第16話 乙女のバグ。
第16話です!
魔境のホワイト拠点に訪れたのは、甘い生活……ではなく、マーサによる厳格な「風紀検査」。
理屈では割り切れない、ロアとシルの「正解の温度」とは!?
桜焔の神殿の最奥にあるロアの寝室前で、今夜も静かな、しかし熾烈な攻防戦が繰り広げられていた。
「……却下です、シル様」
いつものようにもっともらしい理由を並べ立て、ロアと同じベッドに潜り込もうとしたシルを、マーサの鋭い声が引き留める。人化した姿で枕を抱え、絶望の表情を浮かべるシル。その前には隙のない身なりでマーサが仁王立ちしていた。
『……なぜだ。俺とロアは番だ。同じ時間を共有する特権があるだろう』
「いいえ。正式な儀式も経ていない男女が同じ寝床に入るなど、私の目の黒いうちは見過ごせません。シル様、お部屋はあちらです。……さあ、シッ、シッ!」
マーサはまるで、行儀の悪い子犬を追い払うかのように手を振った。
『ぐぬぬ……。ロア! お前からも何か言ってくれ! このままだと、俺の魔力回路が孤独で凍結してしまう!』
シルは悲痛な声を上げ、半開きのドアの向こうへ助けを求める。しかし、ロアはといえば、マーサに飲まされた特製ハーブティーの安眠効果ですでに夢心地だった。
「……んー。シル、マーサの言うことは絶対よ……。おやすみ……」
『ロアぁぁぁ!!』
番からの無慈悲な一言に、シルは膝をついた。
この日から、日課として当たり前に享受していた「特権」の数々に、マーサによる厳しい検閲が課せられることとなった。端子接触は「はしたない」と却下され、お風呂での背中流しも「侍女の仕事」として権限を剥奪された。
マーサの言い分は、あまりにも「正論」すぎた。神獣であるシルですら、抗うことのできない論理的防壁であった。
「……旦那、元気出せよ」
翌朝、庭の隅で巨大な銀狼の姿に戻り、ふて寝しているシルに、騎士バルドが同情混じりの声をかけた。
『……黙れ、裏切り者め。お前たちもマーサの味方をするのか』
「いや、俺たちだってマーサさんには逆らえねえよ。……でもさ、あんたがもっと『紳士的』な態度を身につければ、彼女も少しは軟化して、接触権限を広げてくれるんじゃないか?」
『……紳士的……。……バルド、その「紳士」の詳細を教えろ。今すぐ学習する』
黄金の瞳に、新たな闘志が宿る。
バルドとジギ。この二人の騎士は極めて有能であった。バルドは卓越した剣技をもって巨大な食材を瞬時に捌き、ジギはその隠密魔術にて周囲の危険をミリ単位で探知する。特に、シルやエリュシオンといった強大な魔力が集うこの神殿には、良からぬ野心を持つ眷属も引き寄せられる。それらを未然に防ぎ、神殿の平穏を武力と知略で維持するのが彼らの本分である。
そんな「プロ」たちが口を揃えて説いた『紳士の道』を、シルは愚直なまでに守ろうと決意した。
それから一週間。拠点のセキュリティと秩序は完璧に保たれていたが、主であるロアの挙動には、明らかな不具合が出始めていた。
「……あ、シル。配管のチェック、終わったわよ」
『……。ああ、了解した。では、俺はパトロールに行ってくる』
シルは、騎士たちから叩き込まれた紳士の距離感を忠実に守り、ロアに指一本触れることなく、優雅に一礼して去っていく。
「…………」
背後で扉が静かに閉まる。いつもなら強制的に割り込んでくるはずの「熱量」が消失し、部屋の処理速度が不自然に上がったような、奇妙な空白がそこにはあった。
「…………」
ロアは宙を掴むように指を動かし、誰もいない空間を振り返る。
「……えっ、それだけ!?」
以前なら「俺の番!」と背後から抱きついてきたはずの接触が、一切ない。お風呂に入っても銀色のモフモフはなく、寝る時も背中に感じていた「うるさいくらいの鼓動」がない。
「……なんか、部屋の温度設定間違えたかしら。スカスカするっていうか……」
そこへ、ハーブティーを持ったマーサが、すべてを見透かしたような笑顔で現れた。
「ロア様。設計図を逆さまに見ていらっしゃいますわよ。……お寂しいのでしょう? あの、少々ガサツで、けれど熱烈な愛情表現が」
「……っ。……そうなのかな」
ロアは視線を落とし、自分の腕をさすった。床暖房は完璧な温度を維持しているはずなのに、シルの「過剰なまでの体温」というブーストがなければ、システム全体の熱量が足りないのだと、本能がログを吐き出している。
「だけど、そういうの、非効率だと思うの……」
「効率だけで心は動きませんわ。……私、十分ほど席を外しますわね」
ロアは呆然とその場に立ち尽くし、テラスで銀狼の姿のまま夜風に吹かれていたシルの背中を見つめた。
人化していない姿。なのに、銀色の輝く毛一本一本に愛おしさがこみ上げ、息苦しさを感じる。
「――ロアか」
シルが「紳士」として立ち上がろうとした瞬間、ロアがその隣にすとんと腰を下ろした。
「……ロア? 具合が悪いのか?」
「――そう、具合が良くないの」
心臓がうるさい。この深刻なバグの「原因」は、どこまでも純粋に自分を心配している。そのギャップが、ロアの理性をさらに溶かしていく。立ち上がろうとするシルの毛を、ロアは反射的に、けれど力強く掴んだ。
「……行かないで。誰を呼んでも、このエラーは直らないわ。……そばにいて」
それは、ロアが鉄壁の論理を放棄した、事実上の降伏宣言だった。ロアに掴まれた毛束を見ながら、シルは言った。
「紳士は……淑女に安易に触れてはならないらしいぞ?」
シルの動きが止まる。淑女に熱く見つめられた時、紳士はどうすべきか。バルドたちの教えを必死に検索する。
(紳士は……スマートに微笑み、優しく手を取るものだ。だが、手を取るには……!)
シルは己の黒い肉球をちらりと見た。これでは手は取れん。
瞬時に銀狼から「推し」の姿へと変化し、月光に照らされたシルの指先がおずおずとロアの手へ伸ばされる。しかし、至近距離で潤んだ瞳を見つめ返された瞬間、彼の中に構築されかけていた『理性』が音を立てて崩壊した。
「……っ、無理だ。紳士などやっていられるか!」
シルはそのままロアを抱き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
「心に決めた雌にそんな顔をされて、手を取るだけで満足できるなど、雄ではないわ」
吐き捨てるように言ったシルの腕の中に収まったロアは、ようやく必要としていた熱量に触れ、安堵したようにその胸に顔を埋める。
「でも、紳士らしいスマートな対応ではないわね」
そう言いながら、ロアはシルにぎゅうっと抱き着いた。二人の鼓動が同期し、冷え切っていた神殿の最奥は、ようやく「正解の温度」に上書きされたのである。
ちなみにとっくに10分は過ぎている。マーサは物陰からこの光景を見守っていた。シルがロアの頬に手を伸ばし、さらなる深度を試みようとした瞬間に、彼女が素早く飛び出し、主を奪還ったのは言うまでもない。
第16話をお読みいただきありがとうございました。
シルの紳士ごっこは短命に終わりましたが、ロアの「そばにいて」というデレには、神獣の理性も一瞬でクラッシュしてしまったようです。
そして、絶妙なタイミングで現れるマーサのガードスキル……。彼女こそがこの拠点の最強のファイアウォールですね。次回、お楽しみに!




