第3話 魔境開拓ログ:リソース名「シル」の登録と、巣作りの誤認
第3話です!
魔境の第一夜、飲料水すら危うい最悪の環境に飛ばされたロア。
伝説の銀狼を「巨大な抱き枕」にしてしまい……!?
物理的な安眠と、一方的な勘違い。二人の夜は更けていきます。
絶叫の残響が、遺跡の瓦礫に吸い込まれていく。
ロアは両手で顔を覆ったまま、指の隙間から「高画質な全裸の推し」を睨みつけた。決して雄としての重要事項を見るためではない。
「……とにかく! 個体識別ができないと不便だわ。名前は何ていうの? 管理用IDがないと指示も出せないじゃない」
ブツブツと言い訳をするようなロアの問いに、男――銀狼は、満足げに深く頷いた。
名を問う。それは彼の種族において、魂を差し出す覚悟を問う、最も尊い求愛の儀式だ。
「俺の名は――古の月光を溶かし、銀の山嶺を統べる者、フェンリィ・シルヴァリウス・ヴォル・フォー……」
「長いわね。読み込みに時間がかかるわ」
食い気味に、ロアが断じた。
「……長い、だと?」
「ええ。呼び出しエラーの原因になるわ。……そうね、今日からあなたは『シル』よ」
シル。あまりに短い、けれど彼女が自分のために編み直した、世界に一つだけの識別名。
彼は震えるほどに感動した。真の名を捨て、自分だけに許される愛称を授ける。これこそ、生涯を共にする誓い、即ち「番」の契約そのものではないか!
「……シル、か。ふむ、お前がそう呼びたいのなら、そう名乗ろう。俺を縛るが良い、我が番ロアよ」
(束縛って何よ……。まあいいわ、管理しやすい方が助かるし)
ロアにとっては単なるデータ整理だが、シルにとっては「お前だけのものになる」という激重な誓約。この認識の齟齬は、修正される兆しすらなかった。
「さぁ即刻、元の銀狼に戻りなさい!」
ロアの悲鳴に近い命令に応じ、光の粒子が収まると、そこには銀色の毛並みが美しい巨大な狼が座っていた。
「……不満だな。人の姿の方が、お前の好みを反映していて都合が良いのではないのか?」
「こっちの方が断然落ち着くわ。さっきのはテクスチャの解像度が高すぎて、私の精神回路に悪すぎるのよ!」
「てくす……ちゃ?」
シルは首を傾げる。しかしロアはそれをスルーし、荒くなった呼吸を整えながら、周囲の澱んだ大気を理回路でスキャンした。環境ステータスは、どれも真っ赤な警告色を示している。
「はぁ……。住環境としては最悪、Eランクね。OSの再インストールが必要だわ。環境の再構築のため……明日はまず、拠点周囲の『空気清浄結界』を構築しなきゃ」
ロアにとっては単なるデバッグ作業の予定表。しかし、シルの瞳には期待の光が灯った。
「住環境……。ほう、お前は早々、俺と共に過ごす『巣作り』の計画を立てているというのか?」
「巣作り? っていうか、インフラ整備なんだけど……。まあ、似たようなものね」
適当に返した言葉が「求愛への快諾」として処理されたことに、彼女はまだ気づいていない。
ふっ……と、ロアは緊張の糸が切れたように膝から崩れ落ち、シルの豊かな首まわりの毛並みに、吸い寄せられるように顔を埋めた。
「大丈夫か?」
「ああ……これよ、これ……。最高級のサーバーラックより温かくて安心する……」
ロアはうっとりと目を細め、シルの脇腹あたりにグイグイと身体をねじ込んでいく。シルは突然の熱烈な密着に、金色の瞳を丸くして固まっていた。
「……我が番よ。先ほどはあんなに拒んでいたというのに、今は随分と……その、貪欲なのだな。これが『ツンデレ』というものか?」
彼の中に同期したロアの前世の記憶から最適な単語を引っ張り出す。
「もう……私はいま、極限までリソースを消費してるの。次の作業までに急速充電が必要なのよ……」
ロアはシルの長い毛を掴み、その中に深く潜り込んだ。魔境の冷たい風も、腐敗した魔力の臭いも、この圧倒的な銀色の毛布の中では完全に遮断される。
「いい、シル。一歩も動かないで。もし動いて私がこのモフモフから零れ落ちたら、管理者権限で……一生おやつ抜きにするからね……」
「……っ。おやつ抜き……とは?」
おそらく、番との交配に必要な、魂を削るような尊い儀式に違いない。シルはごくりと唾を飲み込んだ。
「心得た。お前の安眠を妨げるものは、この俺がすべて排除しよう」
世界をリセットすると言われる伝説のフェンリルは、今や一人の少女の休憩のためだけの、巨大な高級寝具へと成り下がっていた。
(……あぁ、これ……最高……。ホワイトな隠居生活って……こういうことよね……)
ロアの脳内では【外部熱源を利用した最適スリープモード】として処理されていたが、傍から見れば、それはまさに「番」の睦み合い前のじゃれ合い。
(……すぅ、すぅ……)
シルの懐の中で完全に「スリープモード」に移行したロア。無防備に喉元の毛を握りしめ、時には「むにゃ……この抱き枕、最高……」と頬を擦り寄せてくる。
対するシルは、月明かりの下で石像のように硬直していた。
(……人の仔よ。お前は、自分が何をしているか分かっているのか?)
彼女の無邪気な行動が、どうやら己の感じた「番」との交流とは異なることに、彼は気が付きつつあった。
出会ってすぐ強引に繋いだ唇の熱。その余韻も冷めぬうちに、今度は全身の重みを預け、「動かないで」と縋るように密着してくるのだ。
(……だが、今夜は、この澱んだ空気すら甘く感じる。……くっ、我慢だ、シルヴァリウス。これも、番が俺に与えた愛の試練……)
これほど熱烈な接触を繰り返しながら、肝心な一歩先へは進ませない。
――これが人の世の「焦らし」という高度な術策なのか。
(……まぁ、良い。俺には時間は、いくらでもあるのだ)
今日が「お預け」なら、明日は。明日が駄目なら、数年後は。
数万年を孤独に過ごした彼にとって、番を完全に手懐けるまでの数十年など、瞬きほどの間隔に過ぎない。
(ゆっくりと、逃げられぬよう俺の色に染めてやろう……。おやすみ、俺の小さなロア……)
シルは大きな尾をそっと丸め、ロアを包み込むと、満足げに瞼を閉じた。
眠りについたロアの、その閉じた瞼の奥。
同期の影響か。紺碧だった彼女の瞳には、シルの魔力と同じ黄金の虹彩が不具合のように混じり始めていたが――今の彼女は、まだそれを知らない。
汚染された魔境で、伝説の魔獣が初めて「明日」という概念に期待を寄せた、記念すべき夜となった。
第3話をお読みいただきありがとうございました。
ロアにとっては「効率的なスリープモード」でも、シルにとっては「極限の焦らしプレイ」。
魔獣の野生をも狂わせる、エンジニア令嬢の無防備な猛攻(?)は始まったばかりです。




