思い出の開封
「姉貴、また電気付けっ放しだったぞ」
ピアノのレッスンが終わった日、早速本屋さんで買ってきた文庫本をリビングで読んでいると、例の弟のけいが覗き込んできた。
あ……。
自分で、〝例のけい〟とか言っておいて、大村君の喫茶店を思い出してしまった。
けいがあの喫茶店の常連だという事は、まだどこにも話題に出していない。
「え……電気?」
「姉貴の部屋だよ。明かり漏れてたから消しといた」
「えーうそー。私消した!」
「だから、消えてなかったんだって」
「嘘だー!」
私には部屋の電気を消してから降りてきた記憶がある。
消し忘れたはずない。
なのに、雑誌を見ていたお母さんまでもが顔を上げた。
「ひよりはいつも電気付けっ放しなのよね。この間なんて、冷蔵庫も開けっ放しだったのよ」
「風呂の蓋を閉め忘れる事もしょっちゅうだよな」
「そうだわ。この前、お父さんがシャワーからお湯が少し出てたって」
「まじかよ。電気代無駄にしまくってんじゃねーか」
あれ……でも、電気を消した記憶が薄い。
もしかしたら、昨日の記憶かも。もしくは一昨日?
毎回やってるから、いちいち覚えていられないのよ。
「本当に大学生なのかしらねえ」
「毎日ピアノしか弾いてないじゃねーか」
「ねー」
けいとお母さんが顔を見合わせて笑う。
何よー。黙っていれば、言いたい放題なんだから。
「ほんとうに大学生よー。私ピアノだけじゃなくて、ヴァイオリンも弾くし歌も歌うし」
「音楽三昧じゃねーか」
「あと英語とイタリア語も勉強してるわ」
「はいはい」
ソファーに横になりながら頑張って顔をあげてそう言ったのに、けいは馬鹿にしたように笑う。
けいだって人の事馬鹿に出来るくらい頭が良いわけじゃないのに。もう。
「ねえ、けい、高校の勉強にはついていけてるの?」
私がそう言うと、思い出したようにお母さんも口を開いた。
「そうよ。受験が終わって塾も止めてしまったけど、予備校とかに通わなくていいの?」
「俺の学校で予備校に通ってるヤツなんかいねーよ」
「でも、けいは飛び切りの馬鹿じゃない」
これは私。
「だーかーら、俺はスポーツ推薦で、サッカーで緑高に入ったんだぜ。部活やんのに忙しいんだよ」
「今日なんて私より早く帰ってたじゃないのー」
「今日は顧問の都合で休みだったんだよ!」
「じゃあ自主練か何かしなさいよお」
「姉貴だってレッスン終わったからってぐたってるじゃねーか!」
だんだん姉弟喧嘩になってきて、お母さんは肩を竦めて、リビングを出て行った。
口喧嘩で、弟に負けるなんて私が嫌だ。
戦闘体制にはいる為に、私は読んでいた文庫本に栞を挟んで体を起こした。
「家ではこうしてるけどねー、私レッスンが終わった後2時間練習して帰ってきたのよ」
「はっ…じゃあ勉強しろよ」
「だから私の勉強はピアノを弾く事なのよー」
「数学とか英語とか」
「残念でーしーたあ。数学はないのよーう」
口角を上げて、首を傾げてみせる。私の出来る、飛び切りの笑顔。
思惑通り、けいは、う、と言って顔をしかめると、そっぽを向いた。
私の顔が、そんなに嫌なのかしら。不謹慎だけど、いつもの撃退法。
「姉貴」
けいがそう言って、私に向き直る。
「なあに?」
「まだ彼氏いねーの?」
「ばっ……」
突然、言葉を失った。
なによなによ、けいに関係ないでしょう!
「うーるーさーいーなーあ」
「なぁ?どうなんだよ」
「うるさいうるさいうるさい」
「ひーよーりーぃ」
「……馬鹿ー!」
「あははは」
側に置いてあったクッションで顔を隠す。
それにしても、弟にからかわれる姉って……。
けいは私を見て笑っているし。
もう。喫茶店の事言ってやろうかしら。
なんだか全部面倒になって、抱えていたクッションをぽんっと投げる。
クッションはカーペットの上に転がる。
すると、またけいがあからさまな溜め息をついた。
「……なによ」
「あのなぁ、このクッション、いつも拾ってんの誰だか分かるか?」
「……お母さん?」
「母さんの時もあるけど、基本俺なんだよ」
「そっか。ありがと」
「おい!」
えへへー、と笑ってみせる。
「感謝してまーす、けいさま」
「あ、おい、逃げんなよ!」
「けいさまの言うとおり、お勉強しようと思って」
「これ拾ってけよ!」
最後のけいの叫びは無視して、私は文庫本を右手に、階段を上がって自分の部屋に戻っていった。
*
部屋に入って、そのままベッドに倒れ込む。
『まだ彼氏いねーの?』
なんて。
けいの馬鹿。
彼氏なんて、ほしいからって出来るわけじゃないのよ。
あの日、大村君に会って、忘れていた中学生の時の記憶をだんだんと思い出した。帰って直ぐに、中学校の記念アルバムも開いた。
大村君も私も、個人写真の枠の中で笑っていたけれど、もう1人、見知った顔があった。
見知った、というよりは、何度も見て、長く見つめていて、目に焼き付いた顔と言った方がいいかもしれない。
いつも目で追って、あんなに心の割合を占めていたのに、どうして忘れていられたんだろう。
----私の、好きだったひと。
好きだった、そう、過去形で。
中1の時同じクラスで、その後は別々だったけれど、ずっと好きだった。
誰にでも同じように優しくて明るくて、憧れてたの。
男子は苦手な私にも、普通に話しかけてくれて、すごく嬉しかった。
サッカー部で運動が出来て、勉強は平均よりちょっと上。
笑った時のあの笑顔、目が細くなる感じが好きで、好きで。
それから、学級委員もやっていたよね。
モテるみたいで、あまりその方面の話に詳しくない私にも、中学時代だけでも2人の女の子と付き合っていたという事は聞いた。
高校は、どこに行ったのか分からない。
高校に入ってからも、駅のホームで暫くあのひとを探していたけれど、一度も会えなかったし、見つけられなかった。
もしかしたら、あの駅を使っていないのかもしれないし、ホームが違ったのかもしれないし、時間が全く違かったのかもしれない。
どっちにしろ、すれ違った所で、どうにかなるとは思わなかったけれど。
でも、その姿を見つめるだけで幸せだったの。
私からなんて、話しかけられなかったし、中3の7月から喋っていない事も思い出した。
だけど、だけど、とっても好きだった。
一旦、意識し出すと、あのひとの思い出が頭から付いて離れなくなる。
会話のひとつひとつを、フラッシュバックするみたいに思い出すの。
初めは、私の、試験の順位を知って、からかってきたのよ。
一週間後には、『隠れた天才』なんてあだ名までつくほど、あのひとは私の知名度をあげてしまった。
それから、合唱コンクールで、あのひとが指揮で私が伴奏をしたわよね。
合唱コンクールだけじゃなくて、3年生を送る会でも、始業式の校歌斉唱でも、音楽の授業の合唱でも、一緒だったよね。
指揮と伴奏のときだけは、貴方をいくら見つめていても、誰にも何とも思われないの。
2人だけのアイコンタクト。どんなに嬉しかったか……。
『佐藤、今年も伴奏やるの?』
『今回のテストは何位だったんだよ』
『あれ、メガネは?コンタクトにした?』
なんで、どうして思い出してしまったの?
あれから、誰にも恋に落ちなかったんだもの。
誰かがリセットしてくれなかったら、私きっと、いつまでも……。
もう二度と会えないと、分かっている。そんな事、高校に上がったときに覚悟した。
それでも、もう一度だけでいいから、会いたい、せめてすれ違いたい。そう思うのは、虫が良すぎるかしら……ね?
もしかしたら、大村君なら、あのひとの事を知っているかもしれない。
同じサッカー部で、仲が良かったし。
そうなの、大村君の顔をすぐに思い出せたのは、あのひとの近くにいたひとだったからなのよ。
ひとつ可能性を見つけると、その可能性のあらゆるパターンを想像してしまう。
もしかして、あの喫茶店に来たりするのかしら、とか、けいと知り合いだったりして……とか。
そして、フっと我に返る。
もしそうだったとしても、きっと私はまた何も出来ないのに。
ちょっとだけ苦しい。
せめて、もっと自分に、自信があれば…良かったのにね。