その鳥は何を運ぶか
相川鈴音はその日も不機嫌に帰宅し、厳しく選び抜いた快適なベッドで疲れた身体を癒していた。
枕の上で長い髪が広がり、人の視線を集めがちな身体は軽い羽毛布団の下に隠れている。
彼女の人生はわずらわしいものばかりだ。なまじ容姿が整っているせいで、立っているだけで面倒事が集まってくる。それはもう掃除機のように。高校と大学時代はトラブルメーカーという異名をものにしていた。
先輩、後輩、同級生問わず、彼氏を取ったなんだの言いがかりは当たり前。電車に乗れば高確率で痴漢に合い、道を歩けば呼び止められ。挙句の果てにはストーカーの被害を受けたりと、おかげで少しぐらい家賃が高くともセキュリティーが万全なところでなければ住めやしない。
いっそのこと、美人を鼻にかけた性格ブスになれればまだ人生を楽しめるのかもしれないが、兄と弟いわく、鈴音は色々な意味でもったいないのだそうだ。モデルなどには本人がなる気がなく、恋愛への興味はあらゆる苦労のせいでとっくに消え失せ、見た目と中身が一致しない。その結果、数少ない友人は非常識がデフォルトな面々ばかり。
本人もまた変人の領域に片足を突っ込んでいるのは、家族全員が元気ならそれで良いと諦めている。
そういうわけで、今日も鈴音は必死に一日を生き延びて就寝していたわけだ。むしろ比較的平和だったといえる。
しかし、本日最大の苦労はどうやらこれからだったらしい。
音もなく遮光カーテンが揺れた。しっかりと施錠していたはずの部屋で穏やかな風が流れ、夜の香りが広がっていく。そして、ベランダからは人の足が――
躊躇なく侵入してくる影はまっすぐ鈴音の眠るベッドの前まで忍び寄り、魔の手がゆっくりと彼女へ伸びた。
だがそれが、か弱い女性に恐怖を与えることはなかった。
「曲者め!」
鋭い悲鳴――せめてそう主張しておく――と共に飛び起きた鈴音の細い腕は、侵入者の手を掴むとそのまま捻り、全体重を相手にかけて押し倒す。すかさず背中へ乗り、流れる動作で見事に取り押さえた。
彼女の動きはまだ止まらない。ベッドの下から今度は手錠を二つ取り出すと、腕と足を拘束する。以前、兄が遊びに来た時にそれを発見し、なぜあるのか聞くのは憚られたため謎のままとなっていたが、彼がこの場にいれば納得と安堵していたはずだ。
備えあれば憂いなし。それが座右の銘である。
そこまでしてやっと、鈴音は鼻息荒く侵入者から離れた。
茶色の長い髪をなびかせ、心なしかどや顔をしている。自画自賛しても当然な動きだったので良しとしておこう。
ただ一つ、虫も殺せなさそうな清楚な顔立ちでのその仕草は、男たちの幻想を打ち砕く威力を十分に持っていた。
「この鈴音様の強固な砦に忍び込んだのは褒めてあげる! でも最後の防衛を突破したければ、格闘技で最低二つ、世界チャンピオン級になってくることね!」
ついでとばかりに動かなくなった敵の背中めがけて長く細い魅惑的な足を叩きつけ、高らかに宣言する美女。威勢は良いがツッコミ所が満載なセリフだった。
余談だが、鈴音は自衛を理由に習得した護身術が、警察官やSPも驚愕なレベルだったりする。どれだけ爆睡していても、こうして気配を察知すれば目が覚めるのだ。変人の領域への進攻具合は、片足では控えめすぎたかもしれない。
さらについでを述べれば、玄関の鍵は元に加えて二つ、窓にいたってはそれぞれで四つ付けられているので、そこは確かに侵入者を褒めてしかるべきだろう。
「警察を素直に呼んでもらえると思うなよ! でも努力は認めて選ばせてあげる」
浮かべた笑みだけは美しい。
そう――笑みだけは、だ。
「見た目は人畜無害な鬼畜ゲイと性格破綻者なロリコン、止めなきゃ確実にちょんぎってくれるであろう男嫌いな女王様(元おとこ)、彼女を心酔する同族な童顔(一応おんな)、さあどれが良い。全員自慢の友だちだこのやろう!」
そして鈴音は意気揚々と部屋の電気をつけた。
何も言うまい。いや……言わせないで欲しい。でないと、彼女の日々を純粋に案じている家族が不憫すぎる。
それにしても侵入者はやけに静かだ。呻き声をあげるどころかいまだ動かない。よもや気絶しているのだろうか。
闇に慣れていた目が光で眩み、落ち着くのを待つ間、鈴音もそのことを不思議に思ったのだろう。首を傾げていた。
ここで暮らす前の部屋でも同じような目に合ったことがあるが、その時はおおむね暴れたり叫んだり、あるいはある意味で超越した彼女の中身を目の当たりにして失意からむせび泣いたりと、とにかく騒がしかったというのに。
だから性質の悪い好奇心がほどよく刺激され、あろうことか自分からわざわざ侵入者へ近付いていく。女性でなくとも、一般人にはあるまじき行為である。
正体はこれまで同様男で、長身の良い背中だった。白いシャツに黒のカーゴパンツというラフな格好にグローブをしている。
一番目に止まったのは真っ赤なミリタリーブーツだ。紐までとにかく赤い。そのせいで、髪が真っ白なことに驚くのを忘れた。
派手だなあと釘付けになりながら、鈴音は首を隠している微妙な長さの髪を遠慮なくわし掴んで――まだ髪色に気付いていない――顔を拝む。そこで絶句することになる。
とりあえず肌が白い。リアル白雪姫がいると、やっぱり思考は斜め横にズレていたが、自分ので見飽きている綺麗な顔というものに息を呑んだのは初めての経験だった。
しかも、だ。特徴的というべきか、独創的というべきか。唇がブーツと同じくりんごのように鮮やかな赤で、閉じられた目は黒く縁取られている。
そういうメイクかと思って無意識に線を掻いてみたけれど、爪にアイライナーが付いたりはしなかった。
無反応を貫いていた人物が唇を動かしたのは、髪も純白であることにやっと気付いてまじまじと眺めていた時。
「…………痛い」
かろうじて聞き取れるぐらいの小さな声と薄さだった。
だから鈴音もうっかり「あ、ごめん」などフレンドリーに対応してしまい、しかも反射的に手を離してしまう。
するとどうなるか。支えを失った顔はとうぜん落ちる。
ゴン! と、部屋では痛々しい音が響いた。
「…………ひどいっ」
それでもやっぱり声は小さかった。
しかし、どこか湿っぽかったので、涙ぐんでいたのかもしれない。
◇◇◇
住宅街ではほとんどの明かりが消える時間帯ながら、とあるマンションの一室では光が溢れていた。
そこの家主は現在、リボン付き猫耳フードのルームウェアという可愛らしい格好で、両手両足を手錠で拘束されたまま正座する二十代後半と思しき男性の前で仁王立ちという、なんともシュールな状態を維持している。
「で? 今の説明をもっと掻い摘んで簡単に、んでもって今度は正直に!」
「それは信じてないと言ってるのと同じ」
念の為に言っておくと、そういったプレイで楽しんでいる恋人の図ではない。
鈴音はとりあえず、なんだか人間っぽいけどどこか違う侵入者相手に、弁解のチャンスを与えているところだった。
普段はそんなことしないのだが、如何せん相手の瞳が明らかに人ではなかったのだ。本来白目な部分は薄青色で、素晴らしくつぶらだった。
ちなみに人間離れした顔の造りには三分で慣れた。美形であればあるほど飽きるスピードは早いのだろうか。
「とにかくもう一度。名前は?」
「幸野桃李」
「歳」
「にじゅう……は、ち?」
「さっきあんた26つったでしょうが!」
「じゃあそっち」
どちらかといえば、気にする余裕がないほど鈴音が苛立っているせいかもしれない。
額にたんこぶを作っている幸野と名乗った青年は、自分の立場を分かっていないのか発言に責任がことごとく抜けていて、なによりも声が小さい。とにかく小さい。鈴音が怒鳴れば簡単にかき消えてしまう。しかし今以上の声量は無理らしい。
さらに元から短気な鈴音を噴火させつつあるのが、幸野のとんちんかんな主張であった。
なんでも自分には鍵はあってもないのと同じで、届けものをしに来ただけ。用事が済めばすぐ出て行くそうだ。
意味が分からない。嘘でももっとマシなのが用意できる。
だからこそ面倒でもふりだしに戻ったのだが、興奮した鈴音の頭からは、人じゃないかもと思ったことがすっぱりと消えている。
説明は尋問へ。まあ、それも無駄な努力なのだけれど。
「職業は」
「天使のはね宅配、日本第四十六支部勤務の配送スタッフ」
「届け先に不法侵入する業者があるかー!」
壁の厚い家でなければ、とっくに近隣から苦情が来ているだろう。特に今のは、これまでで最大のツッコミだった。
幸野が「うるさい……」ぼやきながら、キーンとした耳に眉を顰める。それが落ち着く頃、鈴音もまたある程度は息が整った。
「よーし分かった。あんたが宅配のお兄さんだって言うんなら、出すもの出せ。そしたらまだ酌量の余地をあげるから」
「酌量……?」
「私の友達に喰わせるのはやめてあげるっつってんの。いーからさっさとしろ」
良く分かっていない幸野はともかく、鈴音は右手を突き出した。
その手のひらを見つめてから承知したと動こうとして、自分が抵抗できない状態なのを思い出したようだ。かなり綺麗な姿勢で正座を保っていたのは、意識していたわけではないということ。我慢強いかと思いきや、ただ暢気で鈍感なだけだった。
鈴音は疲れきって項垂れた。
しかしそれも続かない。
「……なに」
「取り出せない」
幸野の訴えで生まれる深いため息。
「どこにあんの」丸腰なくせして、まだ嘘だと認めないのをいっそ褒めたくなってくる。
いや、本当だろうとはおいおい感じていた。そういうのは目で大体分かる。
しぶしぶ尋ねると、彼は胸ポケットへと視線を落とした。喋れよと言ってやりたかったが、それについても声を出すのが得意じゃないのかもと考えれば我慢するしかない。
示された場所へ乱暴に手を突っ込めば、そこにはなにやら小さな物体が一つ入っていた。
「これが?」
「そう」
種だった。まごうことなき小指の爪サイズな植物の種。
しかしどうだろう、正確には違うのかもしれない。クルミの殻みたいな濃い茶色をしたそれには、今まさに出てきましたといわんばかりな双葉の芽があった。
とりあえず鈴音は見たことがない。それでもこれが宅配の品だとして、裸なのはどうなんだ。伝票もない。
頬がはっきりと引きつっていた。
しかし幸野は当然に言う。
「食べて。そしたら仕事完了」
条件反射で頭を叩いていた。中身のつまっていない軽い音がした。
それでも怒りにまかせ種を潰さないあたり、鈴音の性格が表れている。
「んなことできるかあ!」
たとえ幸野が涙を浮かべるほど悲しそうな表情をしても、こればっかりは鈴音が正しいといってやれるだろう。
「なにが天使のはね宅配だ! なにが日本第四十六支部だ! ていうかそもそも、こんな時間に来るわけないじゃん! あたしってば何やってんの!? あー、疲れてる。ほんと疲れてるわ」
「でもそれ食べないと、赤ちゃんできない」
「…………………………は?」
遅ればせながら現実逃避しかけた鈴音の時が止まった。
その目の前で、幸野は弱ったといった顔で彼女を見上げていた。
今こいつ、なんて言った? 子供がどうとか言ったか? 鈴音は見事に混乱している。
しかも、消化どころか呑み込むのも間に合っていないというのに、真っ赤な唇は重ねて爆弾発言を繰り返す。
本人はいたって真面目に説得をしているつもりなのかもしれないが、ことごとく空ぶっているというか、そもそも二人はすれ違っている気がしてならないのだが、残念ながらそれを指摘してやれる第三者がこの場に居なかった。
「ああ、そっか。知らないのか。少し前から人間だけ、神様が誕生を管理してる。生殖行為は形だけで、種を食べさせることで赤ちゃんができる仕組みになった。その届け役が俺の仕事」
「もしかして、だからコウノトリ?」
「それは単純に、名字が幸野で親がおもしろいからって。そもそもシュバシコウだし。あの伝承は俺たちについてで、コウノトリとは親戚みたいなもの。ここらへんの説明って面倒……。みんな言ってる。いっそひと括りにしたらって意見も出てるぐらい」
さも当たり前ですといった様子で話す幸野は、最後に「いっぱい話して疲れた」そう呟いてから、再度鈴音へ種を食べるよう促した。
混乱し過ぎて危うく従いそうになった。
ちょっと待ちなさい! 必死な形相で止めてくれたのは、去年亡くなったはずの祖母だった気がする。
「つまりはなにか? あんたは本当はコウノ……ああ違うのか。シュバシコウ? って鳥で、私に子供を授けるためここに来たと」
幸野が頷いた。分かってくれて良かったと満面の笑みで。
しかし疑問はまだあった。とりあえずこれまでを真実としておかなければ話が進まないので、本心としては全却下したいのを耐える。
そして、真実とした上でも絶対に確認しておかなければならないことを鈴音はきいた。
「んじゃ今は、ヤるヤらない関係なく人間には子供ができる時代ってことになる?」
だとしたらなんという世紀末だ。
けれど、幸野はその質問に対して不思議そうに首を傾げる。
おや? と両者の思考がやっと一致した瞬間だった。
「どうしてそんなことをきく」
「あんたが形だけって言ったんでしょうが」
「そんなことしたら色々大変になる」
「なるでしょうよ! 学問的にも生き物的にも!」
「うん。だから形だけだけど、神様もちゃんと考えてる」
今度も種を潰さなかったのは奇跡だ。
鈴音は幸野の空っぽな頭めがけ、全力で回し蹴りをお見舞いした。
鳥であるらしい立派な身体が床を転がる。けれどそうさせた張本人はまだまだ不満で、近くにあったリモコンを投げつけた。
そして、厚い壁も外とを隔てる窓も無力化しそうなほどの大声で叫んだ。
「あたしは処女だああああ――――――――――!」
三途の川の横で日向ぼっこをしかけてしまった幸野が、そのおかげで生還できたと鈴音が知って爆笑するのは後日談である。教えてやるどころではなかった。
彼としても近年稀にみる素早さで反応し、声量も普段の倍は出た。
「その顔で?」
哀れ、それが禁句だとも気付かずに。
「だぁれぇがぁ、軽い女だってぇ?」
「あ、ごめん。違う。綺麗だからてっきり選り取りみどりかなって」
「それはお前の話だろう! あたしは一途な予定! 期待なんざしないがな!」
逃げたくても魚のように跳ねるぐらいしかできないので、さすがの幸野も地を這う声になんとか弁明し命を守った。
とはいっても、すぐに「おかしいなあ……」と意識を疑問点へ移せるのは、仕事人間(鳥?)だからか、ただ図太いだけなのか。
そんな彼の見つめる先では、はからずも男相手に暴露してしまった鈴音が肩で息をしている。これ以上の噴火はまずい。
そこで幸野は確認のため、なにもない空間を見つめて短く数回歯を打ち鳴らした。
するとどうだろう。ポン! と気の抜ける音と共に彼の前へ、宅配のお兄さんがよく持っている伝票の束が現れた。
これには鈴音もさすがに黙ってしまう。
今がチャンスとばかりに、幸野は目を動かすだけで伝票を捲る。宅配済みらしきものには大きく×印がつけられていた。
そして目的のものを見つけ「やっぱりそうだ。おかしいな」ぼやく。
「合ってる……。303号室、相澤鈴音さん。神様も疲れてるのかな」
「ここは302号室、あたしは相川鈴音だ――――――!」
つまりはまあ、配達ミス。こっちの方が近いから良いやと横着をして、窓から入ろうとしたのがいけない。
幸野がうっかりしていたせいで、鈴音の睡眠時間は大幅に削られたのである。
それからしばらく、部屋では怒鳴り声がなかなか止まなかったらしい。
「あんたのせいで、あたしは危うく聖母になるとこだったわ!」
「配達ミスした時の対応方法、マニュアルにあったっけ。帰ったら調べよう」
そんな不運な鈴音に、これまた変わった……といか、とうとう人間じゃない友人が複数増えるのは、もう少ししてからのこと。
旦那さんから直接種をもらうのは、もっともっと未来のお話――
魅力的な企画すぎて、おもわず書いてしまいました。
少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。