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彼女と別れたあと自分の病室へ入り、私は早速おすすめされた本を読んでいた。
私はあまりこういう恋愛ものを読むことはないのだが、明日の会話のネタにしたいからか、彼女に勧められたからかはわからないが今日はとにかく読むペースが早い。それは決してこの作品を投げやりにしてるとかではなくその世界の住人としてそっち側の世界に完全に入り切ってしまっているからだろう。
それから私は親指の長さくらいの分厚さの小説を1時間半程度で読み終わった。
主人公が、結婚して疎遠になってしまった幼馴染に想いを寄せ自分の気持ちと彼女の幸せな生活を想像し、そのジレンマに心が呑まれながらも彼女に本心を伝え決別をするという話。
感想を述べるとするならとても面白く読み甲斐のある作品だったという感じ。私の固定概念として恋愛小説はただ恋仲になる二人の男女の成り行きが書かれ、それを楽しむ物だと思っていた。しかし、これでは主人公が報われることはない。けれど彼女を愛するという気持ちが、恋の形が本当に美しいと思えた。今まで私の小説人生で避けてきた恋愛という壁をこの作品は打ち破ってくれた。
だからまたこういうジャンルの別作品を読んでみようとも思う。
そう思うと段々心のそこから沸々と恋愛小説への興味が湧いて出てきた。
それならまた雪愛さんに聞くべきか。
彼女が持っていた本の過半数が恋愛系だったのでまだまだストックはあるはずだ。
恋愛小説はこれが初めてと言うほど私はからきしなので雪愛さんに聞くのは仕方がない。
それが純な理由しかないかと言えば嘘である。
私がここまで来て表面上を取り繕おうとしていることにくだらなさを覚え不意に笑いが溢れてしまった。
そして同時にそんなくだらなくも心が豊かに染まるような日々を私は大切にしたいと思った。
ただ私の目に今がどういう風に映っているかが脳裏に浮かんできた。
雪愛さんとの時間を大切に思う反面、今1人の時間を退屈なものに思っていることも。
こういう思想に陥る度私はこう考える。
誰かとの会話などの幸福な時間を大切にすると共に他の時間を有限な物だと正確に認識し、それをも大切にしなければならない。少々哲学的な考えにはなってしまうが。
人生で今一番を捧げている時間があったとして、1日はそれだけでは回らない。
夜寝て朝起き、3回の食事をとり、風呂に入っては歯磨きをしたりする。
私が癖となり体に染み付いているこの行動に意味はあるし、かけがえのない物だ。
また人生の大半は予期していないもので構成されている。だからこそ、私はそれを大切にするべきなのだ。今の私に置き換えるなら、雪愛さんとの時間を大切にすることは自由だがそれは明日も来るし明後日もきっと来る。でも今日ここから何が起こるかなんてわからない。もしかしたら何か悲しいことや嬉しい出来事が起こるかもしれないし、逆に何も起こらないかもしれない。
そしてまた予期してないものの大半は何も起こらない、あくまで持論だが。
だからここに退屈という感情が生まれる。今の人々は退屈や暇をとてもマイナスな意味と捉えている。
しかし考えた。人として生きるということはこの暇や退屈を楽しむということではないのかと。
私は常に一つの体と一つの肉体を持って生きている。
生きていく内に私は私自身を理解した気になり、それ以上知りたいと考えず他者へ目を向ける。
人間は知的好奇心の塊だからこれは生まれつき誰もが持っていることだろう。
そうして他者で知識が満たされる誰かと居る時間を大切にし、知り尽くした自分1人の時間を嫌いたがる。
だが私はわたしを理解できてない。理解できるはずがないのだ。
今を生きていても2秒後にはそう今だと感じていた自分は2秒前の自分になっているし、現在喋り始めた自分は過去に喋り始めた自分となる。
人は過去の自分を見ているだけで、今の自分を見れてはいないのだ。
万物は全て変化する。それは自分も例外ではない。
自分を知っていてもそれは過去の自分だから、常に変化する自分を捉えるには過去の物差しで自分をみるのではなく、まるで川を流れる水のように自分というのを観察し続けることが大切だ。
そんな時間があるのか、ある。それが退屈だと感じる時間であろう。
私はこうして自分が幸福に呑まれてそれにしか注意がいかなくなってしまいそうな時にこう考える。
こう考えると私の頭は澄み渡り世界が綺麗に見える。
太陽がまるで今日の私にお別れを言うかのように寂しげに去っていこうとしている。
「さようなら今日の私。そしてまたね、明日の私」
太陽が燦々と地平線から手を振り、私はそれを同じよう真似した。