始まりの喫茶店
「ここ!」
元気いっぱいの絢香が、足を止めて笑った。
青空をバックに、ポニーテールに結い上げた絢香の顔が振り向く。
---ねえ、今日時間ある?
そう聞いてきたのは、絢香。
---よかったら付き合って欲しいの。また見つけたんだ、珈琲屋さん。
絢香は無類の珈琲好きで、その新天地開拓に余念がない。
私が付いていくのも恒例になっている。
---もちろん。今回はどの駅なの?
「ここ?」
「そう!」
驚いた事に、今回のカフェは私たちの最寄り駅だった。
でも、こんな所にカフェがあるなんて知らなかったわ。
〝珈琲いかがですか〟
申し訳程度に置かれた小さな看板を覗き込む。続いて妙に立派な門に目をやる。
本当にここがカフェなのかしら?
どう見ても、ちょっと豪華な一軒家にしか見えないのだけど……。
うーん、まさか看板だけが降って湧いたわけじゃないでしょうし。
気付けば、私の考えなんてお構いなしに、絢香は門を開けてずんずんと入っていく。
待って、と慌てて追い掛け、ギーっと音を立てて門を閉めて、振り返って……私は息を飲んだ。
そこは、なんだかとっても素敵なお家だった。
落ち着いた木の色をしたドアに、西洋風の出窓。
玄関までは赤いレンガの小道が続いて、脇にはチューリップにマーガレット、サクラソウが風に揺れている。
なんて素敵な空間なんだろう。
咄嗟に、この家を絵に描きたいと思ってしまう。ううん、写真でもいいわ。
どっちにしろ、絵なんて暫く描いてないし、ちゃんと撮れるカメラも持っていないのだけど。
「ひよりー」
お庭を眺めながらゆっくり歩いていると、ドアに手をかけた絢香が私を呼んだ。
もう。せっかちなんだから。
*
ドアを引くと、ウィンドチャイムが鳴った。まるで春の風のような優しくて静かな音。
一歩そこへ足を踏み入れると、珈琲の苦い香りが私たちを包んだ。
そして、内装も想像した通り、外装にピッタリだった。
深い色の木目調の床に、白の壁と出窓。
そんなに広くはないけれど、横にも窓があって、店内は十分に明るい。
どこからか音楽がかかっていて、何もない静寂よりも静かだった。
ショパンのエチュード、『エオリアンハープ』。小さく口の中で唱える。
昔弾いた事がある曲だった。
カウンター席が5つだけあって、お客さんは、1人。1番奥の席におじいさんが座っていた。おじいさんというよりは、おじさまって感じのひと。
カウンターの奥には、後ろを向いてカップを戸棚へしまう男のひとの姿がある。多分…というか、普通にお店のひとね。
「こんにちは」
絢香がそう言うと、おじさまは振り返って優しく微笑み、お店のひとはカップを慎重にしまい終えてから振り返った。
「いらっしゃいませ」
その時、あれって思ったの。
どこかで聞いた事がある声だと思った。
でも気付かない振りして、小さく会釈する。
絢香の後に続いて、少し高めのスツールに腰掛ける。
「……どうぞ」
メニューが差し出される。
絢香が笑って受け取って、私は横から覗き込んだ。
そして、思わず顔が歪んだ。
……まずい。このお店は、本格的な珈琲屋さんなんだ。
珈琲以外のドリンクメニューが、ない。
珈琲開拓に協力していて難だけど、私は珈琲が飲めない。
牛乳とお砂糖をたっぷりいれたカフェオレも駄目。
とりあえず、珈琲の苦味が苦手だった。
いつもなら、ミルクティーとか紅茶系のものもあるから、それを飲むのに。どうしよう。
因みに、絢香は私のそれを知らない。
ただ、珈琲より紅茶が好きなのだと思っているだけだ。
今更ここで、それを言うわけにもいかないし。仕方ない、飲む。
「……じゃあ、オリジナルブレンドを」
「かしこまりました」
低くそう言ったお店のひとが当たり前のように私を見る。
目が合って、血液が頭に登る。
このひとが言いたい事は分かる。
だけど、私、珈琲の種類とか味とか、何も分からないの。
そもそも、オリジナルブレンドって何?
珈琲豆っていろいろ種類があるみたいだし…それを混ぜたのかしら?
「ひよりは?」
珈琲なんて全部同じよ。
どうにでもなれー。
「あ、え…えと、同じものを……」
なんとかメニューを言い終えると、絢香は満足したように鞄から携帯を取り出した。
因みに私の携帯は充電切れ。昨日の夜、力尽きて充電する前に眠ってしまった。
暇を潰そうにも、潰せない。
ため息を吐いて顔をあげると、お店のひととまた目が合った。
わ、なによ。さっさと珈琲淹れなさいよ。
それが顔に出たのか、もしくは珈琲を飲めないのがばれたのか、そのひとは私を見て口元を歪めた。
効果音を付けるなら、にやり。
わー!わー!わー!
あなた、今私の事馬鹿にしたでしょう?
初対面なのに酷いわ。
少しだけ睨んでから、視線を下に戻す。
曲が『木枯らし』に変わる頃、珈琲カップが2人の前に置かれた。
絢香は早速とばかりに、携帯を鞄に直して、カップを手に取る。
そして、いただきます、と呟いて、そろそろと口元に運んだ。喉をゆっくりと動かす。
「美味しい……」
絢香がこんな風に感想を漏らしたのは、恐らく初めて。
そんなに美味しいのかしら?
私も自分の珈琲に手をつけようとするけど…やっぱり駄目。
苦い香りが立ち昇っているその飲み物に、どうしても口をつけられない。
私が迷っている間にも、絢香は大人な顔をして珈琲を飲んでいるし、お店のひとはカップを磨き始める。
端に座っているおじさまは本を読んでいるみたいだった。
…仕方ない。
私は1人で『木枯らし』のメロディをなぞりはじめる。
この前、先輩が弾いているのを聴いたっけ。
この春には似つかわしくない、ちょっぴり寂しそうな音色。
それにしたって、エオリアンハープの後に流す曲として、それから、この季節に聴く今日としてはもうめちゃくちゃ。
秋の淋しい寒さに似合いそうな音楽なのに。
このひとは、題名を知らないのかしら。
「ひより?」
音楽を聴く時の私の癖。どうしても、集中して聴こうとすると、空中を見つめたままぼけーっと考え事をしてしまう。
絢香はそんな私を見て、声を掛けた。
「…え?」
「珈琲、飲まないの?」
う…。
流石に、もう飲まなければ。
まさか注文しといて飲まないわけにもいかないものね。
「ううん、飲むわ。ちょっと考え事してたの。」
そんな私に絢香はそっか、と口を動かして、自分はからになったカップをちょっと押した。
私はのろのろとカップを口に運ぶ。
「ご馳走様。美味しかったです」
「…ありがとうございます」
うわ、やっぱり苦い。
他の珈琲との違いも分からない。
「…小さいけど、可愛いお店ですね」
「…ありがとうございます」
お店のひとが私たちと同い年くらいに見えるからか、絢香は積極的に話しかける。
大きなお店だとこうはいかないけれど、こんな風にお店のひととの距離が近い喫茶店では、絢香は珈琲情報を聞き出す事が多い。
人懐こい絢香に降参したかのように、お店のひとは表情を緩めた。
笑顔だ。でも、さっきの私を笑ったあの笑みとは違う。
「祖父が珈琲豆を扱う会社で働いていたので、街のひとにもその味を確かめてもらおうと、来客した方に珈琲をお出ししたのが始まりなんです」
「そうなんですか……」
「はい。それが今では、お金をもらうまでに……。立派とは言えませんが、喫茶店になりました」
「そんな…素敵なお店です」
苦い。やっぱり苦いわ。
まだ半分以上残ってるのに……。
2人の会話から、絢香の興味が薄れてきたのが分かる。
絢香は珈琲豆の事とか、淹れ方を知りたいのであって、決してお店に興味があるわけではない。
私にはおもしろいと思えること喫茶店の歴史も、絢香にとってはただの雑談。
「あの…豆はどこのを使ってるんですか?」
焦れた絢香が率直に質問する。
でも、お店のひとは困ったように笑った。
「申し訳ありませんが、それは企業秘密と言うことで……」
「…そうですよね。変な事聞いてすみません」
珈琲の淹れ方に自信があるお店は、豆の種類を教えてくれることもあるけれど、この珈琲はオリジナルだし、きっと秘伝とか…そういうものがあるのかしらね。
〝オリジナル〟が何なのか分からないけれど。
絢香は、もうこのひとから聞き出す情報はない、と踏んだのか、口を噤んだ。
再び静寂が訪れる。
流れる曲は、優雅なワルツに変わった。きっとまたショパンだろうけど、作品番号が思い出せない。
私は最後に、一気に珈琲を飲み干した。
やっと終わった。今すぐ、砂糖を口いっぱいに含みたい気分だわ。
どうぞよろしくお願いします♪