Episode 1.因果関係(5)炎の中で
10月17日火曜日17:45
東山創太の今日の運は良い。パワハラ上司が退社時に押し付けてくる残業が今日はないのだ。そのおかげで自分の残業を19時半には終わらせて退社できた。いつもは22時を超えるので何だか少しだけ自由になった気がする。
最寄りの神坂駅まで歩く。何故か視線は地面。周りのおしゃれな店や、人の活気に目がいかない。避けようとする。特に理由はない。自然と、点字ブロックと歩道のくぼみだけに目がいく。
地下鉄の入口に到達する直前、誰かの肩がぶつかる。その瞬間、不良たちに絡まれ、笑われ、その自分を嘲笑った昨日のことがフラッシュバックする。どれだけ私を愚弄するのか。
こんな人生から自由になりたい。
肩がぶつかるとすぐに相手は謝ってくる。
「すいません、申し訳ない」
昨日の不良たちと比べて、いや、比べなくても嫌味な感じは全くしない。爽やかだ。別にイケメンでもない、小太りのこの若い男が爽やかだと感じた。昨日の不良たちのように笑ってくれるか、無視される方がまだマシだ。
この爽やかな男性を見ると、同じ場所、同じこの地獄に生きているとは思えない。私と同じ場所に住んでいても、もはや同じ人間ではない。いや、私のほうが人間ではないのか。この男性に自由を感じる。ただ肩がぶつかって謝ってきただけだというのに。
ふと反射的にこちらも会釈をして謝罪の意思を示す。私は踵を返して、駅の改札に向かうため地下鉄入口の階段を駆け下りる。
私の心は、石油のような黒い液体がどっぷりと入ったガラスのコップだ。
もう溢れんばかりにいっぱいいっぱいである。
そのコップにポトンッと、さらに黒い液体がほんの一滴だけ滴り落ちる。ほんの一滴だけ。
そのせいで、コップから黒い液体が溢れたかのように一滴、コップの側面を滴り落ちる。
こぼれてしまったのだ。何かがこぼれたのを感じる。
私は社会から排除されている。あの小太りの男性と、私は何かが違う。何が違う?
彼は排除されないが、私は排除される。
いや、彼が社会から排除されないのは当然だ。彼は有用だ。
それに比べて私はなんて使えない人間、価値のない人間なのか。
しかし、私と同じ価値のない人間−そう−パワハラ上司や昨日の不良たちは社会から排除されていない。
私だけが排除されている。
これは不公平だ。
真面目に生きている私だけが排除されている。受け入れられない。
「私は自由だ!」
私だけが排除されるのは間違っている。社会に私の存在を示す必要がある。
「私は生きているぞ!」
私は今まで味わったことのない怒りと勇気が湧いてくるのを感じている。
「そうだ!社会に私の存在を示そう!」
自宅に戻るとカバンとジャケットを投げるように捨てて、鍵もしめずに家を出る。カーシェアのある近所のコインパーキングに赴き、オンラインでレンタカーを借りる。カーナビで近くの金物屋を検索する。5km先にある個人商店の金物屋に向かう。ポリタンクと、レジ横に陳列されているたくさんのライターを箱ごと買う。
いつもとは全てが違う。力がみなぎってくる。疲労を感じない。
近くのガソリンスタンドに到着する。レンタカーにガソリンを入れながら、ポリタンクにもガソリンを注ぐ。アルバイトの店員がこちらをチラチラ見ながら何か言いたげであるが、これを無視する。結局、何も言われない。
ガソリンスタンドに置いてあったタオル数枚を勝手に持ち出す。車内で、そのタオルでポリタンクを覆って巻き付け、一見ポリタンクとは気づかれないようにする。出発だ。
神坂駅に舞い戻ると、スマホの電話が鳴る。私に友達らしい友達もいない。こんな時間に掛けてくるのはパワハラ上司ぐらいしかいない。スマホを助手席の窓ガラスに投げつける。上司など、もはやどうでもよい。
着信メロディが鳴り響く車をそのまま放置して、ポリタンクを片手に持ち、大量のライターをポケットに入れ駅のホームに向かう。
人が多いせいか私の持ち物を不思議に思う駅員や乗客は誰もいない。改札を通る。電車がホームに到着する。その電車に乗り込み出発をじっと待つ。電車が動き出す。そして、私も動き出す。ポリタンクの蓋を開けて勢いよく車内の床に注ぎ込む。誰かの悲鳴が聞こえる。ライターを取り出す。火を着ける。ライターを床に投げ捨てる。
「私は自由だ!自由だぞ!」
思った以上に火柱は、早く、高く、大きく、何本も立ち上がっていく。