雨宿りに紅茶
「あの時声かけようか迷ったんだけど、佐藤は覚えてなかったみたいだし、やめといて正解だったな」
大村君は勝手に喋る。
このひと、こんなにお喋りだったの。
折り畳み傘にしては大きめなその傘が、微かに私の方に傾いでいる。
案外ジェントルマンじゃない、とくすんと鼻を啜る。
「風邪?花粉症?」
「……花粉症」
「お大事に」
「ありがとう」
大村君が1人で喋るか、短文のやり取りをしていると、本当に駅からあの喫茶店へ、すぐに着いた。
門を開けてくれて、背中を…ヴァイオリンケースを押される。
逃げるように門の中へ滑り込んで、立ち止まった。
雨に濡れたお庭も、やっぱり素敵。
実は、チェーン店の誘惑を振り切ったのには、雨の日のこのお庭が見たかったという理由もあったりする。
「…っわ、いっ……」
がつん、と背中に衝撃が走った。
「いたーい……」
前のめりになった身体を、腕が伸びて、掴んで引っ張った。
「悪い、ぶつかった…大丈夫か?」
「わ、私こそごめんなさい……」
顔がかっと熱くなる。なによ、照れてるの?馬鹿ね。
それからね、敬語なんて使わなくていいのよ。
心の中でそう思っても、口から出る言葉は違うものになってしまう。
男のひとだから緊張してるの?もう。自意識過剰もいい所よ。
頭の中で自分を小突いて、我に返った。
「濡れるぞ」
大村君が強引に歩き出す。
露に濡れる小道を抜けて、あのドアを押し開けた。
中に入ると、やっぱり苦い珈琲の香りが漂ってきて、私の身体にも染み込んでいく。
ああ、この匂いはいつ嗅いでも苦手だわ。
今日の音楽も『エオリアンハープ』だった。
もしかして、レパートリー少ないのかしら…そんな考えがよぎった。
カウンターには、見慣れないおじさんが立っている。
大村君が入ってきたのが分かると、そのひとはボソボソと口を動かした。
「お客様用の入り口から入るなと言っているだろう」
「悪い。でも今日はその客も一緒だからさ」
多分、大村君のお父さんなんだろう。
大村君を30歳くらい年上にした感じ?……あ、そのままか。
で、そのひとは私を見て目を細めた。
よく見れば、その目は笑っている。
声は少し怒っているようでも、目の奥で笑ってるみたいだった。
「俺は戻るから、後は頼んだぞ」
「はいよ」
(おそらく)大村君のお父さんは、カウンターの奥にあるドアを開けてその奥に入っていった。
さっそくカウンターに入った大村君は、ごそごそとウエストエプロンを着けると私を見た。そして、目を細めて笑った。
あ。笑い方、お父さんと一緒だ。
「いつまで突っ立ってるんだよ、早く座れ」
何か言うのも面倒で、私は黙ってカウンターのはじの椅子に腰掛ける。
肩からヴァイオリンを降ろして椅子の横に立て、楽譜の入った重いかばんを膝に抱える。
傾けてくれたジェントルマンの傘のお陰で、何処も濡れていない。
ぼーっとしてると、大村君は何やら作業を始めた。カウンターは少し高くなっていて、奥の手元は見えないようになってるのだけど……。
……まさか、珈琲を淹れるわけじゃないでしょうね?
そして、まさかまさか、お金をとるわけじゃないわよね?
私はただ雨宿りに誘われただけで…いや、でも、何も頼まないのは失礼に当たるのかしら?
というより、雨宿りするだけなのに、どうして椅子に座っているのだろう。
チェーン店で時間を潰してる、と思えばいいのかな。
それなら何も注文しないのは可笑しいわ。
でも、珈琲はなるべく飲みたくないし……。
思わずため息をつきそうになると、大村君が口を開いた。
「珈琲、飲めないんだって?」
「………。……ええ?」
数秒かかって返事をした。
何?なになになに?
珈琲飲めないってどうして知っているの?
そもそも、その口調…まるで誰かから聞いたみたいじゃない。
いったい誰から聞いたというの?
中学校卒業以来…いや、先週絢香と一緒にここに来た時以外に、大村君には会ってないのに。
私と大村君の共同の知り合いだって、中学の友達しかいないはずだし、私は中学の友達と連絡をとってないから、私が珈琲を飲めない事を誰も知らないはずなのに。
「どうして知っているの?」
「弟。圭から聞いた」
「けい……?」
そこでなんでけいが出て来るんだろう。
というより、どうして私の弟を知ってるの?
「なんだよ、何も聞いてないのか?」
〝何も〟に該当する〝何〟にも心当たりがない。
首を傾げてぽかんとしていると、また大村君が笑った。
「小学校の頃、サッカーのクラブチームで圭と一緒だったんだけど」
あ、やっぱり、大村君はサッカー部だったのかあ。
さっきの謎が解けてすっきりする。
……で?え?
そういえばけいもサッカーやってたわね……。
「それから、あいつその時の友達連れてよく来るんだよ」
よ、よく来るって……高校生のくせに、こんな喫茶店に珈琲飲みにきてたわけえ?
なによ、あの子、私にも言わないでこんな事してたのね。
「あ、店に出すほどの珈琲じゃねーぞ。簡単なやつ。余ったミルクでカフェオレとか。古くなった豆使ってるし」
……随分ね。
「だから、圭にいろいろ話聞いてる」
「……うん?」
「ひよりの」
「……え」
な、なんですって。
あの子、ひとのプライバシー他人に話してるの!
二大びっくりに目が回る。
「今は音大でピアノ勉強してんだろ?世間知らずのお嬢様」
「……あの子」
「なんかあいつボヤいてたぜ。いつになっても姉貴が男慣れしないから困ってるとかなんとか」
「!?!?」
目がちかちかした。
よ、余計なお世話よ!失礼な弟ね……!
か、帰ったら覚えてなさい!
「だから俺はさと…ひよりに親近感があるわけだが」
「……?」
「突然話しかけて悪かったな。ナンパみたいだったろ」
思わずうつむく。
急に謝られたって困るのよー。
「ナンパされた事ある?」
ぎょっとして顔を上げると、にやりと口元を歪めた大村君がいた。
あの時の笑みと一緒だ。私も同じように軽く睨む。
「はいはい……お待ちどうさま」
私の視線を無視するかのように、大村君はまた普通の笑顔に戻って、カップを、すっと私の前に置いた。
「……悪いけど、私珈琲は…」
「馬鹿。よく見ろ」
え?
そう思って、よく見るとカップの中の飲み物が、珈琲より色が薄い。……まさか。
「……薄い珈琲も飲めな」
「阿保!」
今度はむっとした。
馬鹿の次は阿保?
私、そんなに頭悪くないわ。
「ちげーよ。それ紅茶」
「……あ」
そう言われて見れば、カップの中は紅茶以外の何物でもなかった。
……恥ずかしい。
大村君は、私に構う事なくトン、トン、とミルクとお砂糖を置いた。
最後に金色の華奢なティースプーンを置くと、お手本のようなウェイターの笑顔で、ごゆっくり、と頭を下げる。
……嫌味ね。
私はため息をつきたいのを堪えて、お砂糖のポットを開けた。
中から立方体の角砂糖を取り出して、2コ紅茶へ落とす。
そして、使わずに眺めていたいようなティースプーンで茶色の液体をかき混ぜた。
黙ってやっていると、大村君が再び口を開いた。
「普通、ミルクから入れるもんじゃねーの?」
「……」
うるさいなあ。無言を貫く。
私はストレートティーが飲みたいの!
無視を決め込んで、ティースプーンを置き、カップを持って口をつける。
飲む瞬間に、いただきます、と呟いた。
「……つ!」
「なんだ、猫舌か?」
最近忘れていたけれど、私は重症な猫舌だ。
舌にびりびりと電流が走ったみたいになる。熱いを通り越して、痛い。
「……火傷した……」
「ちゃんと冷ませよ」
カチャン、と陶器の音をさせて、私はソーサーにカップを置いた。
はあ。今度のため息は無意識に出た。
「大丈夫か?水要る?」
「大丈夫……」
このひとに水を貰うのには気が引けた。
また、仕方ないな、って顔で笑われるのが目に見えてるし。
ちらりと敵を見れば、自分は濃い珈琲を淹れて、カウンターの奥に座っていた。ついさっき淹れたばかりだというのに、熱さを気にもせず少しずつ飲んでいる。
これじゃあ、猫舌を馬鹿にするわけね。
いつの間にか、流れる音楽は洋楽に変わっていた。英語(多分)の歌詞を、流れるように歌っていく。
途端、大村君が舌打ちをした。はっとして顔を上げる。
わ…たし、何かした……?
パッと目が合った大村君は、私を見ると焦ったように言った。
「違う、違うから。おまえに舌打ちしたんじゃないから」
よ、よかった……。
何故か安堵する。別に、大村君に怒られたってなんて事ないのだけど。不都合な何かあったら、この喫茶店を逃げ出してしまえばいいのだし。
「それじゃあ何に舌打ちしたの?」
普通に考えてそう聞くのが妥当よね。
うん。気になるし。
「今流れてる音楽に。……多分親父がセットしたんだろうけど」
「お父さん、ってさっきのひと?」
「そそ。最近洋楽にハマったとか言って、勝手に流すんだよ。この店にはピアノが似合うと思うんだけど」
そう言ってから、大村君は残った珈琲を全て飲み込んで、シンクに置いた。
……見えないけど、音が。
「どう?曲は俺が選んでるんだけど。音大生さん」
「……あ、うん」
この趣味は大村君だったのね……。
「ショパン?って人の曲が好きなんだけど。分かる?」
ば、馬鹿にしてるの?
このひと、音楽について無知すぎる。
音楽をやる人で、ショパンを知らない人なんていないわ。
「それくらい知ってるわ。私も好きだもの」
「そうか。じゃあ弾いたりするの?」
「あ、当たり前でしょう!?」
いけない。つい爆発してしまった。
私の悪い癖。ピアノの事になると、音楽の事になると、どうしても語ってしまう。
普段お喋りな方じゃないから、尚更驚かれる。
不快な思いをするのは自分だけど、最近では慣れてしまった気がする。
でも、大村君なら別にいいかもしれない。多分、これっきり会わないだろうし。
「さっき流れていたエオリアンパープも中学生の時に弾いたわ。この間の木枯らしだって弾いたし、少なくとも大村君よりショパンを知っているつもりよ」
……しまった。言い過ぎた。
引かれる、と心の奥がきつく握られたみたいに硬くなった。
別に大村君に限ったことじゃない。
男のひとが苦手な事に加えて、私は会話も少しだけ苦手だった。
弟が心配するのも…本当は無理もない話なのかもしれない。
「すげえ!」
バッと顔を上げた。
その時の私の顔には、きっと『間抜け』という言葉がぴったりだっだろう。
「……え?」
まるで1ヶ月ぶりに声を出すような人の声が出た。
1ヶ月も声を出さなかった人の声なんて聞いた事ないけれど。
大村君は、何を言ってるのだろう。
遠まわしに、私が大村君を馬鹿にしてしまった事、気がついてないの?
「え…って?だから、すごいって。木枯らしってあれだろ?ひよりが前に来た時に鳴ってた曲だろ?」
「そ…うだけど」
「音大生ってすごいんだなあ。圭は趣味の延長とか言ってたけど、おまえ、本当にすげーよ」
「あ、ありがとう……」
運動したわけでもないのに、心臓がドキドキいっている。
身体中に響いて、大村君にまで聞こえそうで、更にドキドキした。
ば、馬鹿みたい。こんな事でいちいち心臓を鳴らすなんて、馬鹿げているわ。
「ところで、エオリアンパープってどの曲の事?そんな名前の曲あったっけ?」
よっぽど興味があるのか、大村はカウンターに手をついて、はんば身を乗り出すようにして聞いてきた。
まだ心臓は鎮まっていないけれど、ポーカーフェースは特技の1つだ。
「ショパンのエチュード、作品25-1の別名よ。他にもあるけど……」
「そうなのか。春の雨の日って感じで、綺麗な曲だよな。すげー好き」
「あのね、この曲は羊飼いの少年が穴の中で雨宿りするお話なの。私も春にぴったりの曲だと思って」
「今の季節?……今日がもう少し暖かかったらちょうどいいな」
あれ。なんだか話が合っている。私も普通に話せてる?
趣味があうと嬉しい。
「でも、この季節に木枯らしはいただけないと思うの」
「木枯らし?……確かに春じゃないな」
「でしょう?」
「じゃあ、レパートリーから外しておくよ」
「あ……うん」
正直、私の意見だけでお店で流す曲を変えていいのかよく分からなかった。
最初に絢香とこの喫茶店に来た時に、大村君がしていた話と、大村君が今日言った『うちに来る?』って言葉。それから、大村君のお父さんがお店にいた事から、この喫茶店は大村家が経営している事は分かった。
だけど、疑問もいっぱい付きまとっている。
まず、オーナーは誰なのだろう。おじいさんがご健在なのかすら分からない。
平日とはいえ、午後のティータイムなのに、お客さんが私以外に誰もいないという事も気にかかる。
椅子も5つしかないし、失礼だとは思うけれど、この喫茶店で生計を立ててるとは思えないのよね……。
それから、大村君はどこかの学校に通っていたりするのだろうか?つまり、学生さん?って事。
あんなに頭が良かったのに、まさか行ってないわけないわよね……。
将来はこの喫茶店を継ぐのかしら?
もしかして、料理の学校に行ってるとか……。
「お、雨止んでるんじゃないか?」
その言葉で、ぐいっと現実に引き戻された。
そして、はっと我に返る。
こんな事、私が考える事じゃない。
考える必要も、権利も、何も持ってない。
「ほんとう」
出窓から春のお庭を眺めて私も言った。
「ありがとう、私もう行くわね」
私は勢いをつけて、ほとんど手付かずの紅茶を喉に流し込んだ。
一気飲みしてしまうのにはもったいないほど美味しくて、なんだか涙が出そうになった。
綺麗な宝石が落ちているのを見向きもせずに通り過ぎてしまったような気分。
「ねえ、紅茶のお金は……」
鞄の中に手を入れて、お財布を探す。
自分のカップを洗っていた大村君は、サッと顔を上げた。
「いや、いいよ。俺が無理やり出したんだし」
無理やり、なんて、そんな言葉使わなくたって。
「でも……」
「ここは店だけど、俺の家で飲み物が出されたと思ってさ」
な、と大村君が言い、私は動かす手を止めた。
じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかしら。
「ありがと」
「おう」
大村君がそう言って、優しい方の笑顔を作った。
私も笑顔を作ったつもり……だけど、多分、曖昧にしか笑えなかったかもしれない。
大村君は何と思ったか……。
どっちにしろ、もう会わないんだもの。
せいぜい、弟のけいに何か言うだけ。
不謹慎ながら揺れる気持ちに、そう言い聞かせる。
馬鹿みたい!