死者の共同体 ーー墓参りに行ってーー
墓参りに行ってきた。行って思ったのは、日本の祖先崇拝的な考えの中では「死者は生きている」という事だった。
とはいえ、「死者が生きている」という事実、もちろん、実際に生きているわけではなく、生者がそうみなしているという事だがーーこの事実は、そもそもで言えば、共同体の根底を形作っている事実ではないかと思う。
ウィキペディアを見ると、祖先崇拝は原始的な社会の進行であり、社会が進むと、一神教になると書いている。これは欧米的な考えを中心にしたものだが、この場合、死者は、一神教の神に吸収される事で生き続けるのだろう。死者は無名の存在となり、抽象的な神となって、社会的には昇華される。(あるいは祖先の元を辿ると神になるのだろう)
祖先崇拝が、本質的に共同体を形作ると思った直接のきっかけは些細な事だった。墓参りに行った後、私は、母のいとこの家を訪ねた。母のいとこは、母よりも年上で、年は七十を越えている。母と、母のいとこは仏壇の前で話し合っていたが、二人は、全く同じように遺影に向かって話しかけていた。「なあ、じいちゃん、〇〇だよなあ」といった風に。
その光景を見て私は、二人の中では、死者は生き続けているのだなと感じた。また墓参りが重要とされている意味もなんとなく察せられた。
翻って現在を見ると、唯物論的な考えが支配しているので、「死者が生きている」という考えは妄言とされる。死者はもう死んでいるし、死ねば「無」であり、死体は単なる物質に過ぎない。現在の社会において「共同体」という言葉を使うと、なんとなく横並びの人間がイメージされるだろう。共同体というと、実際に人と会って、コミュニケーションを取ったり、仲良くしたりするというイメージが浮かぶだろう。
このような社会において「生きる意味」はやたらと喧伝される。「生きる意味」「生きる価値」というのは、いたるところで声高に述べられるし、そういう価値観が支配している。逆に言えば「死ぬ事の意味」というのは、さっぱりわからない。
この社会では生きる事の意味は無限に用意されている。しかし死ぬ事の意味は、さっぱりわからない。生きる事は、現に生きている人間の横並びの空間を意味し、共同体はその集合に過ぎない。つまり、この空間的な存在こそが現在の共同体である。
この共同体の頂点に立つ事が意味あるとされていて、優秀な経営者とか、名前の売れたタレントなどが考えられている。これらは生の頂点としてイメージされているので、彼らがどれほど優秀でも、死ねば無であるとされている。
死ねば終わり、死ねば存在が消えてしまう共同体においては、死は最大の恐怖だ。それは生というテーブルからの脱落を意味する。この社会は、生きる事の意味はいくらでも用意しているが、死ぬ事の意味は教えてくれない。死というのは、唯物論が支配した社会における最大のアキレス腱なのだろう。
それと比べた時、私の母や、母のいとこが、遺影に向かって、まるで故人が本当にそこに存在しているかのように話しかけるーーこういう田舎の日常的風景は単なる迷信として片付けられない何かがある。私はそんな風に感じた。
なぜなら、そこでは死者は死んでおらず、遺影とか、墓とか、仏壇とかいった象徴の向かうに存在すると仮定されているからだ。これが何故、意味があるかと言うと、このようにして生者が死者を未だに存在しているとみなす事は、いずれ自分にやってくる死ーー自分が死者になるという事実、この事実も全く無意味ではないと感じられるからだ。
死者が未だに生きていると、生者が感じる事は、その生者が死んだとしても、彼の存在が消えてなくなってしまうのではない、という事を意味している。彼は死者になる。しかし、やがてやってくる生者に、遺影のようなものを通して話しかけられるような存在になる。こうした古い共同体の理念の中では、死者は死んでいない。死者は共同体の根底を形作る「霊」として存在し続ける。
こうした共同体は、現代の共同体に比べると、時間的な共同体と言えるだろう。というのは、死者は時間的に累積していくので、彼らはやがて忘れ去られていくが、それでも無になるわけではない。過去の死者が存在するから、今の自分も現象していると考える事は、その共同体意識を時間的な方向へと伸ばしていく事になる。
この考え方が現在の社会のそれよりも優れている点は、自分が死ぬ事にも意味があるという事だ。自分が死んでも、目の前にある遺影と同じく、何らかの意味あるものとして、子孫に感じてもらえる。そこには生きる意味だけではなく、死ぬ意味に対する解答がある。それは時間的な死者の累積という形で存在している。
だから、私は大人になった私の目をもって、母や、母のいとこが、遺影に話しかけているのを無意味な事柄だとはみなさなかった。むしろ、それが人間の共同体の基礎であるように感じた。死者を祀るという事、それが共同体の根底なのではないかと思った。
私が墓参りに行って感じたのはそういう事だった。もっとも、こうした事は、歴史学とも、民俗学とも、文化人類学とも、何の相談もなしに私が一人、旅館で横になり考えた事にすぎない。
逆に、こうした田舎の共同体の考え方は、悪しきものだとみなす事もできる。それは個人の自由とか、自意識を認めないという事だ。個人の好き勝手にする事は禁止されている。子供は職につき、結婚して、子供を生む事を期待されている。子供ができる、孫ができるというのは、年を取った人間の喜びだ。なぜなら、彼らは子孫に、おそらくは生まれ変わった自らを見出すからだ。自分が属する共同体の持続を見るからだ。
現代の社会は、個人の自由、自意識、嗜好というものが絶対化されている。それ故に死ねば終わりであり、生きる事、生を謳歌する事は素晴らしい事だとされるが、死んでしまえば何も残らない。その代わり、古い共同体とは違って、個人の自由が(あくまでも資本主義社会の中でだが)許されている。こうした社会は、それぞれの個人がバラバラになって離合集散する様が見られる。共同体は時間的ではなく、空間的なものとなる。
私はどちらの共同体がいいとははっきり言えないが、ただ、田舎の墓参りに行って、現代の社会が見ようとしなかった事柄がそこにあるように感じた。それが「遺影に話しかける」のようなありふれた光景にあると感じた。
死者を祀るというのは、時間的な共同体の根底を形作るものであり、根底的には、人間が普遍性を求める、その現れだろう。人間が個別的な存在である事に耐えられず、より大きな存在であるのを求めた時、死者を祀り、死者の時間的連帯という共同体が現れた。一神教の神は、その抽象化として現れた。
近代以降は宗教を迷信という事で一掃したので、死ぬ事の意味はわからなくなった。そこで生きる事だけが、刹那的なものとして現れる事になった。現代の我々は、この刹那性、その寂しさに無意識的には気づいているので、生者が互いに寄り合う事によって問題を解決しようとしている。
しかしそれは、生の刹那性を更に掻き立てる事にしかならないのではないか。死者が存在しないとなると、我々は、自分達の団結が次第に死という崖下に引き寄せられるのを感じる事になる。これに対処できるのは、現代の合理主義ではなく、案外に古い習俗の中にあるものではないか。今回の墓参りは私にそんな事を思わせた。
私が墓参りに行って考えたのはそんな風な事だ。しかしこんな事はごく当たり前の事柄であり、田舎であればどこもやっている事柄だ。死者を生きているとみなす事…霊とか精神とかいった現象は個体を越えたものを目指している。
文学が死を描くのは、死の彼方に、海の彼方に見える孤島のように、宗教的な彼岸が見えているからだ。死は生者を、観念的な共同体へ送り出す。しかし彼岸の共同体が消えてしまった今、我々は互いに寄り合って自らの死の宿命を忘れようとしている。空間的な共同体だけが残り、時間はメディアによって分解された「今」しかない。時間はもはや累積しない。
我々はもう遺影に向かって語りかけない。死者は存在していないからだ。我々は、合理的で、唯物論的な世界に生きていて、それ故に、合理的で唯物的な物質としての生命が消失するという現実にどう対処すればいいかわからない。死者を祀るというのは、文学や芸術の起源と関わる重要なものだろう。
それぞれが個人に分解されてしまえず、横つながりの共感や同意だけがメディアを通じて広がる事になる。それに対して、死者の共同体は時間的な累積として存在する。死が意味のない世界においては、ミシェル・ウエルベックの小説の主人公のようにただ自分の意識と向き合うだけになる。
そうしてその寂しさを埋めようと、メディアを通じて他人と出会っても、そこには自分と同じように時間と断絶した個人しか見出す事はできない。死者は消え失せるだけで、この世界には存在する事はもはやできなくなっている。




