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11 執事エスの、取るに足らない日常

 アイの住む屋敷、その執務、雑務全般を任されているのが、エスという名の執事だった。


 彼は誰よりも早く起き、誰よりも遅い夜に眠り、しかし疲れを全く感じさせないきびきびとした所作で、屋敷を素早く音も立てず歩く。


 しかしそんな生活にも、最近は少し、変化があった。


「お嬢様……またこんなに早くから修練を積まれているのですね」


 早朝、既にきっちりとした燕尾服に身を包んだエスは、廊下の窓から裏庭を覗き、寝間着姿にもかかわらず氷魔法を練習するアイの姿を見つけた。


「全くお労しい。もっと、堂々と魔法を使える環境であればよかったのですが……それにしても……」


 高級な白いネグリジェに、ケープを羽織った程度の、人前には出られない恰好で、アイは青い光を走らせながら、魔法を撃ち出す。




「はぁ……(さら)いてぇ……」




 アイの姿を遠目で見ながら、エスは誰も聞く者のいない事を承知の上で、普通であればあり得ないことを呟いた。


 周りから見れば、完璧超人、スクリーム家を裏から、あらゆる方面で支える、影の大黒柱であるエスだったが、その心に抱えた闇は、彼の巧妙な演技によって、一寸も漏れ出ることなく隠されていた。


 アイにタオルを差し出しに行きたいのを堪えながら、エスは執務室へと戻った。



 今朝までに届いた屋敷宛の多くの手紙を、誰宛に渡すか振り分け、主人向けのものは内容を検めてから、自分で片付けられる仕事は片付け、指示を仰ぐべきものをメモする。

 直ぐに済む毎日の、エスの仕事の一つだ。


 ぱさ、ぱさ、と幾つもの手紙が分類され、数分と経たずに、やるべき仕事と、主人に尋ねるべきことが整理される。


 今日の仕事は多くないな。


 だいたい、国を挙げての行事があるようなとき程忙しく、今は余裕のある時期だった。

 軽い仕事を済ませたことで、エスは一瞬物思いに耽った。

 以前は、こうして一瞬でも物思いに浸ることなどは無かった。


 そう、アイが記憶を失うまでは。


 元々、エスは、アイに対して、雇用主の面倒なガキ、くらいのイメージしか持っていなかった。


 一番無茶な要求をしてくる相手であり、とはいえ、感情を排して接すれば、それほど気にもとまらない子供でもあった。


 エスにとってはアイの醜い感情も、そうなるに至った要因……甘やかされて育つ環境や、生まれ持ってしまった強大な魔力、それを発散できない女性という境遇など、も手に取るように分かっており、ケアが欠かされてはそう育つのはしょうがないな、と、他人事のように眺めていた。


 エスは度々意外にも思われることに、ミルフィーユよりも遅く屋敷に雇われている。

 彼が来た頃には、既にアイの人格は、はっきりと悪らしきものに傾いていた。


 そう、アイが記憶を、失うまではだ。



 アイが目を覚まし、まるで別人のように無垢な瞳をエスに向けたとき、彼は初めて、アイを美しいと思った。

 そして、見た目だけでなく、マドレーヌを部屋に招き、説得するその聡明さを見て、彼は以前の彼女が死んだのだと、確信した。


 他人の目など、いくつも見てきた。


 そして、そのほとんどが、俗世に濁り、腐り、生きているような価値のない奴らで、その命の灯が消える最後の瞬間まで、澄むことが無い。

 唯一マシな瞳をしているのが、館の主人と妻、アイの両親だったが、残念ながら、彼が初めて会った時には、アイの瞳は既に暗く濁っていた。


 しかし、それが突然、澄んだ瞳となった。

 だが、彼は知っていた。


 一度濁った人間の目は、絵具を垂らした水のように、どんな色を加えても透明さを取り戻すことはないのだ。


 命の間際という、人生におけるピークであったとしても、人は変わらない。


 そのことを固く信じるが故に、彼は、彼だけは、以前のアイが死んだのだと、もう、記憶を取り戻すことはないのだと、はっきりと理解していた。

 彼が、今のアイに見るイメージは、透明さを保ったまま、固く、冷たく、鋭く、そして儚くそこにある、氷そのものだった。



「最近なんか嬉しそうですわね、エスは」


 ミルフィーユは屋敷の中での位置づけとしては、エスの下、そして他のメイドを束ねる立場でもあった。

 しかし、エスより以前から屋敷にいることもあり、エスには親しく話す。


「そうか?」


「ええ。仏頂面は変わりませんが、考えが柔軟になった気がします」


「ふむ……」


 二人は、広い屋敷の廊下を見回りながら、気が付いたところをメイドに指示を出し、掃除をさせたり、不足品を補充したりしていく。


 考えが柔軟になった、と言われ、アイの影響かもしれない、とエスは思った。

 最近の彼女はどうにも深謀遠慮とも言うべき、先々を見た考え方をする。

 目先だけ見ていてはだめだと、エスもふと思い始めていた。


 アイからすれば、それはバッドエンドを避けるため、欠かさざるべき未来の予測だったが、エスには当然、知る由もなかった。


「ねぇ、歩くのが……いつも以上にっ……早くないですか??」


 息を切らして追いつきながら、ミルフィーユが言う。


「そうか。すまん。少し考え事をしていた。」


「全く……そんなんだからイケメンなのに、女ができねーんですわよ……」


「余計なお世話だ。ときに……お嬢様が視察に行かれた、訓練はいかがだったのだ?」


 エスは足を止め、いつか聞こうと思っていたことを、ミルフィーユに尋ねた。


「聞いてよ!ずっと話したかったんだから。それがね……」


 ミルフィーユはよくぞ聞いてくれたとばかりに、エスに全て話した。


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