エルナは聖女であることを拒否した
自分は祈らない。
少なくとも、エルナはそう決めていた。
「神の声を聞き、民を導く聖女」
それが、王国における聖女の役割だった。
だが、エルナは神殿を出て、村に降りた。
祈る代わりに、畑を耕し、井戸を掘り、病人の手を握った。
神の言葉より、民の声を聞くことを選んだ。
「聖女様、そんなことをなさっては……」
神官たちは眉をひそめる。
「聖女は聖なる存在であり、地に足をつけるべきではない」
それが彼らの言い分だった。
エルナは笑った。
「地に足をつけなければ、誰の痛みもわからないでしょう?」
その言葉が、王都に届いたのは三日後だった。
さらに三日後、騎士団長がやってきた。
「聖女エルナ。あなたの行動は、王国の秩序を乱す恐れがあります」
騎士団長レオンは、銀の鎧をまとい、冷たい声でそう言った。
「秩序って、誰のためのものですか?」
エルナは、土にまみれた手で井戸の石を積みながら答えた。
「民のためです」
「なら、民の声を聞いてください。祈りより、今は水が必要なんです」
レオンは黙った。
その夜、彼は村に泊まり、民の話を聞いた。
干ばつ、病、税の重さ。
神殿では届かない声が、ここにはあった。
翌朝、レオンは鎧を脱ぎ、井戸の石を積み始めた。
「騎士団長が、聖女と同じことを……」
村人たちは驚いた。
それに対し、レオンは静かに言った。
「彼女は秩序を乱しているのではない。秩序の意味を問い直しているだけだ」
それからの日々、エルナとレオンは並んで働いた。
畑を耕し、病人を看病し、子どもたちに読み書きを教えた。
祈りの代わりに、行動で民を導いた。
ある夜、焚き火の前でエルナが言った。
「あなたは、なぜ私の真似を?」
レオンは少し考えてから答えた。
「真似ではない。あなたの行動には、意味があると思った。それを理解するには、同じことをしてみるしかなかった」
エルナは笑った。
「理解してくれる人がいるとは思わなかった」
「私は、騎士団長という役割に縛られ過ぎていた。でも、あなたを見て、役割よりも関係が大事だと思った」
沈黙が流れる。焚き火の音だけが、夜を満たした。
やがて、王都から命令が届いた。
「聖女を神殿に戻せ。騎士団長は任を解く」
レオンは命に従い、剣を置いた。
同じく、エルナは神殿に戻らなかった。
二人は村に残り、民と共に生きる道を選んだ。
そして、ある春の日。
エルナが井戸の水を汲んでいると、レオンが言った。
「エルナ。私はあなたと共に過ごしていくうちに、あなたと共に生きたいと思うようになった」
そっと差し出されたのは、一輪の小さな白い花だった。一体いつ摘んだのか、茎が萎えて花が下を向いている。
エルナは水桶を置き、彼を見た。
「まあ、綺麗な白い花。ありがとう」
レオンの手を包むようにして受け取り、エルナは花に気持ちを注ぐ。ほんの少しだけ、茎が上を向いた。
「私も、あなたがいてくれてとても心強かった。やっぱり、一人は寂しくて不安で、怖かったから」
二人は笑い合った。
祈りも、役割も、そこにはない。
ただ、共鳴する心があった。
聖女は祈らない。
でも、誰かと共に生きることは、祈りに似ている。
そう思ったとき、エルナは初めて神に感謝した。