復讐の魔術師
戦記の感想企画のために書いてましたが間に合わず……。
「この戦争も長いもんだね」
「ああ、この子が生まれる前からやってるからねえ」
「でも助かるよ。市街地ではドンパチやらないし、戦争って言っても静かなもんじゃないか」
「そうは言っても戦時中だ。嗜好品だって祭りだって制限されてるじゃないか」
「そうだけど、先の戦争に比べたらさあ」
「あのときはすぐに終わったじゃないか。我が国の圧勝だ。今回だって、こっちが勝つに決まってる」
「そうだといいんだけどねえ」
静かな戦争であると感じているのは市民だけではなかった。それは国をまとめる国家元首、そして国を支える者たちが集う場所においても同じような雰囲気が漂っていた。
新興国家アルグレインは軍事力を基盤とした国家であり、元首はまだ若く、現役で戦場に立っても違和感のない身体つきに風貌。厳しい顔つきは見るものを萎縮させるが、彼を知る者ならば、彼が理不尽な暴力を嫌い、国に忠心を捧げ、何よりも国民の安全を優先する男だと言うだろう。
「ファルシードは何を言ってきたと?」
アルグレイン国家元首ヴァルド・エルネスト・アルグレインは疑うような声色で聞き直した。
「こちらの書状とは別に、ラシール・ファルシード七世より『貴国に滞在している思われるシュルヴェステル・ヴィサスの即時返還を求む』との伝言です」
停戦協議に参列していた外交官が緊張した声色で同じことを一字一句間違うことなく繰り返した。彼の言う書状は既に開封されヴァルドが目を通し、そして今は他の者たちがそれを読んでいるところである。外交文書らしく堅苦しい文章でしたためられたそれは、停戦にあたりあれはこうしろこれはこうしろといったいくつかの要求が書かれている。そのどれもが傲慢で、まるで戦勝国気取りの要求ばかりだ。
「おれの記憶が間違ってなければ、それはハプト・シュルヴェステル・ヴィサスのことだろうな? 彼は先の戦争時にファルシードが持っていったのではなかったか?」
「そのとおりです。あの連中は、捕虜の保護とかいう名目で旧ファウリ=サエンの主だった者たちを連れていきましたね」
ヴァルドの問を肯定したのは、彼の右腕たる執政官だ。その口調にはやや棘があり、ファルシード側の行為をよく思っていないのが伝わってくる。そもそもこの部屋の中にいる者たちの中に、ファルシードを快く思っている者など皆無なのだから当然だ。
「それで、どうしてこちらに彼がいると主張しているんだ? なにか根拠でも?」
「それは伺っておりません」
「だろうな。誰か心当たりのある者は?」
頭を垂れる外交官を横目に、ヴァルドはそこに集まる面々を見回した。
ここに集まるのはアルグレインの中心を担う者たちだ。皆一様に歴戦の戦士の顔をしており、いかにこの国が軍事力に支えられているのかがわかる。視線を泳がすヴァルドの目が一人の男の上で止まる。
「グレンマーク。なにか情報は?」
エルド・グレンマークは武功に優れ、若くして将軍へと上り詰めた実力派の武人だ。その身体は見事なまでに鍛えられ、いくつかの傷がそれを彩る。真面目そうな顔つきだが、その表情は柔らかく、彼が戦場で見せる鬼神ぶりを微塵も想像させない。
「報告はあがっておりません」
「だろうな。隠れて逃げ込まれたんじゃ探しようもない。とはいえ、あの外見だ、彼は目立つ。目撃情報があれば伝えるとでもファルシード七世には伝えるんだな」
「我が国にシュルヴェステル・ヴィサスはいないとの回答でよろしいでしょうか?」
「そうだ。我々は知らん」
きっぱりとそう言い捨て、ヴァルドはもうこの議題は終わりだと言うように手を振った。外交官は神妙な面持ちで頷き、外交文書に記載されている別の要求についての検討を始めた。
ヴァルドは少し年は離れているが、古くからの友人である将軍へとちらりと目を遣る。外交官の話に耳を傾けるエルドの表情は一切崩れることはなく、ヴァルドはすぐに次の議題に頭を切り替えた。
「アルグレインからの回答は、『そんなものは知らぬ』とのことであります、我が王」
「ふざけるのもいい加減にしろ!」
数段高くなっている場所に設置された玉座に座っていたラシール・ファルシード七世はその手に持っていたグラスを床に投げ捨てた。力一杯叩きつけられたグラスは粉々に砕け、その中身は派手に撒き散った。アルグレインからの伝言を伝えた外交官は反射的に身を縮めたが、態勢を崩すことなく直立不動を保った。ファルシード七世は苛立ちを隠そうともせず玉座の肘掛けを何度も殴りつける。
「あれがアルグレインへと向かったのはわかっているんだ! 私から隠し通せるとでも思っているのか? あれは私の物だ!」
正気を失っているのではないかと疑うほどの剣幕だったが、外交官は顔色を変えない。彼らは王の前で個を曝け出してはならないと徹底教育をされている。ここファルシードにおいて王は絶対的な存在であり、その機嫌を損なえば即座に殺されてもおかしくはない。古くからの血筋である王族は何よりも尊く何者よりも優れているからだ。
しかし、激昂し怒りが収まらない様子だったファルシード七世は突然ぷつりと何かが切れたかのようにふわっと玉座に座り直した。両手でその平凡極まりない顔を覆い、そして深い溜め息をついた。
「はあ……仕方ない。これはあれが招いた事態だ。私もこんなことはしたくなかったんだが……」
ファルシード七世は正面に立つ外交官ではなく、玉座の後ろ側に控えている男に手をひらひらと振ってみせた。
「潜らせろ」
王の指示に、控えていた男は深々と頭を下げ、足音を立てることなくその場から消えた。ファルシード七世にはその男が消えたことは視認できなかったはずだったが、いなくなったことを確信した態度で、今度は外交官を指差す。
「暫く時間を稼げ。その後は戦だ。結局それが一番手っ取り早い」
冷酷極まりない声に、外交官は背筋がぞっとした。しかしそれを表に出すことはなく、彼は自分に課せられた任務をこなすために王の前を去った。彼が部屋を出る間際に、ファルシード七世はまた怒りが込み上げてきたのか、何者かを怒鳴りつけているのが聞こえてきた。だが自分の命が大切な人間ならばそんなものは見なかったことにするのか定石であり、例に漏れず彼もそうすることにした。
*
戦時中にありながら、将軍職にあるエルドが首都の自宅に帰宅することが叶うのは、現在破談一直線ではあるものの、一応停戦協議中であるためだ。そして同時に、現在アルグレインが抱えている戦争は、彼らからするとまるで子供のごっこ遊びのような有り様であり、将軍が出張るほどのものでもなかった。ファルシードはまるでなにかを隠そうとしているかのように小さな小競り合いのような戦闘を不定期に起こすのみで、大きな戦いを始める様子もない。一体何のための戦なのかとアルグレイン側は疑い始めている。
今回の停戦協議も突然ファルシード側から提案されたことであり、アルグレイン側からしたら寝耳に水。大規模交戦となれば明らかにアルグレインの方に分があることは素人目にもわかることだ。ファルシードが敗戦を恐れて停戦協議を持ちかけたのかと考えられていたが、国王個人の伝言を聞くにあたり、エルドは停戦協議の理由を知った。
「帰ったのか」
「貴方の予想通りでしたよ。ファルシード七世は貴方を探すために停戦協議を持ちかけてきたようです」
「では引き渡してくれ」
「それは出来ません。我が国に貴方はいないことになっています」
銀糸のような神々しくも美しい髪は陽の光を受けきらきらと輝き、まるで宝石が如く美しい紫の瞳は見る者を魅了する。陶磁器のように滑らかな肌と適度に鍛え上げられた肉体は、その身体を隠す服の下がどうなっているのかを想像させる。アルグレインでは男に対して美しいという言葉を使うことは稀だが、この人物に対しては美しいという言葉以外が出てこない。男女問わず容姿が美しいことで有名な旧ファウリ=サエンの魔術師たちの中でも、彼は特別美しく、そして恐るべき強さを誇る。それが彼、シュルヴェステル・ヴィサスだ。
「どうして庇う」
「貴方は被害者です。そしてその責任は我々にあります」
シュルヴェステルは美しかったが、その顔には疲れが垣間見え、そしてよく見ればその毛髪も手入れが行き届かずパサパサになっているのがわかるだろう。そして何より、首に食い込むようにつけられた首輪。両手首にも同様に食い込むような大きさの枷。それらを繋ぐ細い鎖は魔銀製で、細かく魔術が刻まれた魔道具だ。最強の魔術師と呼ばれるシュルヴェステルでさえ、その拘束を解くことが叶わない。忌まわしき拘束具たち。
「戻らなければ」
「なりません」
この会話は日に何度も繰り返される。シュルヴェステルの美しい紫の瞳は時折知性が戻る以外、ぼんやりとした光を宿すのみ。鈍い光を放つとき、彼は決まって同じことを繰り返す。
「ラシールの元へ戻らなければ」
「駄目です」
エルドは根気よく何度も繰り返す。シュルヴェステルは口ではそう繰り返し呟くが、逃げ出そうと動くことはなかった。ただじっとどこかを見つめ、帰らなければならないと主張する。それが彼の意思ではないことは彼をよく知らない人物でも理解できるだろう。
どうしてシュルヴェステルがこんな状態になってしまったのか。エルドは本人に直接問いただすことも出来ないまま、彼を自分の館で匿っていた。別に彼と親交があったわけでもない。ただずっと昔に一度だけ会話をしたことがあるだけの仲。決して命を賭すような関係ではなかった。
旧ファウリ=サエンの人間と思われる人物を保護したという報告を受けたとき、エルドはまだ国境付近に設えた軍事拠点にいた。小さな交戦を繰り返すファルシードの意図が読めず指揮本部にも苛立ちが漂い始めていた頃で、そんなくだらない用事で手を煩わせるなと部下を怒鳴りつける物もいる始末だった。
旧ファウリ=サエンの民たちは今回の戦では招集していないし、旧ファウリ=サエン領も地理的に遠い。彼らが保護される理由がないと不思議に思い、保護されたという人物を見に行った。衰弱していたため救護室で手当を受けていると聞いていたエルドがそこへ向かうと、治療師が深刻な顔でエルドを呼び止め、当該人物は個室に移動したと言い、彼に耳打ちした。
「彼は一般市民ではありません。あの容姿、間違いなく協議会員です」
旧ファウリ=サエンは共和制で、いくつかの氏族が協議会員として所属し、国の決定を行っていた。しかしファウリ=サエンはこのアルグレインとの戦いに敗れ、協議会員は捕虜として捕縛された。そして彼らは第三国へと保護されていった。そんな経緯を持つ旧ファウリ=サエンの協議会員がこんなところで発見保護されることなど本来ならあり得ないことだ。
エルドは眉を顰めたが、治療師は間違いないと確信している様子だ。それもそのはず。旧ファウリ=サエンの協議会員といえば見目麗しく人間離れしていることで有名だ。一目見れば協議会員だとわかるほどに容姿が整っていると言われるほどなのだ。
エルドは治療師の言葉を半信半疑のまま個室を訪れ、そして言葉を失った。
痩せてはいるがやつれてはいない。しかし目は虚ろで拘束具が目を引く。明らかに捕虜ではなく奴隷のような扱いを受けていたのだろうということが想像できる姿。しかしそれでも尚、彼がシュルヴェステル・ヴィサスであることは疑いようもなかった。しかしどうしてか、その姿に違和感が残る。エルドはすぐに気付くことが出来なかったが、シュルヴェステルは歳を取っていなかったのだ。
魔術に長けた旧ファウリ=サエンの民だとしても、同じ人間である以上老いる。そしてこの世に若返りや延命の魔術は存在しない。そのはずだ。だが、そんな魔術が存在していることにしなければ説明がつかないほど明らかに、シュルヴェステルは老いていなかった。
虚ろな瞳でどこか虚空を見つめるその姿は、エルドが十数年前に見た姿と寸分違わず、もしかしたら当時よりも若い可能性もあった。しかし他人ではない。彼はシュルヴェステル・ヴィサスだった。
「何があった……?」
若き頃の憧れであり、戦士として尊敬する大魔術師であるはずのシュルヴェステルの変わり果てた姿は、エルドにとてつもなく大きな衝撃を与えた。先の戦いではファウリ=サエンは確かにアルグレインに敗北を喫した。しかしシュルヴェステルを含む協議会員たちは身柄を拘束されたものの、捕虜として第三国へ渡ったはずで、こんな奴隷同然の扱いを受けているはずがない。
そこではたとエルドは思考の歩みを止めた。
ファウリ=サエンの議会員たちを受け入れた第三国とはつまり、ファルシードだ。今現在アルグレインと敵対し、そしてまるで時間を稼ぐかのようなくだらない小競り合いを繰り返している。
「時間を稼ぐ?」
エルドの脳内に、最悪の筋書きが想起された。ファルシードはファウリ=サエンの見目美しい議会員たちを保護するという名目で連れ去った。そして時間稼ぎ。それはつまり、彼らを奴隷に落とし、秘密裏に売り払う時間を稼いでいるのでは? 反抗できぬように調教し、逃げ出さないように洗脳するために時間が必要なのではないか? そしてそれは目の前にいるシュルヴェステルの存在で証明されるのではないだろうか?
ファルシードは古くから続く国だ。代々王族が絶対的な権力を持ち、いくつかの貴族家門がそれを支える構造になっている。表向きは外交上手で戦争の仲介なども進んで行い、平和な世が続くようにと尽力する。それ故に、国歴が浅く身分差のないアルグレインはファルシードを疑うことがなかった。今回の戦争であっても、些細な誤解が原因であり、小競り合いがあっても早々に和平合意がなされるものだと思われていた。
だがそれが誤解であったなら。アルグレイン側は考えを改めなくてはならない。それも早急にだ。
もしファルシードに裏の顔があり、ファウリ=サエン滅亡から今までの流れに裏の意図があったとしたら、アルグレインは間違った道を歩んでいることになるだろう。ファルシードにいいように踊らされて、争わなくて良い相手と戦い、そして騙してきた相手の甘言にまんまと踊らされてにこにこと間抜けな笑顔で握手することになるだろう。
「ハプト・シュルヴェステル・ヴィサス。アルグレインは貴方を保護します」
エルドは一将軍である自分には荷が重すぎる事態になってしまったことを感じ、手が震えるのを握り込むことで誤魔化す。もしかしたらただの杞憂や誤解かもしれない。その可能性は十分に残されている。だが、今この目の前にいる虚ろな紫の瞳は紛うことなき現実だった。あんなにも美しく、強い光を宿した瞳が、まるで死んだ魚の眼のように濁ってしまっている。
「貴方の身柄はアルグレインが受け入れます」
「私は、戻らなくては」
掠れて聞き取りにくいざらざらの声が呟く。かつてはささやき声でも腰を蕩かせると男女問わず噂になっていた色声も、今では耳障りな雑音が交じる。その声は目の前にいるエルドに言うといった雰囲気ではなく、それはただの独り言のようだった。まるで誰かに言わされているかのように。
「ラシールの元へ戻らなくては」
エルドの全身の毛が逆立った。虚ろな瞳と掠れた声で繰り返すその名は、他の誰でもないファルシード国王の名前だ。ラシール・ファルシード七世。それがすべての元凶であり、そして必ず殺すべき相手の名前だと、エルドはその名前を胸に刻んだ。
*
「ファルシードが大規模交戦の準備に入ったと情報が入りました」
エルドの静かな声に、緩慢な動きででぼんやりとした紫の瞳が向けられる。
保護したばかりの頃に比べればだいぶはっきりとしてきたが、それでも平常時の三割にも満たない。銀の髪は使用人によって手入れがなされていたが、その首と両手を繋ぐ枷だけは未だにそのままだ。皮膚に食い込み工具を差し込む隙間のないそれらを外す技術はアルグレインには存在していなかった。こればかりはファルシードの技術者を探し出すしか外す方法はなさそうだった。
「私を引き渡せばこんなことにはならなかったのに」
「大規模交戦はこちらも願ったりですよ。我々の戦力を見せて差し上げましょう」
「今からでも遅くない。引き渡せ」
アルグレイン側は、シュルヴェステルの言うことが本心なのか、それとも言わされているだけなのかの判断をすることが出来なかった。シュルヴェステルは何度も何度も自分をファルシードに引き渡せ、戻ると言い続ける。しかしその足は動くことがなく、目は虚ろなままだ。だが時々ぼんやりした状態から脱することがあった。
「戻らなければ同胞が殺される」
エルドの顔が強張る。具体的な情報を口にするとき、シュルヴェステルの意識ははっきりしているようだった。
「それはどういう意味ですか?」
「そのままだ。同胞が人質に取られている。私が戻らなければ殺される」
エルドがシュルヴェステルを保護していることは元首ヴァルドも承知の上だ。アルグレインは国ぐるみでシュルヴェステルを保護する方針を決めていた。これは先の戦争でシュルヴェステルを含む旧ファウリ=サエンの協議会員を捕虜として捕縛したにもかかわらず、無知ゆえにファルシードへと引き渡してしまったことに負い目を感じているからだ。こんなことになると分かっていれば、アルグレインは決して彼らをファルシードへと引き渡しはしなかった。
元首ヴァルドはエルドからシュルヴェステル保護の報を聞き、情報を探るにつれ、自分の判断に激しく後悔していた。ファルシードにいいように操られていたのだということが疑いではなく確信に変わり、その後悔は怒りへと転じていった。今現在ファルシードと戦時中であるが、正直ファルシードと戦う理由が弱かった。しかしシュルヴェステルのことを受け、ヴァルドは思いを新たにしていた。そして、元首の決定は国家の決定。エルドはその決定を喜んで受け入れた者の筆頭だった。
「他の旧ファウリ=サエンの者たちが人質に取られているんですね? 詳しいことはわかりますか?」
少しでも情報があればと質問をしたが、既にシュルヴェステルの瞳から光は失われ、ぼんやりとした顔つきに戻ってしまっていた。エルドはため息を飲み込み、苛立ちを咳払いすることで誤魔化した。そして気持ちを切り替え、今得た情報をヴァルドへ伝えなくてはと踵を返した。
「人質……。だからあれほどの実力を持つハプト・ヴィサスが無抵抗に捕縛されているのか」
元首ヴァルドは将軍からの情報に唸り声をもらした。その顔は怒り故に表情が抜け落ち、その目はぐっと細められていた。エルドは古い付き合い故にその顔をしたヴァルドが相当怒りを堪えていることを知っていた。
「エド。おれの目は随分と曇っていたようだな?」
「貴方のせいでは。ファルシードがいかに狡猾で卑劣であったかということでしょう」
ヴァルドの執務室は人払いがされ、いるのはヴァルドとエルドの二人だけだった。本来ならばここに執政官も同席するはずだったが、外せない別件により離席していた。ヴァルドはそのこともあり、エルドのことを親しげに愛称で呼びかけていた。
「ファウリ=サエンにはいくら詫びても済まないことをしてしまったな」
歴史書には、ファウリ=サエンを滅ぼしたのはアルグレインだと記されるだろう。その裏にファルシードの陰謀が渦巻いていたなど後世の者たちは知る由もない。そして、今真実を知ったとてもう取り返しがつかないところへと来てしまっていた。ファウリ=サエンの主だった評議会員たちがファルシードによって捕らえられ、シュルヴェステルと同様の奴隷扱いを受けているのなら、もう元に戻ることは困難を極めるだろう。解放したとて、国としての様相を保てるとは思えなかった。
「ハプト・ヴィサスはどうしている?」
「落ち着いてきてはいます。ただ、まだぼんやりとしている時間が多いですね」
「彼は……、我々を恨んでいるだろうか」
常に強気、常に前向きであるヴァルドらしからぬ弱気な言葉に、エルドは一瞬反応に遅れる。ヴァルドは視線を手元に落としたまま、エルドの言葉を待っているようだった。こんな姿は他の者たちの前では死んでも見せないだろう。相手が気心知れたエルドだから見せている顔だ。エルドはこんなことで信頼を示さなくてもいいのにと困った顔をしていたが、それをヴァルドに見せる前に取り繕う。
「アルグレインよりも、ファルシードに対する気持ちのほうが大きそうです。我々が無知ゆえにしたことであるのは理解してくださっているようです」
「無知は言い訳にならん」
ヴァルドが他者に厳しいのはアルグレイン建国以前の時代からの彼を知っているエルドは身近に見て、己でも経験しているために一番よく理解している。しかしヴァルドが一番厳しく律しているのは己であることもエルドは深く理解しており、絞り出すようなヴァルドの声は、自分を責めているのだと察した。
「我々に出来ることは、完膚なきまでにファルシードを叩き潰すことだけか」
だん、と重厚な一枚板を使用した執務机をヴァルドの拳が叩く。その机は元首が使うには無骨で、なんの飾りもない実用一辺倒なものであったが、ヴァルドにはそれがよく似合っていた。質素倹約を謳ったわけではなかったが、規律によってまとめられた精度の高い軍事力を誇るアルグレインらしい執務室だと言えるだろう。
「奴らに力の差を見せつけてやれ」
「承知致しました」
*
「グレンマーク将軍。やはりファルシードの魔術部隊がネックになりますね」
大規模交戦が始まり、前線に寄った位置に創設された軍事本部に詰めていた軍事参謀が通信兵からの情報を精査しながら言う。指揮官の椅子に座ったエルドは、戦況図を見ながら、思考しているときの癖でトントンと机を指で小突く。
「我らの魔術部隊も焼き付け刃に近いからな。その分、打撃力はうちのが強い」
戦況はどう考えてもアルグレイン側に有利に働いており、正直軍事本部を首都から移動させる必要もないぐらいだった。それでも軍事拠点を動かしたのは、アルグレインがそれだけ本気であることを示すためであり、そして同時にアルグレインの兵たちは戦場を好むからだ。もちろんそれには軍の上層に席を連ねる者たちとて同じだ。
ファルシードは歴史が古く尊大で大口を叩くが、軍事力で成り上がったアルグレインと肩を並べると思っているのはファルシード側だけだ。軍の運用能力、練度、兵の質そのどれをとってもファルシードがアルグレインに勝るところはない。そして、参謀が指摘する通りにファルシードにはそれなりの歴史ある魔術部隊が存在していたが、それはファウリ=サエンの魔術力に比べれば実に大したことがない。
「こんなこと言うのはアレだが、先にファウリ=サエンとやっていてよかったと思うな」
「それは現場の兵たちも同じこと言ってましたよ。魔術部隊は厄介だけど、ファウリ=サエンに比べたら遊びみたいなものだと」
アルグレインではあまり魔術技術が発達していない。というのも、魔術とは魔力をどう使うか研究し実用化まで時間がかかるものだからだ。アルグレインは元は流浪の民の集まりに過ぎず、腰を据えて研究を行うような性質ではなかった。そのため、武力は鍛えられたが魔術は二の次。生活に役立つ魔術はそれなりに発展を見せたが、それ以上となるとまだ時間が必要な段階にあった。
しかしそんなアルグレインでも、古くからの魔術師家門が集まり国家となったファウリ=サエンと戦う際には否が応でも魔術に対応しなければならなかった。そのため、先の戦争でアルグレインの魔術技術は飛躍的にその歩みを早めた。魔術攻撃への対処や、魔術をいかにして軍事転用していくかという面において、ファウリ=サエンは良き教師と言えた。
ファウリ=サエン戦からアルグレイン軍にも魔術部隊が正式に創設された。最初こそは役に立たないお荷物部隊的な扱いを受けていたが、今回のファルシード戦では実に役立っている。魔術攻撃に対する防御力は格段に上がっていたし、指揮官のここぞというときの魔術の使い方も精度が上がってきている。ファルシードが兵力と魔術力の混合軍として長くやってきた歴史があったとて、戦いそのものの才能のあるアルグレインに魔術が足されたものと並べてしまったら弱い。
「しかし決定的な打撃力に欠けるのが我が軍の弱いところだな」
アルグレインは戦略や防御力では右に出るものはいないが、どうしても魔術部隊を持つ相手に対してこれという打撃力に乏しい。いくら兵士たちの練度が高く数で押したとて、魔術防御で防がれるとその威力も半減する。一網打尽と言うにはやや弱いきらいがあった。
「魔術部隊に攻撃があればよかったのですが、流石にそこまでは間に合いませんでしたね」
地上最強の魔術師軍団と謳われたファウリ=サエンの強みは何と言っても魔術による攻撃力だった。大型攻撃魔術を発動されると、暫くの間交戦不可能に陥るほどの損害が出る。その代わりに発動までに時間がかかることと、その攻撃が防がれたときの対処への甘さ、そしてなにより攻撃特化すぎて防御が疎かであったことが彼らの弱点ではあった。根気よく兵力で攻めじわじわと戦力を削るアルグレインの戦略の前にはファウリ=サエンも陥落したというわけだ。
「元首にどう言い訳したものかな……」
元首ヴァルドは大規模交戦が始まると即座に結果を出すことを望む。ヴァルドは戦において、初速で与えた攻撃は後々まで響くという考えの持ち主だ。初期に相手が動揺するほどの攻撃を加えることを望まれているのは、エルドも言われずとも承知の上だった。しかし今現在、優勢ではあるもののこれといって特筆できるような損害を与えられていない。これは大目玉を食らうだろうと、エルドはつい顔を顰めてしまった。
「スタリーツァに行かねばならない」
仮設軍事拠点からほど近いところに用意された士官用の宿舎に戻ったエルドを待ち受けていたのは、念の為に首都から連れてきていたシュルヴェステルだった。彼をエルドが保護してからだいぶ回復を見せており、日にその瞳に光が失われるほうが少なくなってきたほどであった。どんな仕打ちを受けたのかは不明だが、元来芯の強い男であったシュルヴェステルを完全に屈服させるほどではなかったということなのだろう。
「スタリーツァって、旧ファウリ=サエンの首都のことですか?」
「それ以外に何がある」
横柄にも聞こえる声で問い返されたが、エルドは戸惑いを隠せない。シュルヴェステルが回復してきたのは喜ばしいが、この男、実はかなり高慢な部類に含まれる。ファウリ=サエンでは首席魔術師として名を馳せ、その美貌から老若男女に言い寄られていた。持つべきものをすべて持つ人間とはかくも我が儘になるのかと、回復してきたシュルヴェステルと初めてまともに会話をしたとき、エルドは大変驚いたものだった。
「どうしてまた?」
「スタリーツァには同胞たちと連絡を取る魔術具がある。人質にされている者たちと連絡を取りたい」
エルドはシュルヴェステルの横柄さにも驚いたが、同時に彼の同胞たちに対する責任感の強さには心を打たれていた。ファウリ=サエンは国としては解体されたが、同族に対する連帯感は強く、上に立つ者としての責任感は未だに健在だ。
「救出するのですか?」
「いや、彼らが望むのであれば、私が手を下す」
感情を挟まない事実だけを述べた声に、エルドの背筋が伸びた。シュルヴェステルは自分が受けた仕打ちと同等か、もしかしたらそれよりも酷いことを生き残った同胞たちが受けている可能性を考慮しているのだろう。その仕打ちを受けてなお生き続けたいか。それを同胞たちに確認したいという。そして彼らが死を望むのであれば、それを叶えるために手を汚すつもりであると。
そしてシュルヴェステルは真っ直ぐにその宝石のような紫の瞳でエルドの目を見た。
「人質という足枷がなくなれば、私はアルグレイン軍についてファルシードを叩こう」
その声には感情が伴っていないようで、水面下には多くの感情が隠されているのをエルドはその瞳の奥に感じ取った。背筋がゾッとして無意識に口内に溜まった唾液を嚥下する。ファウリ=サエンの首席魔術師であったシュルヴェステルの魔術攻撃がどれほどまでに強大であるかは相対したことのあるエルドには簡単に理解できた。彼がやると言えば、そこは焼け野原になることは間違いがない。打撃力に欠けるアルグレインの将軍としては願ってもない申し出だ。
しかし、エルドはすぐにその提案を受け入れることが出来なかった。シュルヴェステルを味方に引き入れるには、彼に同胞を殺させる必要があるからだ。多くの人々の犠牲の上に成り立つものを、手放しに受け取ることはエルドには出来ない。
「彼らが生存を望んだ場合はどうするんですか?」
その問いに、シュルヴェステルはすぐに答えなかった。だがその表情から、彼らが生きたいと願うはずがないだろうという答えが透けて見えていた。ファウリ=サエンの人々は誇り高い。彼らが奴隷として洗脳まがいの調教を受け、生き長らえている現状を好ましいと思う者はいないのだろう。屈辱を受けるぐらいならば名誉の死をと叫ぶ民族性だ。
エルドはそこでふと一つの選択肢を見つけて立ち止まった。ファウリ=サエンがアルグレインに敗北したとき、捕らえられた評議会員たちは死を望んだ。それを無意味な殺生を好まないアルグレイン側の判断で彼らを生かした。つまり、本来ならば彼らを殺すべきなのはアルグレインなのではないか。
「わかりました。数日であれば出ていても問題ないでしょう。魔術具の場所はお分かりですか?」
「は? 君も行くのか?」
「現在、貴方は単身で出歩ける立場ではありません。俺も同行します」
シュルヴェステルは反論しようと口を開いたが、何も思いつかなかったのか、ぐっと奥歯を噛み締めるようにして口を閉じた。眉を寄せ、最大限に不満を表したが、エルドは全く取り合わない。シュルヴェステルとて自分の立場をよく理解している。アルグレインの保護下にいる自分が一人でふらっと出掛けることは叶わないことぐらいは承知の上での提案だ。部下の一人でも監視につけてくれればいいものだったが、エルドはそうするつもりは毛頭なさそうだ。
「では急ぎましょう」
外見年齢だけで言えば年上に見えるエルドが急かすように言い、シュルヴェステルはため息をついて付き従った。
*
旧ファウリ=サエン最大の都市にして首都スタリーツァ。かつては他国にもその評判が轟く美男美女で構成された評議会員が由緒ある豪奢な館を行き来していた花の都。しかし戦に敗れ、評議会員が姿を消してからはまるで葬儀が続いているかのようにしんとして覇気がない。
旧ファウリ=サエンの土地は分割や移譲されることなく丸ごとを旧ファウリ=サエン領として、アルグレインから派遣されてきた領主が治める地域として現在も残されている。住んでいる人々に考慮し、上に立つ人間は変わったが、生活が激変しないようにとの配慮のもとこうした措置が取られていた。それでも敗戦国という空気感は残留し、人々はどこかよそよそしく、景気の悪そうな空気を抱いていた。
評議会が行われる館の門は閉ざされ、照明も暗く墓場のごとき空気感が漂っていた。そこへ急ぎ駆けつけたシュルヴェステルとエルドが訪れると、それをどこかで監視でもしていたのかと勘繰りたくなるような時間差で初老の男がやって来た。皺一つないシャツに上着を重ねた姿は使用人にも見えるが、彼の纏う雰囲気は使われる者というよりは人を使う立場にいる者だと感じさせた。
「ハプト・ヴィサス! よくご無事で……!」
初老の男がシュルヴェステルを見るなり、膝から崩れ落ちそうになりながら涙声を上げた。シュルヴェステルは反射的にその腕を伸ばし、初老の男を抱きとめる。
「トーア。息災であったか」
「アドヴィズルの皆様のお帰りを首を長くしてお待ち申し上げておりました」
涙ながらにトーアが頭を下げるが、シュルヴェステルは厳しい表情だ。その理由が理解できるが故に、エルドはそっと目を逸らす。
「他のアドヴィズルの方々は……?」
「行方が知れぬ。連絡を取りたいのだ。通信具は動かせるか?」
待ち人との再開に弱っていたトーアの顔が一瞬で切り替わる。その顔は先程まで泣いていただなんて思わせないほど真剣な面持ちで、彼の矜持を感じさせた。彼は個人的な感情と仕事を完全に切り分けて考えることが出来るのだろう。
「いつでも使用できるように準備しております。お部屋へご案内します」
畏まって深々と頭を垂れるが、一瞬だけちらりとエルドのほうに視線を向ける。シュルヴェステルは彼がエルドのことを警戒しているのだと理解し、小さく頷いてみせた。これは信頼しても良いアルグレイン人であると。しかしそれだけではトーアの警戒心は解けるはずもなかったが、表面上はそれで納得したふりをしてエルドにもついてくるように示した。
エルドは以前にもこの館に足を踏み入れたことがあったが、当時は両国が争う以前のことであり、戦をすることになるなど微塵も想像できなかった。平和そのもので、温かな空気と笑い声が行き交うような場所だった。国の重要な決定を行う評議会が行われる場所とは思えないほど穏やかな空間だった。しかしそれも今ではすべて過去の幻影と化し、必要最低限の照明と掃除がされているだけの廃墟と相成っている。
トーアは複雑な経路を進み、厳重な魔術鍵と物理的な鍵の両方が施された扉へと二人を案内した。その扉は一見すれば使用人が利用するような目立たず実用的なものに見えるが、よく見れば厳重な警備が施されている。中にあるものを隠蔽する目的で目立たぬ造形にされているのだろう。エルドは礼儀として解錠しているトーアから目を逸らし、薄暗い廊下に目を向けていた。
「ハプト・ヴィサス、どうぞ中へ」
開かれた扉をトーアが示す。シュルヴェステルは少しだけ緊張した面持ちで頷く。その緊張の理由が想像できたエルドは気まずげに目を逸らす。しかし気を遣っていられるのは個人的な感情から出来ることであって、アルグレインの将軍として果たさねばならない義務がある。エルドはすぐに気持ちを切り替え、シュルヴェステルの後を追って部屋に入る。
その部屋はお世辞にも広くはなく、目立った装飾もなかった。中央に机が配され、そしてその上に何やら複雑そうな魔道具が据え置かれている。魔術に明るくないエルドにはそれがどのような効果をどのような仕組みで発揮するものなのかちらりとも想像がつかなかったが、それがとても高度な技術を用いたものであることと、高価なものであるのだろうということだけは断言できた。
「急ぐのは分かっているが、少し待ってもらえるか」
シュルヴェステルはそう言いながら魔道具に触れていく。彼が触れたところから淡い光が灯っていき、段々と部屋の中も明るく照らされ始めた。魔道具に魔力を通しているのだろうということしかエルドには分からなかった。もし万が一この魔術具がアルグレインにとって危険なものであったとしても、エルドにはそれを判断するだけの知識に乏しく、全面的にシュルヴェステルを信用するしか出来なかった。そしてエルドは彼を信じていた。
シュルヴェステルは一通りの起動動作を終えてから、顔を両手で覆い、深くため息をついた。誇り高く弱みを見せないシュルヴェステルとは思えないほど弱った姿に、エルドは反射的に目を逸らす。彼が今から行おうとしていることを思えば、その躊躇は理解できた。エルドは、この魔道具によって繋がるだろうシュルヴェステルの同胞たちが、どんな屈辱を飲んででも生き長らえたいと望んでくれないかとさえ思ってしまう。シュルヴェステルの美しく白い手が、同胞の血によって穢されないようにと願うばかりだ。
「外へ出ていましょうか?」
「私が言うのもどうかと思うが、それでは監視の意味がないだろう。聞かれて困ることはない。……気分は良くないだろうがな」
不謹慎にも、その自虐的な嘲笑でさえ、エルドの目には美しいと映った。ファウリ=サエンの美貌は影を落としても尚衰えることはなく、多くの人々を魅了する力を有している。エルドには想像もつかなかったが、この美しさをシュルヴェステルは幾度となく恨んだだろう。この人を狂わす美貌さえなければ、このようなことにならなかったかも分からなかった。
*
「魔術部隊が大型術式展開準備に入りました。目標付近は注意されたし!」
司令本部に在籍する通信兵が片耳に手を当てたまま振り返り、大声で注意喚起を叫んだ。その報告を受けて別の通信兵が通信を始め、その場に詰めていた幹部たちは背筋を正した。アルグレイン軍の魔術部隊が大型魔術を使うことは今まで一度もなかったため、こうした大規模攻撃で予測不可能な事態が起こることを懸念し警戒態勢に入る。
「術式発動まで一二○」
魔術部隊と繋がり中継している通信兵は全員に聞こえるよう大きな声で数を数え始め、それを片耳に聞きながら、総司令副官が地図上に駒を進める。大型魔術の標的となっている一帯はかなりの広範囲に及ぶ。そのため、魔術発動と同時に、その場に自軍の兵士たちが留まっていないか通信を介して再三の確認が行われている。大打撃を与えることが可能な大型魔術で自滅してしまっては元も子もない。
「上手くいくと良いですね」
副官が少しだけ緊張した声色で言う。今までにない軍の運用を行っているため、軍事戦略に長けているアルグレインの軍事高官といえど緊張を禁じ得ない。彼らは既にファウリ=サエン戦でこうした魔術の展開した様を目の当たりにしてきていた。その時の光景が未だに忘れられないのだろう。魔術が発動したあとに残る焼け野原と、ついさっきまでそこにいたはずの者たちが一瞬で消え去る現実。人道的に見て、こうした術式は使用を禁じるべきではないかとさえ囁かれる残虐非道な殺戮兵器。
「ファルシード軍の魔術部隊だってそれなりに対策してきているはずだからな」
そう答えるエルドの声には、若干の不安要素が含まれていた。副官もその違和感には気づいていただろうが、声には出さない。
先の戦争でほとんど無に等しい防御術でその魔術を受けたアルグレインに比べれば、それなりに洗練されている魔術部隊を有するファルシードであれば、そこまでの被害は出ないだろうというのがアルグレイン側の見解だ。それでもファルシードは己を大きく見せ、周囲を謀る某術に長けているということが周知の事実となった今、アルグレイン側が掴んでいるファルシードの軍事力の情報も信憑性が落ちているのも確かだった。情報よりも現実が下方修正されている場合、ファルシードが被る被害は予測よりも大きなものとなるだろう。
「三、二、術式発動します」
その瞬間、常に誰かの声が聞こえていた司令本部が静まり返った。気の所為であったと言うには、その場にいたほぼすべての人間が同じような表情をして息を呑んだのが分る。だがすぐに第一報が通信兵の口からこぼれ出た。
「敵味方ともに損害不明。術式の魔力放出による通信の混乱が発生している模様」
「前線魔術部隊から入電。『加減の仕方が分からなくなっていた模様。敵勢力四割は消滅したと思われる。正確な数字は続報を待たれよ』とのこと」
誰からの連絡であるかは明白だ。エルドは部下の目があるにも関わらず反射的に手で顔を覆ってしまった。副官が引きつった笑みを浮かべて地図上の敵軍の駒をいくつか端に寄せる。
「恨み節が聞こえますね」
「やりすぎるなと言っておいてこれか」
「放っておいたら一人でファルシードを不毛地帯に変えるんじゃないですか?」
副官の冗談が冗談に聞こえず、エルドが深い溜め息をつく。副官も乾いた笑い声を出しながらも、気持ちは上司と同じだ。
「観測が終わったようです。敵軍損害五割弱。敵軍潰走しています」
「五割……」
エルドは呟いて天を仰いだ。副官も頭を痛そうに顔を顰めつつ地図上の駒に手を伸ばすが、躊躇した末に動かすのをやめた。通信兵が現状を口早に伝えてくるその情報から、もう敵軍に反撃の意思はなく、ただ逃げ惑う烏合の衆と化しているのは明らかだった。それらを律儀に追いかけて屠るほどアルグレイン軍は残虐非道でもなければ暇でもなかった。
「味方への損害なし。ファルシードとの戦では一番の戦果ですね」
「この調子で行っても、終わるまではまだしばらくかかるだろうがな」
敵国ファルシードの国家規模から推測される戦力、そして彼らの性質を鑑みて、そう安々と彼らは降伏しないだろうというのがアルグレイン軍部の総意であった。それを知っている副官も、緩んでいた表情を引き締め直す。
アルグレインはファルシードの欲しがるものを手にし、そしてそれを渡す気がないと今回の戦いで見せつけた。そして彼がアルグレイン側にいると知れた今後、ファルシードとて戦略変更を余儀なくされるだろう。そうなれば、アルグレインはさらなる未知の領域へと踏み出すことになるだろう。魔術を用いた本格的な戦争。なにかきっかけが訪れない限り、どちらか一方が倒れるまで続くだろうその戦いは、まだ序盤にすぎない。




