来店の理由
私は不思議でたまらない。
もう二度と行かないと思っていたのに、1週間も経たないうちにあの喫茶店にいるなんて。
金子みすゞさんの『わたしはふしぎでたまらない』。
これを勉強したのは、中学生1年生のとき。
怖い国語の先生がこの詩を朗読する教室で、私はあのひとを盗み見ていた……。
……はぁ。
「溜め息?大丈夫かよ」
「……なんでもない」
カップを拭いていた大村君が顔を上げた。
そう、大村君。あの喫茶店の大村君。
「まあ気を落とすなよ。違う所で落としたかもしれないだろ」
「でも……」
「…また圭に怒られる?」
「……多分」
俯きがちにそう言うと、大村君が笑った。
もう。私今そういう気分じゃないのよ。
「ほんとにおまえらってきょうだい逆転してるよな」
「……」
「待ってろ。今紅茶淹れてやるから」
「……ありがとう」
大村君にそう言われても仕方ない。
私、ちょっとやらかした。
実は、家の鍵を失くした。
多分どこかで落としたと思うんだけど……。
いつものバッグのポケットに入れたのは確かなのよ。だっていつもそこにあるし。
それに気が付いたのは昨日の夜。バッドタイミングよ。
昨日、お父さんとお母さんは、親戚の法事があって、家に帰ってくるのは深夜だと言っていた。
つまり、私かけいかで、家の鍵を開けなきゃならないって事。
私の方が早く家に帰ってくるだろうからって、お母さんにちゃんと鍵を持って行くように言われたのだけど。
いつも持っているから大丈夫だと思って、鍵を持っている事を確認しなかったのが悪い。
帰ってきて、ドアの前で鍵を持ってない事に気が付いて。でも、きっとけいが持っているだろうと思って、そのままお庭にある椅子に座っていたの。まだ読んでない文庫本も持ってたしね。
日がとっぷり暮れてから、耳元で叫ぶけいの声に気がついた。
『おい!姉貴』
『……?』
『何してんだよ?風邪引こうとしてんのか?』
『……ええ?』
いつの間にか私は、そこで寝てしまったらしい。
そして、けいに事情を説明すると、衝撃の事実が明らかになった。
なんと、けいも鍵を持っていなかったの!
『嘘。どうしよう、お母さん達が帰ってくるまでずっとここにいるの?』
『どこかに隠し置いてないのか?』
『そんなの知らないわよっ。どうしよう、私お腹空いたのに……』
心の底から思った事を言っただけなのに、けいはそれを聞いて、パコんと私の頭を叩いた。
『いったーい!何するのよー!』
『馬鹿。気にするとこちげーだろ。まあとりあえず、俺金あるし、どこか食いにいこーぜ』
『そっか!』
というわけで、ほぼ24時間営業のファーストフード店に行き、夜ご飯を食べながら両親の連絡を待ち、結局家に入れたのは11時過ぎ。
ほんと、溜め息が出ちゃうような出来事よね。
因みに、お店ではけいのお説教が炸裂。
家の鍵を無くすなんて不注意だし、それに気付かない事もおかしい……と。
「はいよ」
今日のカップも素敵だった。
お砂糖、ミルクが置かれて、最後にティースプーン。
……あ、このティースプーン。
この間は柄の先に小さな薔薇の花がついていたけど、今日のスプーンにはマーガレットの花がついている。
きっと、あのスプーンとおそろいなのね。素敵。
「……今日はお金払うね」
「お好きなように」
大村君がまた笑う。
私が言う事、そんなにいちいち面白いかしら?
とりあえず、出された紅茶をすぐには飲めない。……熱いからね。
大村君との会話も途切れるし、例によってお客さんも私だけ。
でも、こういう静寂には慣れている。むしろ、心地良いくらいだわ。
流れる音楽は、ショパンの幻想曲に移っていく。
大村君が選んだのかな。私もこの曲好き。
しばらく経って、そろそろ大丈夫だろうかと紅茶を飲もうとしたとき、ウィンドチャイムが鳴った。つまり、ドアから誰かが入ってきたという事で……。
まあ私には関係ないか。
そう思ったのも束の間、大村君が顔を上げた。
「お、圭に拓也」
「こんにちはー」
ハッとして顔を上げる。
え?えええええ?
けい?私の弟の?
慌てて振り返ると、私より先にけいが声を上げた。
「お。姉貴じゃん」
けいはそう言った後、すぐに大村君に視線を戻した。そして、にやりと笑った。
な、何故?
私も大村君を見ると、大村君は困ったような顔をしていた。
目がけいを見ていて、焦ったように口を動かした。
「やるなぁ、優さんも」
意味不明な言葉をけいが呟いて、隣にいるけいの友達?も笑う。
なによう、この目と目の会話は。
いやいや、そ、れ、よ、り、も。
「けい!」
「なんだ?」
けい達2人は、私が座っている端の椅子からひとつ開けて、2人で並んで座った。
けいは、私なんてどうでもいいような素振りで、指を2本立てた。
「いつものお願いします」
「おう。今日のはいつもより少し新鮮な筈だぞ」
「ありがたき幸せ〜」
完全に私は無視!ひどいー!
「ねえってば、けい」
「だから何だって」
「前からこのお店知ってたの?」
「知ってるよ。つーか、優さんを知ってんだよ……ってあれ?これ優さんから聞いたんじゃねーの?」
「……?」
けいの言葉から、要するに。
けいは、私がこの喫茶店に来た事を知ってるって事?
……そ、それならどうして家でも黙ってたのよ。
私が思ったよりも、けいにとっては軽い事だったって事?
「聞いたけど…どうして何も言わなかったの?」
「なんだ?何か言って欲しかったのか?」
「え?だって普通……」
「じゃあ今言っとくけど、俺はよく…」
「もういい」
大村君と、けいの友達…拓也君?が突然笑い出した。
慌ててきょろきょろすると、けいまでもが肩を竦めている。
この3人、言葉にせずに会話してるみたい。
私、居心地悪いんでーすーけーど。みんな男だし。
「話に聞いてた通りっすね」
拓也君が失笑しながらそう言う。
「だろ?姉っていうか、妹なんだよ」
「そういや、鍵をなくしたんだって?」
「そうなんですよ!」
……私の悪口にしか聞こえない。
こういう場合、私の勝ち目はゼロ。特にけいには負ける。
長年の経験で、ここで何か反論すると、さらにからかわれるのはわかっている。
だから、ここは沈黙を守る。
けい。帰ったら覚えてなさい!