春の雨
ざーっと雨が降り出した。
今日の帰りは私1人。絢香は今も授業を受けてるはず。……いや、もう終わってるかも。時計を確認する。あ、あと6分でした。
……ううん、そんな事はどうでもいいの。
とりあえず……。
駅のロータリーの屋根から、腕を突き出して手のひらに雨を受けてみる…と、隣にいた携帯から顔をあげていた女子高生に怪訝な顔をされた。
もう。分かってるわよ、こんな事しなくたって、雨が降ってるのなんて分かるものね!
再び女子高生は携帯に顔を戻す。
はああ、生憎傘は持ってきてない。困ったな。
私の家は、駅から歩いて30分くらいの所にある。
だから、いつも歩いて家と駅とを行き来して…たまにバスに乗るくらい。
うん、帰る方法はバスっていうのもあるんだけど……。
私はバス停をチラリと見た。
雨の日だから、混んでいる。小さなバス停に沢山の人が連なって…私行列に並ぶのって嫌いなのよね。
いや、そうじゃなくて(それもあるけど)、今日は背中にヴァイオリンを背負っているから、人混みはいつもより苦労する、はず。だから嫌なの。
身体の奥行きが2倍ぐらいになってしまって、人に迷惑をかけるに決まっているし、ぎゅうぎゅうの中に楽器を抱えて入るのにも気が引ける。
もうひとつの方法、走って帰る、というのも多分出来ない。
1kmを6分で走る足で、ヴァイオリンと、重たい楽譜を抱えて走るのは、私にとっては不可能に近い。
しかも雨の中。転んで、家に帰って弟に笑われるのがオチね。
……仕方ないから、雨が止むまで待とうかな。
ちょうどそこにチェーン店のカフェがあるし。
うん、そうしよう。きっと紅茶もあるはずだしね!
そうと決めたら早く行こ。
勢いをつけてくるりと方向転換……をしたら、何かに顔面を打ち付けた。
痛くはない。なんだか当たった所が柔らかかったから。
……ということは、壁にぶつかったんじゃないってことで……。
大変。
思い当たった答えに目が回る。
顔をあげると、そこには男のひとが立っていた。
私、何が苦手って、男のひとが苦手。高校は女子校で、大学も女の子ばっかりだから、なんだか免疫力がなくって。
なんだかこのひと、とっても背が高い。いや、私が小さいのかな。
男のひとの隣に並ぶ事がないから、どうなのかも分からない。
年は…多分、私と同じぐらいかそれより上。いや、もしかしたら高校生かも。いやいや、30近いおじさんかも。でも私服のサラリーマンって??
顔を見ても何も分からない。男のひとって、みんな同じような顔してるんだもの!
…じゃなくて、そんな事考えてないで。
「……あ、あの…すみま」
「ひよこ……?」
すみません
そう謝ろうとした私の言葉を遮るように、そのひとが何か言った。
「え?」
「佐藤ひよこ……」
そのひとの言葉を聞き取った瞬間、私の記憶の中で、何かが光った。
『佐藤ひよこ』そう呼ぶのは、中学校の友達だけだった。
私は再び、まじまじとそのひとの顔を見た。
「…私?」
「佐藤ひより?」
今度ははっきりとそのひとが言う。
中学校が同じひとだと思うけれど、顔を見ても何も思い出せない。
それでいて、どこかで見たことあるような顔だなあ、と思ってしまう。
どうして?
「松原中の方……?」
とりあえずそう聞くと、そのひとは頷いた。
中学校のひとの顔を片っ端から探しても、全然分からない。
それから、今気がついたけど、私中学校の時の記憶が皆無だわ。
「佐藤だよな?」
「そ、そうです……」
私が知らないひとが、私を知っている。
なんだか奇妙で気持ち悪い。あ、失礼なこといったかしら。
「覚えてない?3年の時同じクラスだった大村だけど」
「ちょっと……」
覚えてないです。
それにしたって、どうして私の事なんか覚えてるのよ、この大村ってひとは。
私は全く……。
……。
……あ、ちょっと思い出した…かも。
確かサッカー部で…いや、陸上だったかテニスだったか……。
とりあえず、運動も勉強も出来るひとで、このへんで1番頭いい高校に行った…のだっけ?
「覚えてない?」
「あはは……」
思い出せないー
せめて下の名前か部活ぐらい思い出したいのだけど。
「帰り?」
「あ…はい」
よかった。簡単な世間話なら出来るわ。
雨が突然降ってきてしまって…とか、そういうのでしょ?
「傘持ってきてないのか?」
「……ええ」
「そうか……」
大村君が黙り込む。
大村君の手には折り畳み傘があって、今ちょうどロータリーを出て行こうとした所らしかった。
知り合いの私に会って、これからどうするか考えあぐねているらしい。
お話なら、格好良い男のひとが、この傘やるよ、とか言って、自分は濡れながら走り去っていくの。もしくは、傘に半分入れてくれるのよ。
現実じゃそうはいかないわよね。
こんな事なら、最初から声なんてかけなければいいのに。
このひと、お節介なんじゃない?
……なんて、始まりは私が勢いよく衝突したからでした。
私が心の中で1人芝居を打っていると、大村君が突然口を開いた。
「よかったら、うちに寄ってく?すぐだし。」
え?は?
おかしな台詞に、私は首を傾げた。
〝うち〟って何?大村君の家?
いやいや、それは距離が近いから、とかいう問題で決める事じゃないでしょう。
「いや…あの、それは流石に…遠慮します……」
「……まじかよ」
次の瞬間、大村君が吹き出した。そして、笑い出した。
な、なによ。私変な事言ったかしら?
貴方がおかしな事を言うから、私は当たり前の反応をしたまでよ。
「佐藤、まだ気がつかねーの?こないだ友達と来ただろ?」
「は?」
友達と来た?一体どこに?
大村君の家に?そんなわけないでしょう!
「〝珈琲いかがですか〟」
大村君が唐突にそう言った。
「まさか覚えてないのか?喫茶店だよ。珈琲飲みに来ただろう」
「え?えええええ!」
大村君が、絢香に釣れられていったあの喫茶店のお店のひとだと気が付くまでにそんなに時間は必要なかった。
はっきりとは覚えてないけど、そうだ、確かに少し似ているかも。
「で?来るのか」
あー。うーん……。
あの喫茶店、珈琲しか出さないからなぁ。
また珈琲飲むの、あんまり嬉しくないかも。
視界の左で、チェーン店のネオンがチカチカ光る。
こっちの方が安全確実。
でも、せっかく誘ってもらったし……。
「…行きます」
「ほいよ」
なんで私敬語使ってるんだろう。そう思いながら、差し出された黒い傘に、飛び込んだ。