こぼれる記憶
「わーかーんーねー!」
「だぁかぁらぁ、ここはマイナスになるって言ったでしょう!」
「知らねーよ。だいたい、姉貴数学やってないんだろ。なんで分かるんだよ」
私はけいの隣で溜め息を吐いた。
ぼけーっと寝っ転がっていたのを中断して、弟の宿題をみてあげているというのに、何という言い草!
けいはリビングで宿題を始めたはいいけれど、全く出来ないらしい。
でも、宿題を持って帰ってきただけでも偉いわよねえ。私なんて、鞄にはお弁当と楽譜しか入ってなかったわ。
「ひよちゃんはねえ、数学はいつもクラストップだったのよー」
洗い物をしていたお母さんが、キッチンから私たちを眺めながら言った。
「えへへん」
「……まじかよ。まあどうせ、数学だけじゃねーんだろうけど……?」
「うん!」
大きく頷いて見せると、今度はけいが溜め息を吐いた。
「姉貴ってなんでも出来るよなあ。それなのに、弟の俺はどうしてこんな……!」
わざとらしく頭を抱えたけいに、お母さんが苦笑しながら助け舟を出す。
私はけいの後ろをすり抜けて、キッチンに入り込んだ。迷わず冷蔵庫を開けて物色。チョコレートが食べたいんだけど……。
「でも圭は運動が出来るじゃないの」
「……それだけな」
「でも、ひよちゃんはまったーく出来ないわよ」
そ、そうよ、私は運動ダメダメの運動音痴ですもの。
ぎゅっと爪先に力をいれて背伸びして、奥も探ってみる。
だめだー。ないなあ。
「50m10秒だっけ?小学生かよ」
「ボールやると絶対に顔に当てて帰ってきたしねえ」
「あれじゃん。バドミントンの羽もでこで受けるし」
「それから、鉄棒も跳び箱も出来なかったわね……」
仕方ない。諦めるか……。
「ほんと、体力の無さな。風邪流行るとぜってーにかかるし」
「注射してもインフルエンザにかかった事あったわねー」
あああ。
ほおっておけば、2人とも言いたい放題なんだから!
2人の会話は最早私の悪口大会になっている。
「ちょっと。お母さん、けい」
なるべく低い声を出してそう言うと、お母さんがさっと濡れた手をタオルで拭った。
「じゃあお母さんはお風呂入ってくるわねー」
「俺は部屋で勉強するとするかぁー」
「ねぇってばー!」
2人ともやけに間延びした声で笑って、リビングから去っていく。
ちょっとー!
そう叫びたい気持ちを押しとどめて、2人の背中を見送る。
2人で私を笑うのはもう慣れっこだし。
私もピアノの練習しなきゃなあ。
*
その日、久しぶりにエオリアンハープを弾いた。
好きで沢山弾いたから、まだ手が憶えている。
それがなんだか嬉しくて、何回も弾いた。
メロディの隙間から、中学生のときの記憶が顔を覗かせる。
あのひとが好きだったの。
そうだ。この曲を弾いていた夏から秋。2学期の始業式で2人で校歌を合わせたんだよね。
簡単な楽譜だけど、あのひとに失敗を見せたくなくて、この曲を弾いたあとに練習したのよ。
体育館の壇上に登るとき、レディーファーストしてくれたのよね。普通、指揮者から登るのに。
それでもいいの。どうぞ、って軽く右手を差し出したあのひとが、今でも記憶のアルバムにしまってある。
ああ、どうしてこんなにも鮮明に憶えているのだろう。
ついこの間まで忘れていたくせに、今になって現れて、心を締め付ける。
それもこれも、あの喫茶店に行って、大村君に会った所為よ。
出来る事なら、思い出したくなかったのに……。
気がつくといつの間にか、大村君に責任転嫁している。
大村君の所為ではない、そう言い聞かせて、また考えを改めて。
こんな事を1人で考えていたって、何も変わらないのにね。
あの日々がまた戻ってくる事なんて、ないのに。
そう、分かってはいるの。
私が何を思っていたって、未来も過去も変わらない。
それでも、自分の気持ちをコントロールする事が出来ない。
ほんとうに、馬鹿みたい。
あのまま、過去の出来事として思い出さなければよかったのに。