1 あ、あ、悪役令嬢だーッ!
ある寒い雪の日。
雪など滅多に降ることのない地元の、いつも通っている屋外の階段で、積もった雪に足を滑らせて、俺は転んでしまった。
無駄に長い階段の高いところから転げ落ち、身体中が次々に負傷していく感覚。
ガン、ガン、バキッ!と、ぶつかる度、およそ人間から聞こえていいはずのない音がする。
どこかを必死で掴もうとするが、何も掴めず、取り逃す。
痛みの最期に、鈍く重い衝撃。
そこで意識を失った。
意識の冷めない夢の中。
夢とはいつも荒唐無稽な出来事が繰り広げられるものだ。
俺はこれはきっと夢だと、何となく認識していた。
綺麗で豪華な屋敷の中、大広間で繰り広げられるパーティの中にいるようだった。
その全体が見渡せる、階段の踊り場の上。
目の前には、綺麗な金髪の女性と、同じく金髪の長身の美男子がいる。
「許せませんわ!そんな女……!」
勝手に自分の唇が動き、その言葉が発せられた。
その声は自分が体内を通して鼓膜から聞きなれた声ではなく、綺麗なか細い声だった。
しかし、夢の中では得てして、そうした違和感は見過ごされるものだ。
そして俺は、身体の前で、手を構えると、金髪の女性の方へと手を掲げた。
それはまるで、誰かに攻撃の合図をするかのような動きだ。
「やめないか!」
そう言いながら男が、動かそうとしていた俺の腕を上へと払いのけると、俺はバランスを崩してしまう。
「きゃぁっ!」
「しまった……!」
そしてついさっき初めて知った感覚を、再び味わった。
階段から転げ落ちる、天と地がひっくり返る感覚。
夢の中だというのに、そこで再び、意識を失う。
ようやく目が覚めた。
妙な悪夢を見た……。
辺りを見回すと、自室のベッドではない。
身体じゅうが痛い。
階段から落ちた痛みだろう。
いつもの寝床ではない場所で目覚めると、たとえ自分が外泊していたりするにしても、一瞬戸惑うものだが、ここは本当に知らない場所のようだった。
妙に凝った装飾が、この部屋の壁と柱の一部には施されている。
天井には、見たことのない形の電灯のようなものが付いている。
病院ではなさそうだ。
痛みにきしむ上体を無理やり起こす。身体が重い。自分の身体ではないかのようだ。
見ると、ベッドのすぐ隣で、メイド服に身を包んだ、栗色の髪の女性が、すやすやと椅子に腰かけたまま寝ている。
「あのー……」
一声発して、違和感に気が付く。よく知った自分の声ではなく、妙に甲高い、小鳥がさえずるような声が、喉から体内を通じて耳に届く。
それは、夢の中で聞いた、自分の声と同じだった。
見下ろすと、見慣れた手ではなく、細く白い、華奢な指がそこにある。
そういえば、妙に身体が重いのは、胸のあたりに感じる妙な……皮膚が突っ張るような、身体を揺らすたびに、重力に胸周りの皮膚が引っ張られるような、そんな感覚のせいかもしれない。
で、見下ろすと、衣服の上からもはっきりとわかるくらい、胸が膨らんでいた。
「ふぁっ?!」
「お、お嬢様!!目が覚めたのですね!!」
「ひぇぇっ?!?!」
身体の変化に戸惑う間もなく、隣にいたメイドが目を覚まして叫んだので、二重に驚いてしまった。
「もう目を覚まさないかと……すぐ術士に回復してもらったのに、全然目を覚まさないから……もう三日目ですよ?待っていてください、すぐにご主人様を呼んでまいります!!!」
「ちょちょちょ、ちょっと待った!!!」
思わず呼び止める。
「鏡、鏡ある?」
「あぁ、そうですよね。大丈夫ですお嬢様。不幸中の幸いですが、綺麗なお顔には傷一つついておりません」
そう言ってメイドが差し出してきた鏡は、無駄に重くてごてごての装飾がついた鏡だった。
いや、もっと百均とかで売ってる感じの軽いやつでいいんだが。
そう思いながら鏡を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、美少女だった。
さらさらと流れるような長い黒髪、つんとしたつり目で、大人っぽい顔立ちではあるものの、まだ若いのか、どこかあどけなさの残る顔。見たことの無いような、紫色の瞳。
全てが、現実離れした美少女だった。
顔の角度を変えたら、鏡に映る美少女も、別角度から映るし、眉を動かせば、同じように動く。
顔をしかめると、妙に可愛げのある変顔が映る。
「こ、これは……」
自分の身体が女になっている……美少女に。
そして、あの夢のことが頭をよぎる。
もしかしてこれは……流行りのあれか……?
「お嬢様……?」
「階段から、落ちた、よね?」
「そうです……あの無礼な平民女のせいで……許せません」
違う、俺が言いたいのはその、夢の話じゃない。
俺は現代日本で、階段で足を滑らせ……あれ?
俺はその後どうなった?
まさか、死んだのか?
じゃあここは?
まさか、本当に、異世界。
そしてこのシチュエーション、おぼろげながらに知っている。
まさか、まさか……
あ……
あっ……!
「婚約者様もひどいですわ。お嬢様を守るどころか、あのような真似。意図せざることとはいえ、さすがに反省しているご様子でしたわ」
悪役令嬢だぁぁぁーーーーーッ!!!
俺は察した。
夢で見たと思っていたことが、俺が転生する直前に起きたことだというのであれば、この設定は、この身体は、完全に、悪役令嬢のものだ。
だがおかしいだろう、普通はこういう場合、女性が女性向け恋愛ゲームの世界とかに転生するものじゃないのか。
俺は男だし、恋愛対象は女の、ノーマルだぞ。
その手のゲームなんて、話に聞く程度で、やったことが無いし。
悪役令嬢に生まれ変わったところで、婚約者とゴールインするハッピーエンドですら、すでに俺にとっては既に、バッドエンドの一つだ。
「嘘だろ……」
俺は途方に暮れて、再び鏡を見たが、鏡は無情にも、動揺した黒髪の令嬢を映しただけだった。
頭をかかえていると、メイドが心配そうにしている。
「お嬢様。やはり、ご主人様とお母様を……」
「待って。記憶。記憶失ったっぽい」
「えっ?!」
「階段から落ちる前の記憶ない。自分の名前すら……わかんない」
そう言うと、メイドは顔面を蒼白にさせ、すぐに席を立って誰かを呼びに行った。
以前のことを何も知らないのは事実だ。
全て知っている体で進めるのは無理がある。
というのであれば、記憶を失ったことだけは伝えて問題ないだろう。
しかし、別の世界の男が、元居た女の居場所を奪って中にいます、なんて言ったら、やばいことになるに違いない。
そのあたりは慎重に進めよう……。
一瞬のうちに、そんなことを考えていると、どたどたと駆ける足音とともに、気品の高そうなおじさんと、綺麗な年上の女性が部屋に入ってきた。
「あぁ……!アイ!よかったぁ……目が覚めてよかったよぉ……」
自分と同じように長い黒髪をした女性、おそらく母が、ぎゅっと抱き着いてくる。
いい匂いがする……
そして、大きな胸が、腕に当たって柔らかさを伝えてくる。
どうやら悪役令嬢の名前はアイというらしい。
妙に日本風じゃないか?
「アイ……本当に何よりだ」
後ろに控えた、おそらく父親は、しみじみと頷いている。
ついには胸元で泣き始めた母親よりは、幾分か冷静だが、本当に心配していたのがよくわかる、真剣な表情だ。
「ええっと……その、記憶が……」
とはいえこっちからすれば、何もわからない人たちだ。
残念ながら、こちらは感動の涙を流すことはできない。
自分の本来の親は、元の世界でどうしているだろうか、などと、ぼんやりと考えていた。
「お母さんのこと、忘れちゃったの?本当にすこしも、おもいだせないの?」
まるで少女のようにうるうるとした瞳で、母親は問いかけてくる。
謎の罪悪感を感じるが、応えることはできない。
「ごめんなさい……」
「うぇぇぇ~~~ん!!!」
大の大人が声を出して泣くな……。
しかし可愛いなこの母親。
そんな母親の背中をさすりながら、困った表情で父親を見る。
「記憶の件は……回復術士に相談してみよう。ところで、氷魔法は問題なく使えるのか?あれもまた、お前の価値を高める一つであるから……」
ばつの悪そうな顔で、父親がそう言った。
しかし、俺の心は今までで一番ときめいていた。
氷魔法?魔法がある世界なのか?
医者と言わずに回復術士とか言っているので、もしやとは思ったが。
俺にも魔法が使えるのか?
それなら……事情が変わった。
俺がふと自分の掌を見て、指先を意識すると……
パキッ!
音を立てて、一瞬で人差し指の先に、四~五センチ程の尖った氷が生み出された。
「おぉ~~……」
表から、裏から、眺めてみても、その錐状の細い氷は確かに存在しており、光を乱反射して綺麗に輝いている。
今までで一番わくわくしながらそれを見ていると、父親はほっとしたように話した。
「ひとまずは良かった。しかしまぁ……魔法も身を立てる手段にはなるが……なるべくなら婚姻して家を立てることを一番に考えてほしいものだが……」
なにやら魔法よりも、例の婚約を進めてほしそうな物言いだが、俺の希望ははっきり逆を向いていた。
こうして、混乱と共に俺の悪役令嬢ライフは幕を開けた。
婚姻トラブルは面倒だが、魔法があれば、楽しい人生にはなりそうだ。
元々、ご立派な人生を歩んでいたわけでもないので、せめてこの世界では、まともな人生を歩めるようにしよう。
俺は人知れず、そんなことを考えていた……。
「ところで、俺……私の名前って、何なんですか?」
「スクリーム家のアイ。アイ・スクリームだよ。美しい名前だろう」
「は……?」
ダサッ!!!!
そこで、普通そこで……二つに切る?
絶対この世界自体、誰かのドッキリに違いない。
俺はもはや何も信じられなかった。
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