜若だって同じだ。あいつを〝参謀〟として不自然に持ち上げようとしたりして。おまえたちは冷静じゃない。あいつが敵になることの何がいけないんだ。一度敵になったら戻ってこないようなことを考えているなら、おまえたちこそ、わかっていない」
ここから先はローズマリーの推論になるが、あいりが自らの居心地のいい場所としてサバゲー同好会に依存しようとしていたように、薄荷ラム達にも、あいりに依存する傾向があったに違いない。そこに気づいていたのは、おそらく赤城だけだ。彼らがしているオシャレひとつとってみても、ハリボテだということがわかる。彼らはあいりを通じて、外の世界への自信をつけようとしたのであり、赤城にはそれがやはり気に食わなかった。
サークルクラッシャーを言うなら、あいりの存在も似たようなものだ。彼女の存在は、サバイバルゲーム同好会の中でそのサークルの意義を遠ざけた。あいりとラムの間でのみ成立していた、異文化の情報交換が、ラムを経てサークル全体に広がった結果である。それはやはり、ラムが軍曹として持ち上げられていたからこそ起きた現象だ。
男子部員が薄荷ラム軍曹の機嫌を伺い、積極的に同調しようとするあまり、本人の意図にかかわらずサークルが私物化される。彼らだって、もとは単純にサバイバルゲームが好きで入部してきたのであり、おしゃれに興味があったかというと、そうでもなかったはずなのだ。
軍曹であるラムが、あいりと共にオシャレな格好をし始めたから、その世界についていくため、彼らも興味がある風を装った。男子部員の服装をやけに薄っぺらく感じるのはそのためだ。
赤城は、ベルトにねじ込んでいた一丁のガスガンを取り出す。スチェッキン・マシンピストルのガスガンモデルは、日本では発売されていない。おそらくは、わざわざ海外から取り寄せたものだ。それだけで、赤城のモデルガンに対する熱意が透けて見える。
「もう一度言う。俺たちはサバイバルゲーム同好会だ。俺たちは銃が好きで集まってきたんだ。見た目に気を使うのだって、いろんな友人を作るのだって、その、なんだ。異性にアプローチをかけるのだってまぁその、構わんが。それは個人の問題だ。そこを履き違えて、サークル全体の問題とすり替えるんじゃない」
途中で何度か歯切れが悪くなりながらも、赤城瞳は、溜め込んでいた思いを最後まではっきりと告げた。
「その上でなお、杜若を追いかけて話をつけるというのなら、ここはもうサバイバルゲーム同好会じゃない。俺はサークルを抜ける」
最後のひとことには、疲労が滲んでいる。黙り込んだままの一同を見回してから、赤城はローズマリーに告げた。
「見苦しいところを見せたな」
「いえ……」
ローズマリーはかぶりを振る。
「私はあなたの判断を英断だと考えますが、一度、皆さんでしっかり話し合った方が良いでしょう。ゲーム的な有利不利は置いておくとしても、明日は、皆さんがベストなコンディションで試合に臨まれることを祈ります」
アイリのためにも、と、最後に付け加えておく。それを受けて、ラムは顔をあげた。さまざまな感情を溜め込んだ瞳でローズマリーを見、何か言おうと口を開き、そしてまた目を伏せる。
「アイリはあなた方と決別したわけではありません。あなた方が望むのなら、試合のあとにすぐにでも共に遊びにいけるでしょう。そのためにも、あなた方が〝サバイバルゲーム同好会〟として何をしたく、何をするべきなのかは、はっきりとさせておいた方がよろしいと思われます」
そう言って、ローズマリーは最後に一礼し、部室を出た。
いろいろと、余計なことを言い過ぎてしまっただろうか。最初は単なるメッセンジャーのつもりだったのに。
あの赤城瞳という男も、なかなか鋭いところを突く男のようだった。メンタルは弱いようだが、的確に押さえるべきところを押さえて話を進め、相手の反論を許さないやり口は、どことなくあいりにも似ている。
スナイパーとは、みんなそんなものなのだろうか。だとしたら、あいりにも意外と、狙撃兵の才能はあるのかもしれない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……」
メッセンジャーとしてFPS同好会に顔を出した茶良畑に対し、軽亞みるくは動揺を顕にした。
なんといっても、元不良のチャラ男である。ホスト崩れのような外観に、筋肉によって体脂肪率を落とした細身の身体は一見して威圧感に乏しいものの、ガンをつければ大抵の気弱なオタクはびびって泣き出してしまうレベルだろう。事実、軽亞の顔は泣き出しそうであった。
「茶良畑さんもローズマリーさんも、抜ける……のか?」
「んああ」
茶良畑はガムを噛みながら(服飾デザイン同好会は禁煙なので、タバコ絶ちの為に始めた)、ポケットに手を突っ込んで短く頷く。
「50万だぞ50万。ちゃんと出す。それなのにか?」
「ンなはした金いらねーって、杜若さんが言ってんでよ」
「あいつが……?」
茶良畑の言葉に、軽亞はしばらく呆然としていたが、すぐに顔を真っ赤にした。
「あんなド下手クソが! くそ、何考えてんだよ! 足引っ張るだけじゃ済まねーのかよ!」
周囲も気にせず怒鳴り散らす肥満気味の男を、周囲は『まーた始まった』と言わんばかりの表情で、苦笑いしながら見守っている。茶良畑にとって意外だったのは、その雰囲気が嘲笑的なものではなく、どちらかといえばほのぼのとしたものであった点だ。
軽亞のヒステリーは、FPS同好会にとっては日常茶飯事であるらしいことと、意外にもこの身勝手な男が、サークル内でそう嫌われているわけではないことがわかる。目の前の男から嫌悪しか感じない茶良畑には理解できないが、まぁ、理解しようとも思わない。
「あのビッチなんなんだよマジでよ! ゲーム内で勝手なことばっかするだけじゃなくてよ!」
「おいデブ」
目の前のチャラ男から目をそらしながら毒を吐く小心者な軽亞である。当の茶良畑は聞き捨てならないワードを耳に入れ、思い切り凄んで見せた。
「てめーも好き勝手言ってんなよ。前歯割るぞ? あ?」
「………」
「杜若さんビッチじゃねーからマジで。冬も生脚出してるしケツとかクソとか平気で口にするけど割とピュアだからマジで」
「お、怒るとこそこ……?」
急に勢いを失った軽亞が小声で尋ね返すと、茶良畑はガムを噛みながら無言で頷く。
「じゃあおれ、それ言いに来ただけだから。明日覚えてろよ? おれ、結構言われたこと根に持つんで。あ?」
言われたことというのは、当然、それまでガンサバイブ・プラネットをプレイした過程で向けられた様々な暴言のことである。軽亞は味方である茶良畑に容赦はしなかった。あいりへの義理立てから怒りを溜め込んでいた茶良畑だが、明確な敵対関係となった以上、容赦をする必要はまったくない。
なんだかんだ言って、アツくなると手がつけられなくなる元不良の血が、茶良畑にも流れているのだ。この側面はあいりやローズマリーにもあまり見せたことがない。基本、みっともない部分であるからである。
茶良畑が凄むと、軽亞は怯えたウサギのような顔をして、『あ、じゃあボク次講義があるから……』と言い、部屋を出て行ってしまった。小心者である。茶良畑は小さく舌打ちをした。
「じゃあ茶良畑さん、明日はよろしくお願いしますねー」
伝えることも伝えたし、さっさと帰るか、と思い始めた茶良畑の背中に、部室の中から声が飛んできた。パソコンに向かってFPSをプレイしていた数人の部員が、ニコニコと笑っている。こちらは、あまり怒っている様子は見られない。
「ああ、まぁ。一応こっちも勝つ気でやるんで。よろしく」
ずっと威嚇し続けるのもカッコ悪いので、いささか声のトーンを戻しながら、茶良畑は片手をあげた。その後、ちらり、と急いで遠ざかっていく軽亞の背中を眺める。
「部長があれでよくついてけんすね」
「まあ、あれで良いところあるんですよ。ゲームが絡まなければまともだし、面倒見はいい方です。口は悪いですが」
「ふーん」
その部員はディスプレイに視線を戻したまま、カタカタとキーボードを叩いていた。人にはいろんな側面があるものだから、否定はしないし、そもそも興味もないのだが。アレにも良いところがあるというのは、ちょっと信じられない。
それに、どのみち明日は敵になるのだ。下手な情報を仕入れる必要はない。茶良畑は、味のしなくなったガムを銀紙に包んで捨てようとしたが、ゴミ箱が見当たらないので、そのままポケットにいれてFPS同好会の部室を後にした。
ローズマリーと茶良畑が帰還したのは、服飾デザイン同好会の部室ではない。杜若あいりが2人を待っていたのは、東京都北区にある高層マンションの30階、つまるところ野々ローズマリーの自宅だ。この贅沢な環境に、ローズマリーは1人で暮らしているわけだが、今日はそこに輪をかけて贅沢な品が運び込まれていた。
2人が一室に足を踏み入れると、スーツを着た男がひとりと作業着を着た男が数人、フローリングの床に散らばる梱包材をゴミ袋に詰めているところだった。中ではあいりがひとり、部屋の中央に設置された、銀色の大型作動機械を、険しい表情でなでている。
「ただいま戻りました」
「うん」
あいりの声には緊張が滲んでいる。まぁ、当然だろうな、とローズマリーは思った。
この部屋の中央に置かれているのは、ツワブキ・オンライン・エンタテイメント・サービスから販売されている、業務用VRゲームハード〝ミライヴギア・コクーン〟の完全な新品であった。スーツの男はTOCSが誇る鬼の営業部長・荒垣大吾であり、作業着の男は彼が引き連れてきたTOCSの社員達だ。ローズマリーは実家の仕事の関係上、彼らと何度か面識があった。
「ひとまず、設置はこれで完了です。また何かありましたら、こちらの名刺の番号にお電話ください」
「あ、うん。はい。ありがとうございます」
あいりは緊張をほぐした様子もなく一礼し、TOCSの社員達は連れ立ってぞろぞろと部屋を出て行く。ローズマリーと茶良畑は、軽く会釈をして見送る。
「マジで買っちまったんすね」
「ええ、買っちまったわ……」
茶良畑の言葉に、あいりは拳をぐっと握り、頷いた。
そう、買っちまったのだ。新品のミライヴギア・コクーンである。それも名義人は杜若あいり。ゲーム歴の浅い彼女が、カルーアやモヒート、レッドアイなどに対抗するには、もはやコクーンの有する膨大な演算処理能力と、それが可能にする複数のアプリケーションソフトの並列使用より他にない。イモムシが蝶になるために必要な、いわば繭であった。
コクーンの市場流通価格は凄まじい。当然あいりのような万年金欠女子大生が出せるようなものではない。だからあいりは、そこは自らの持つ人脈を有効活用し、彼女が納得のできる範囲内で、融通を利かせた。
電話の相手はTOCSの現代表取締役。あいりが、あの蝶のスーツをデザインしてあげたその本人でもある。立場上、ゲームの最前線から退いた彼は、現在仕事の用事にてフランスにいたのだが、あいりは構わず電話をかけた。
ミライヴギア・コクーンの購入を申し出、その予算の前借りを相談したのである。事の顛末を話すと、男は大笑いしながら快諾し、すぐにコクーンを1台、ローズマリーのマンションへ運ぶよう手配してくれた。
タダではない。あいりは目のくらむような負債を抱えた。直筆の借用書もある。未成年であるがゆえに、法的な責任能力を有さないあいりに債務は生じないはずだが、あいりとあの男の間にそんな事実は一切の関係がない。
杜若あいりは今、1億の借金を抱えた。
返済するには、勝つしかない。
「いささか無茶をしすぎではないですか」
というローズマリーのもっともすぎる質問に、あいりは口元を歪めて答えた。
「リスクを負わずに勝負なんかできないわ。すべてを得るか、地獄に落ちるかよ。ビル・ゲイツも言ってたでしょ。〝リスクを負わないのが最大のリスクである〟って」
「それは納得しましたが。ひとつだけ言っておきます」
「なに?」
「アイリはビル・ゲイツではありません」
「ま、まぁね……」
ローズマリーの手痛い言葉に、あいりは顔を引きつらせる。
だが、彼女に言わせるならば、手段はこれしかなかった。中途半端をやめ、やりかけたことを自分で全部やると決めた以上、彼女はあらゆる覚悟を背負ったのである。1億くらいはした金だ。物理的にはともかく、精神的には。
この新品のコクーンも、終わったらさっさと売り払う。1回しか使っていない超美中古品であればいくらで売れるかと、坂田蒼乃に相談したところ、彼女は紫煙をくゆらせながら『3000万……いや、4000万かな』と、言っていた。どちらにせよ、相当量のカネは手元に残る。はず、だ。
なお、あいりの生写真をつければ、6000万ほどで買い取れる可能性があると告げられたが、とりあえず全力でお断りした。
だがしょせんこれらは、勝った場合の話である。さすがに茶良畑も、顔を曇らせていた。
「杜若さん、負けて1億返せなかったらどうすんすか?」
「そりゃあ、アレよ」
あいりは遠い目を作った。
満20歳に満たない以上、杜若あいりに債務能力は生じない。そもそも保証人すら存在しないのだから、借用書に法的な拘束力は一切生じない。だが、あいりの直筆でしっかりと『返せなかったらなんでも言うことを聞きます』と書いた以上、それは彼女にとっては絶対だ。人生、崖っぷちである。
故に、あいりは答える。
「あの男の靴を一生舐めて暮らすしかないわ。そんなのゴメンでしょ。だから勝つわよ」
「パねぇ」




