5
昨日の夕暮れ、大層にもまた明日と想った太陽は登ってこなかった。鼠色の薄暗い幕に遮られていたからだ。
こういう日、ましてやこの地味に暖かくなり始めているこの季節の雨はものすごく憂鬱な気分になり私の体も少し悲鳴を上げている。
ただでさえ病室は暗いのだから外まで暗いとどうしても気分がすこぶる悪くなる。
こういう時はどうしても私を照らしてくれるような太陽みたいな存在を探したくなるものだ。
私の太陽は一つ病院の中に、私の心の中に在る。
雪愛さん。この名を頭の中で数回呼んでみたが、私の心はまだ靄がかかったままだった。
コンコンと部屋がノックされるのが聞こえ、雪愛さんが会いに来てくれたかもしれない。
しかし、時計の針が6時半を指しており私は夢から叩き起こされたかのように思った。
「今日の調子はどうですか」
朝食を持って入ってきた清美さんはいつもに倣って聞いてきた。
「今日はちょっとしんどいですね」
意思をちゃんと表現するようになった私に清美さんは少々驚いていたがふっと微笑んで配膳を続けた。
今日も簡素な食事を食べながら私の心の太陽雪愛さんの事を想っていた。
今日の8時までは彼女の検診があるとの事なのであと1時間ちょっとは大変暇である。
一刻も早く彼女に近づきたい、話したいという気持ちが頭の中を飛び交っている。
イカロスの翼と言われど堕ちても私は近づきたい。
雪愛さんに会えないかな。
「え」
心の中の独り言は実際に声に出てしまっていたらしく、清美さんが疑問の音をあげた。
「雪愛って5階の患者さんの」
ここで下手に誤魔化しても仕方がない、それにみっともないとも思ったので素直に話すことにした。
「はい」
「え、好きなの」
今ここでタメ口で純粋に質問してくる清美さんはまだ働きたての新入社員の雰囲気がしたが、それがむしろ私にとっても気を遣わなくて良くて嬉しかった。
「はい」
「ここへ来たのすぐ最近でしょ、昔からの知り合いだったりするの」
「いえ、私も初めて会ったのは一昨日です」
「それなのに好きなの。一目惚れってやつ」
今私に恋の質問を投げかけてくるのは一人の大人というより一人の女の子みたいな気がした。
「そうですね、一目惚れです」
「いいじゃんいいじゃん。もっと聞かせてよ」
私は時計の方にちらりと視線を向けたがまだ7時にもなってないので話そうかと思った。
「彼女は今日8時まで検診だから時間は大丈夫だよ」
清美さんの口から意外な言葉が出てきて私は少々驚いた。
「彼女も清美さんの担当なんですか」
「時々ね。君みたいにずっと付いてるわけではないよ」
「そうなんですね」
「それより君と雪愛さんの話聞かせてよ」
そこから私は雪愛さんと出会ったときのことや昨日の話などをした。
「桜の下で運命的な出会い、、、甘酸っぱいね」
「それ煽ってますか」
「煽ってなんかないよ。ただ少し羨ましいなんて思っただけ。私そんな恋したことないからさ」
こういう他者に憧憬の眼差しを向けられた時なんて応えるのが正解なのかわからない。
同情の意を表せば清美さんに気を遣わせてしまうだろうし応援の声を掛けてもまるで私が煽っているみたいで気分が悪い。ましてやここで生返事などすれば無礼にも程がある。
だから人間関係というものは難しいのだ。
「こんな事言われても迷惑よね、ごめんごめん」
私が反応出来ずに困っていると察したのか清美さんが申し訳無さそうに言った。
「そんなことはなくて私が会話慣れしてないだけですから」
少々気まずい沈黙の空気が流れる。
「というかもう7時50分じゃん。喋りすぎた、君も会いに行くんでしょ。じゃあまたね」
その空気から逃げ出すかのように清美さんは言いたいことを言い残し食器を持って病室から出て行った。
5分後に私もゆっくりと部屋を出た。
検診が終わるのが8時なはずなので急いで行っても仕方がないと思い、健康維持も兼ねて2階分だけだが階段で上がることにした。私は病院で時々散歩をするくらいしか運動しないので体は衰え、階段という上下運動に対してめっぽう弱く1階分の高さの半分くらいまで上ると直ぐに息が上がってしまい、5階についたときにはもうへとへとだった。
それでも一度決めたことは曲げたくない性分だったので、音を上げずに上りきった。
時計は8時5分を指していてちょうどいい時間だと思いゆったりとした足で雪愛さんの部屋に向かっている。
ぼうっとしていたので何も考えず部屋の扉を開けそうになるが流石に失礼なので思いとどまりちゃんと2回ほどノックをする。
中から「入っていいよ」と声が聞こえた。
そっと扉を開けるとそこには寝具の上で本を読む雪愛さんの姿があった。
「そんな息を切らしてどうしたの」
彼女は笑ってそう尋ねる。
「階段を使ったんだよ」
そう私が応えると彼女はより一層笑って腹を抱えながら言った。
「なにそれ。エレベーター使えばいいのに」
「たまには私も運動しようかなと」
雪愛さんが帰る前に病室で待機するのは気持ち悪いかなとか、早すぎてドン引きされたりしないかなという心配があって階段を使ったなどとは到底言えなかったので適当にお茶を濁した。
「ふーん、まぁいいや。それより昨日紹介した本読んでくれたの」
私が手に持っている本に目線がいったのか彼女はそう質問を投げかけてきた。
「はい、一様読み終わりました」
「はっや。そんなに面白かったの」
「今まで恋愛小説を読んでてこなかったのを少し後悔するくらい面白かったです」
彼女はお気に入りの小説が褒められてご満悦そうにニコッと笑った。
「そっかそっか、それはよかった」
そう言って幸せそうな彼女の顔を見るこの瞬間が生きていて何よりも嬉しいかもしれないとまで思った。
外の暗い空気とは反対に私の心とこの部屋にだけは明るさが灯っている事に気づいた。
より一層私の気分が晴れたところで雪愛さんに聞いた。
「今日はどんな話をしましょうか」